濡れ衣で得意先を剥がされ刷毛を包んで川を渡りました。お宅の提灯、ひと月で破れます
「まあ」
喉の奥で、それだけが妙に丸く転がった。角の酒屋の旦那様は、わたくしと目を合わせず、軒の提灯へ顎をしゃくる。
「今年は間に合っているんでね」
「左様でございますか。では、張り替えの御用はなし、と」
「もう済ませた。ほら、きれいなもんだろう」
なるほど、新しい紙は白い。白ければよいのなら、豆腐も障子も提灯屋になれますわね。
頭を下げたまま一歩退き、軒を見上げる。西から吹き込む風に煽られ、提灯の右半分だけが遅れて戻った。骨が一本、いや、二本。節のところで痩せている。
「旦那様、西側の骨は替えていただきました?」
「紙を替えたんだ。骨まで要るものか」
「あと一度、強い西風を食えば抜けますわよ」
「うちはもう、あんたの客じゃないんだ」
旦那様の声は、酒樽のたがよりよく締まっていた。ごもっとも。御用のない職人が軒を数えていれば、未練がましくも見えましょう。
けれど抜けた骨は紙を突き、油皿を傾ける。酒一升なら三百文、提灯の火が暖簾へ移れば勘定不能。わたくしなら骨二本を替えて二十四文。二十四文を惜しんで店一軒を焼くとは、旦那様はずいぶん豪儀な遊びをなさる。
「差し出がましゅうございました。祭礼前で風も荒れますゆえ、どうぞお気をつけくださいませ」
「心配はいらんよ。お宅の義姉さんが見てくれたんだ」
軒下へ吊られた提灯の底で、紙の継ぎ目が細く笑っていた。あれは西風を知らない者の継ぎ方だ。
わたくしはもう一度頭を下げた。十二年、毎年この軒へ上がった足が、勝手に脚立の置き場を探す。いけない、いけない。脚立を出せば不法侵入、骨を替えれば押し売り、火を消せば営業妨害でございます。
「それでは、ご繁盛を」
店を離れて角を曲がっても、西風は背中から追ってきた。よその提灯になった途端、風まで愛想をなくすとは。まったく、町ぐるみで商売がお上手ですこと。
* * *
次に断られたのは、店先へ小提灯を三つ下げる油屋だった。
「今年は別の方へ頼みましたの。身内同士で取り合うのも、お気の毒でしょう?」
奥方様は新しい羽織の袖を押さえ、たいそう慈悲深い顔をなさった。羽織はざっと一貫二百文。小提灯三つの張り賃は百八十文。慈悲とは差額一貫二十文を眺めながら施すものらしい。勉強になりますわ。
「お気遣い、痛み入ります。裏口の一つは煤が回りやすいので、紙の色が変わる前にお替えくださいませ」
「今度の方は、長く保つとおっしゃっていたわ」
長く。便利な言葉である。ひと月も一年も、昨日より長ければ嘘にはならない。
三軒目では祭礼の大提灯が作業場に横たわっていた。わたくしが毎年請けてきた、子ども二人なら中へ隠れられる大きさのものだ。紙はもう半分ほど張られ、糊の照りが骨の際で途切れている。
一度しか引いていない。
あの大きさは、薄い糊を二度引く。最初で紙を骨へなじませ、乾き際にもう一度、雨の重みを骨へ逃がす。糊一合は十二文。十二文を惜しんで大提灯一張り二貫を賭場へ置くなんて、景気のよい話だ。わたくしも胴元なら褒めて差し上げたい。
「祭礼の張りも、もう間に合っているそうだ」
世話役の男は、こちらへ来ない目で言った。
「承知いたしました」
「義姉さんは手が早いな。あんたは二度も糊を塗るから、仕事が遅い」
「二度引きの分は張り賃へ足しておりませんけれど」
「そういう細かい話じゃないんだよ」
細かい話でございますとも。提灯は紙より先に勘定から破れるのだ。十二文を細かいと笑う方は、二貫を失ったときだけ声が大きい。世の中、実に張り合いがございます。
わたくしは作業場を出て、川の見える土手へ腰を下ろした。包みを開くと、朝の握り飯はすっかり冷えている。海苔はしんなり、梅干しは種ばかり立派。今日の稼ぎは零文、握り飯の原価は十文ほど。食べれば損失十文、捨てれば損失十文と空腹。食べる一択ではありませんか。
かじるたび、紙の目を読み違えた仕事がなかったか数えた。糊を濃くしすぎた冬。乾きの遅い軒。継ぎ目を半寸ずらした春。思い出せばいくらでも出てくる。職人の反省など、底へ穴を開けた財布と同じだ。銭は入らず、落ちるものだけ際限がない。
三軒とも、わたくしの手から一軒ずつ離れた。偶然にしては行儀がよい。疑うなら自分の腕から。そう教わってきたが、自分を疑うのは元手が要らないぶん、つい仕入れすぎる。
最後のひと口を飲み込む。冷えた握り飯は腹へ落ちても、ちっとも客にはならなかった。
* * *
「姐さん」
夕方、氏子総代が店の裏口へ回ってきた。いつもなら用件を三文字で済ませる方が、その日は敷居の木目をずいぶん長く数えている。
「総代さん。祭礼の御用でしたら、義姉さんが承っておりますわ」
「ああ」
「大提灯は、雨に当てぬようお伝えくださいませ。糊がまだ——」
「そうじゃない」
総代さんは口を閉じ、また開いた。無口な方が言葉を選ぶと、こちらまで息の値段を数えたくなる。
「義姉さんが先に回った。酒屋にも、油屋にも、祭礼の衆にも」
「何をおっしゃったのです?」
「あんたに任せると、すぐ駄目になると。それから——」
総代さんの顎がわずかに下がった。
「あの張りは緩い」
裏庭で干していた刷毛から、糊の雫が一つ落ちた。
なるほど。偶然三軒、仲よく同じ判断へたどり着いたのではない。道案内がいたわけだ。しかも義姉さん直々の御案内。案内賃なしで客まで運んでくださるとは、あちら側から見れば大層な親切である。
「左様でございますか」
「それだけか」
「はい。お知らせくださり、ありがとうございます」
「言い返さんのか。十二年やってきたんだろう」
言い返すには、一軒ずつ戸を叩かねばならない。わたくしの糊は濃い、骨の反りも読める、義姉さんより長く保たせられる、と。職人が仕事をせず、自分の口へ紙を張り始めたらおしまいだ。しかも舌は骨がないぶん、いくらでも膨らむ。
わたくしは綴りから紙を三枚切った。酒屋には西風が強くなる前、油屋には煤染みが輪になる前、祭礼の衆には次の雨の前。直すべき時だけを書き、折った角を爪で丸く潰した。
「これを三軒へお願いできますか」
「まだ案じるのか」
「火は、誰へ頼んだ提灯かを選びませんもの」
三枚とも、角は丸い。
総代さんは三枚を懐へ入れた。何か言いかけたが、結局、鼻から長く息を出しただけだった。
店の表では義姉の亭主が客へ笑っている。
「ええ、身内の癖はよく分かっておりますから。今までの不出来も、こちらで直しておきますよ」
わたくしを見つけると、その笑いを半分だけ畳んだ。
「総代に泣きついたって、注文は戻らんぞ」
「左様でございますか」
「おまえは昔から手数ばかり多いんだ。少し暇になったくらいで、かえってちょうどいいだろう」
客の前では「こちら」、わたくしには「おまえ」。呼び方を替えるだけで二役こなすとは、張り賃を取ってよい芸である。もっとも、一文も払いませんけれど。
わたくしは裏へ戻り、干していた刷毛を裏返した。毛先まで乾くには、あと半刻。
その半刻で、決めるには足りた。
* * *
「では、この町では張りません」
誰に聞かせるでもなく口へ出すと、店の柱が一本、きしんだ。返事にしては遅すぎる。十二年分、考えていたのかもしれない。
刷毛を井戸端でもう一度洗った。指の腹で毛先をほぐし、濁りが消えるまで水を替える。篦には薄く油を引き、乾いた布で包む。紙も骨も糊桶も持たない。洗った刷毛と篦だけを風呂敷へ置き、四隅を結んだ。
仕事着を脱いで、外出着へ替えた。袖に残っていた紙くずをつまみ出し、綴りは店の棚へ戻す。元の町で受けた仕事は一つもない。ならば置いてゆく義務も、引き受けてゆく後始末もない。
「どこへ行くつもり?」
義姉は、空になった道具掛けを見て眉を上げた。
「川向こうへ」
「子どもみたいな意地を張らないで。忙しくなったら手伝わせてあげるから」
手伝わせてあげる。なんと値打ちの高い御慈悲でしょう。注文を外へ運び、後始末だけ内へ戻す。往復の渡し賃までこちら持ちときた。採点するなら百点満点で、厚かましさ百二十点。
「お気遣いなく」
「どうせ戻るさ」
義姉の亭主が鼻で笑った。
「身内なんだから、最後にはここへ戻る。刷毛一本で何ができる」
「篦もございますわ」
「そういう話をしてるんじゃない」
皆様、細かい話を嫌う。提灯も暮らしも、細い骨の一本で保っているというのに。
わたくしは店を出た。軒を見れば風向きを数え、紙の揺れを見れば張り賃へ直す。豆屋の軒は北風が巻く。履物屋は雨垂れが近い。橋の手前の茶屋なら、小提灯一つで百文。いつもの勘定が頭の中を走り、足だけが先へ先へと進んだ。
橋の半ばで、包みを右手から左手へ持ち替えた。
「姐さん!」
追ってきた氏子総代の声が、川風に押されて低く届いた。わたくしは振り返らず、欄干の向こうを見た。
元の町の軒が並んでいる。毎年どこから風が入り、どの家の紙が先に褪せ、どの骨が雨の翌日に鳴るか、全部知っている。
そのとき初めて、何も数えなかった。
総代さんが隣まで来た。膝へ手をつき、一度だけ大きく息を吸う。
「姐さん。おれたちはあの家に頼んでたんじゃない。あんたの手に頼んでたんだ」
川の上で、包みの結び目が風に震えた。わたくしは両手で持ち直した。
「わたくしはこの町の軒を、十二年、わたくしの軒だと思うて見上げておりました」
総代さんは何も言わなかった。
わたくしも、それ以上は言わなかった。橋板を一枚踏み、もう一枚踏む。向こう岸には、まだ風向きを知らない軒が並んでいた。
わたくしは橋を渡り切った。
* * *
ひと月のあいだ、義姉は機嫌がよかった。
提灯など、骨へ紙を張れば同じだ。二度も糊を引き、軒ごとに風を見て回るから、あの義妹は仕事が遅かったのだ。空いた注文を自分が受ければ、客も店も困らない。義姉はそう考え、大提灯を一度の糊で仕上げた。
祭礼の日、雨が降った。
夜には上がり、町の者は予定どおり大提灯へ火を入れた。濡れた紙は表だけ乾いて白く見えたが、骨の際には雨の重みが残っていた。
笛が鳴り、担ぎ手が最初の角を曲がる。大提灯が横へ振れた。
ぺり、と紙が骨から浮いた。
次の一歩で、支えを失った骨が抜けた。白い胴が内側へ折れ、火の色を一瞬のみ込む。裂け目が上から下へ走り、提灯の片側が長く垂れた。
「あっ」
義姉の亭主はそれだけ言い、人垣の後ろへ下がった。義姉が振り向いたときには、もう祭礼の法被の群れへ紛れ、通りの端からも消えていた。
親方筋の老人が火を落とさせ、裂けた紙を両手で持ち上げた。骨の際を指でなぞり、義姉を見る。
「次は任せられん」
「でも、これは雨が——」
「詫びる先を回る。直す順は、おれが決める」
老人は裂けた大提灯を担ぎ上げた。弁解を一つも拾わず、祭礼の列から義姉の仕事を外へ運び出した。
その夜、西風が強くなった。
角の酒屋の軒で、新しい紙が大きく膨らんだ。痩せた骨が一本抜け、もう一本を巻き込む。底が傾き、油皿の火が紙を舐めた。
店の者が水を浴びせ、火は消えた。暖簾は濡れ、軒には黒い骨だけがぶら下がった。
翌朝、義姉は作業場で声を上げた。
「わたくしが悪いんじゃないわ。あの子が使っていた刷毛が——」
道具掛けの釘には、何もなかった。
「あの子の篦が……糊桶が……」
義姉の指には、乾いた糊が白く残っていた。
義姉の口だけが開いたまま、音をなくした。
* * *
次の月、元の町から義姉へ回る注文は減った。
酒屋も油屋も、今度は紙の白さより先に骨を見た。三軒へ渡った角の丸い言伝は、張り替えの時を外さず、どれも破損の前に届いていた。角を丸めた跡まで、難しい職人言葉より早く町を一巡したらしい。
義姉は氏子総代へ、身内を外すのかと迫ったそうだ。
「身内の話じゃない。灯を任せられるかの話だ」
総代さんはそれだけ返したという。無口な方は便利だ。余計な言葉がないぶん、値切る隙もない。
親方筋の老人は、大提灯の詫びを一軒ずつ済ませた。次の祭礼の請けから義姉を外し、誰のせいとも言わなかった。言わずとも、空の道具掛けと裂けた紙が、たいそうよく働いたのでしょう。
そのころ、わたくしは川向こうの古い物置で刷毛を干していた。
「それが噂の刷毛かい」
講の女が、腰へ両手を当てて覗き込む。
「噂になるほどのものではございません。毛先が揃っていて、糊を含みすぎず、十二年わたくしの愚痴を聞いても抜けなかっただけですわ」
「そりゃ亭主より上等だ」
別の女が即座に言い、皆で笑った。こちらの講では、亭主の値打ちも道具と同じ棚へ載せるらしい。よい市場ですこと。
氏子総代の口利きで、川向こうの氏子たちが集まっていた。けれど話を切り出したのは総代さんではなく、講の女衆だった。
「祭礼の提灯を頼みたい。大きいのが二張り、軒のが二十六」
「二十六ではございません。川べりの二軒を入れれば二十八ですわ。あちらは夜になると東から風が巻きます」
「もう数えたのかい」
「軒がございましたので、つい」
「病気だねえ」
「職人でございます」
女衆はまた笑い、綴りをわたくしの前へ押した。
「店の名じゃないよ。あんたの名で頼む。札にも、勘定にも、あんたの名を書く」
一人が、わたくしの名をきちんと呼んだ。
家の義妹でも、誰かの手伝いでもない。呼ばれた音が、物置の梁へ一度当たり、干した刷毛の上へ落ちる。
「承りました」
声が少し上ずったので、咳で値段を戻した。
「ただし、川べりの二軒は骨を一本増やします。大提灯は薄糊を二度。急がせても一度にはいたしません」
「灯が保つなら譲らないよ。祭礼の夜に消えるのだけは御免だ」
氏子の一人が短く言った。総代さんが、そこで初めて頷く。
「この人たちは、姐さんの手に頼む」
「では、手を高く売らねばなりませんわね」
「張り賃を上げるのかい」
「甘酒一杯で考え直します」
「二杯出すよ。だから負けるんじゃないよ」
なんと恐ろしい講だ。値切るどころか飲ませて働かせる気である。こちらも望むところ。冷えた握り飯一つで十二年働いた女を、甘く見ないでいただきたい。
* * *
祭礼の夜、川向こうには風が出た。
川べりの軒では、風が東から入って壁へ当たり、渦になって提灯の底を持ち上げる。増やした骨がしなり、紙は息をするように膨らんで、元へ戻った。
大提灯はゆっくり揺れた。薄い糊を二度引いた紙が骨へ沿い、火の丸さを崩さない。笛が一巡し、太鼓が二巡し、子どもたちが三度その下を駆け抜けても、灯は一つも消えなかった。
わたくしの名を書いた札が、仕事場の入口に掛かっている。
見栄えのよい札ではない。紙は余り物、墨も少し薄い。札代にすれば十五文。けれど誰かの家の名の下へ小さく添えられるより、よほど高く見えた。ええ、わたくしの査定ですから異議は受け付けません。
張り終えた夜、講の女衆が火鉢の周りを詰めた。
「そこ、空けな。提灯の人が座れないだろ」
「わたくしなら、こちらで」
「働いた順に火鉢へ近いんだよ。遠慮するなら甘酒を減らす」
「座ります」
即答である。遠慮と甘酒を秤へ載せれば、甘酒が椀ごと勝つに決まっている。
差し出された椀は、両手へ熱かった。米の粒がとろりと舌へ触れ、生姜が喉を追いかけてくる。二杯で手を買うとおっしゃったのだから、一杯目で遠慮するのは契約違反。二杯目も堂々といただいた。
「いい顔で飲むねえ」
「これですわ。灯も甘酒も温度が命ですのよ。冷えた祭りは十二年で人を辞めさせますの」
女衆が笑い、わたくしのぶんだけ鍋の底から米を多くすくった。仕事の輪に空けられた席は、火鉢より温かい。などと口にすれば甘酒をもう一杯盛られそうなので、黙って椀を抱えた。三杯目も、まあ、契約の余白ということで。
帰り道、橋のたもとに義姉が立っていた。
祭りの灯が背後から照らし、頬の影を濃くしている。以前なら客へ向けていた柔らかな声を、義姉はわたくしへ差し出した。
「戻ってきてちょうだい」
「御用はございませんでしょう」
「あるわ。注文が回らないの。親方も何も聞いてくれないし、総代さんまで他人みたいに……。あなたが説明すれば、皆だって分かるでしょう?」
「何を説明するのでございます?」
「身内で少し行き違っただけだって。あなたも意地を張ったことを詫びれば、それで済むわ」
橋の上を風が渡り、川向こうの提灯が一斉に傾いた。どれも消えず、丸い灯を抱えたまま戻る。
義姉は一歩近づいた。
「お願いよ。忙しくなれば、また仕事を分けてあげる。だから明日から店へ——」
「あの張りは緩い」
義姉の足が止まった。
わたくしは頭を下げた。角の酒屋で覚えたのと同じ、客でなくなった方へ向ける深さで。
「どうぞ、別の職人へお頼みくださいませ」
橋を渡る。元の町の灯は背中にあり、川向こうの灯は風の中で待っていた。
講の女衆の笑い声が、まだ仕事場から聞こえる。鍋には甘酒が少し残っているはずだ。冷める前なら、あと半杯。半杯を捨てるなど、職人以前に人として許されませんわ。
わたくしは刷毛と篦の包みを抱え直し、自分の名で張った灯の下へ戻った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




