残響
風が無く蒸す炎天下。
ぎらんぎらんと陽が高く、一面しろく褪せて見える。不随意に膝が落ち背が曲がり、もはや汗も掻けず悪寒がする。
ぐらりぐらりと煮え滾る陽炎のうねりに目が回り、遂に頽れ、蹲ると、逆上せて草臥れた体が待っていましたとばかりに地べたへ伏して憩い始める。
焼けた小石が皮膚に埋まり、硬い青葉が頬に刺さる。乾いたにおいを嗅ぎながら、胡乱な半眼で先を見る。
何ら遮る物の無い田園を突っ切る畦道を、後もう暫く行けば山裾の民家へ辿り着けた。
暗む視界と遠退く音と微睡む意識の途切れ際に、上から差し掛かる影と、砂利を踏む足音を感じ取る。
*
一つ、瞬きした位のつもりで目を開けると、俯せの姿勢はそのまま、民家の廊下に移っていた。
磨き込まれた木の床に体の熱が染みている。
甘い木の匂いに巻かれつつ起きて振り返った背後は玄関で、半端に開いた戸の外に、炎暑の畦道が続いている。
上がり框から突き出た足が引っ掛かるついでに靴を脱ぐ。
誰か居ないか見て回るも、人が住んでいる様子はない。どこもそこもすっかり片付いて、建具が隅へ寄っている。
外で、どう、と風が渡り、追って、かしゃかしゃ、さかさかと、家の周りで枝葉が揺れ、屋根や壁に擦れる音が立つ。
淡いざわめきが遠退くと、元の静けさが際立って、ぴんと張った聴覚の糸を微かに爪弾く音に気付く。
家の右奥の辺りから、小さな人為の音がする。
隣家の窓から漏れ聞こえる、テレビや何かの音に似て、一か所から多彩に散っている。
定間隔の円い音や、時折はねる高い音、点からわあっと広がって、細かにさざめく音などから、炊事をしていると取れる。
けれど位置が低く、床を這って聞こえ、ぼんやり解れ、籠っていて、生身の音とは思えない。
音を伝って右奥へ行くと、薄暗い台所へ行き着く。
物が無ければ人も居らず、火の気も水気も絶えている。
縦の面格子が付いた、凹凸硝子の窓から、庭木の緑の木漏れ日が差し、朧な光の落ちる床に、1枚、割烹着が伏せている。
何度も洗われ、着倒されたろう、毛羽立った、柔そうな質感で、ふんわり山を成していて、音は中から聞こえてくる。
傍へ屈み、耳を澄ますと、手際良い調理音の合間に、離れた所で戸が開いたり、廊下を行ったり、何事か話したりする音もある。
更に良く聞き耳を立てれば、奥の方で扇風機が振れて、周期的に風鈴を鳴らし、軋む座椅子で誰やらが、広げた新聞紙を捲っている。
脇でばしゃばしゃ水が撒かれ、子供らと犬が燥ぎ合い、みんみん、しゃわしゃわ蝉が鳴き、季節は夏と窺える。
熱に倦んだ怠い意識が、ほうっと引かれるに任せ、毛羽立つ山の頂きを、そっと抓んで、持ち上げる。
するりするり横へ退けてゆくと、磨き込まれた木の床に、黒い頭髪が見え始め、小振りな人頭が現れる。
どう収まっていたものか、小玉スイカ程の大きさで、3、40の歳の頃の、頬がふっくらした男。
左側を床へくっ付けて、横向きに据わり、目を閉じて、何とも安らいだ表情で、赤子の如く親指を吸っている。
すう
ふう
と穏やかに行き交う男の息の源で、殊更まぶしく、何気ない、夏の日の音が鳴っている。
知らず知らず退け続けた先で、男の首と手が融け合い、捏ね掛けの生地の様にくねり、大樹の根の様にうねっている。
ある根に垂れ耳の雑種犬、ある根に半ば埋もれた子供、ある根に微笑む女の目元、ある根に節くれた男の手。
肌の粘土で模した風に、一色で、精巧に浮かび上がり、徐々に木の色を帯びながら、綯い交ぜになった終端が、艶めく床から生えている。
抓んだ指から力が抜け、割烹着が落ち、溜め息が出る。
干上がった喉を熱が抜け、流れ、流れて底を尽き、小玉の男と向かい合い、同じ高さで音を聞く。
いつかの夏の日の残響に、すう、ふうと耳を傾け、奥へ、先へと聞き入って、ゆっくり、くねり、うねり、融けてゆく。
ひんやり吸い付く木の床に、安らいで目を閉じる刹那、上から差し掛かる影と、緩やかに覆い被せられる、柔い布の感触を感じ取る。
茹って疼く足先が、ひんやり埋もれ、沈んで行って、次に浮かび上がる時には、嘗ての、眩しく、何気ない、夏の日を奏でる事だろう。
独りでに身が竦んでいって、丸まり、俯いた口元の、唇に触れた温かさを、含んで、離さないように吸う。
すう、ふうと息衝いて、吸う度に澱んだ熱が解け、暑夏の畦道の行き止まりで、半端に開いていた戸が閉まる。
終.




