フルグラートルは二つの大地に立つ
梅雨の終わりの湿った風が、熱気を孕んで名古屋の街を包み込んでいた。七月。大相撲名古屋場所の開幕を目前に控え、街のあちこちから、びん付け油の甘い香りが漂ってくる季節だ。
名古屋駅近くの賑やかな通りから少し外れた路地に、その店はあった。緑、白、赤の三色の国旗が、湿った風に小さく揺れている。カジュアルなイタリア料理店『トラットリア・ルーチェ』。
ディナータイムにはまだ早い夕暮れ時、店を一人で切り盛りするチーフのタカシは、カウンターの奥で仕込みをしていた。大相撲の宿舎が愛知県内各所に置かれ、街で力士の姿を見かける時期ではあったが、まさか自分の店に「それ」が現れるとは夢にも思っていなかった。
カランカラン、とドアのベルが鳴る。
「ボナセーラ(こんばんは)」
低く、地響きのような、しかし驚くほど滑らかなイタリア語が店内に響いた。
タカシが顔を上げると、背の高い入り口さえ窮屈に見えるほどの巨躯がそこにあった。浴衣を粋に着こなし、頭には見事な髪型――まだ十両に上がったばかりの気鋭、それとも、幕下上位だろうか。結い上げた髪には、まだ大銀杏ではない小さな髷が載っていた。体重は百六十キロ、いや、百七十キロはあるだろうか。
驚くべきは、その力士の顔立ちだった。彫りの深い顔立ちに、鋭くもどこか人懐っこい琥珀色の瞳。彼は、大相撲史上初となるイタリア・ローマ出身の現役力士だった。
「い、いらっしゃいませ。お一人……ですか?」
「はい、一人。カウンター、いいですか?」
力士は日本語で応じると、巨体を器用に縮めるようにして、入り口に一番近い木製の丸椅子に腰掛けた。椅子がみしりと悲鳴を上げたが、彼は慣れた様子で体重の重心を微調整する。
「冷たい水、いや、ガス入りのミネラルウォーターはありますか?」
「あ、はい! サンペレグリノがあります」
「それを。あと、何かすぐできる前菜を」
注文を終えると、彼は浴衣の懐から大きな扇子を取り出し、パタパタと胸元を仰いだ。その姿は完全に日本の『お相撲さん』だが、漂う雰囲気は地中海の太陽そのものだった。
彼の四股名は、降偶螺十流。
本名、マッテオ・ベリーニ。ローマの土を踏み、コロッセオを見上げて育った青年が、なぜか日本の国技に魅了され、海の向こうからやってきて数年が経っていた。
ちょうどその時、店の常連客である初老の男性、大島が入ってきた。大島は熱狂的な大相撲ファンで、名古屋場所の時期になるといつもソワソワしている男だ。席につこうとした大島は、カウンターに鎮座する巨体を見るなり、目を丸くした。
「おいおいおい! あんた、もしかして……時雨ノ海部屋の、降偶螺十流関じゃないか!?」
大島の大きな声に、マッテオ――降偶螺十流は、白い歯を見せてニッコリと笑った。
「はい、降偶螺十流です。まだ『関取』じゃありません、幕下筆頭です。だから『関』は早いですよ」
「おお、そうか! でも今場所勝ち越せば十両、関取だろ! テレビや雑誌で見たよ。イタリア人の力士なんて初めてだから、応援してるんだ!」
大島は興奮を隠せない様子で、降偶螺十流の隣の席に陣取った。タカシが慌てて生ビールを大島に差し出す。
「タカシ君、見たかい。本物だよ。近くで見ると、やっぱり凄い迫力だなあ」
「本当に驚きました。まさか、うちのような小さなイタリア料理店に来ていただけるなんて」
タカシが差し出した生ハムとカプレーゼの皿を、降偶螺十流は嬉しそうに受け取った。
「場所前は、ちゃんこ鍋ばかりですからね。もちろん、部屋のちゃんこは世界一美味しい。でも、時々、故郷のオリーブオイルとトマトの味が、たまらなく恋しくなるんです。名古屋の宿舎に入ってから、ずっと我慢できなくて、今日は散歩の途中でついふらりと」
彼はフォークを器用に使い、トマトとモッツァレラチーズを一口で平らげた。その仕草の豪快さとエレガントさの同居に、タカシと大島は見とれてしまった。
「それにしても、不思議な四股名だよねえ」
大島がビールを飲みながら尋ねる。
「降る、偶、螺、十、流、で『ふるぐらーとる』。漢字も強そうだけど、どういう意味なんだい?」
降偶螺十流は、サンペレグリノのグラスを傾けながら、遠い故郷の空を思い描くように目を細めた。
「私の四股名は、ローマ神話の言葉からとっています。ラテン語で【fulgurator】(フルグラートル)。意味は『稲妻を投ずる者』です」
「稲妻を投ずる者……! かっこいいな!」
「ローマ神話の主神、ユッピテル(ジュピター)の別名なんです。ユッピテルは雷を操る最高神で、天から悪に立ち向かうために稲妻を投げつけるといわれています。親方が私の出身地を尊重して、この名前を考えてくれました。漢字は当て字ですが、『偶に螺の如く降る十の潮流』、つまり、予測不能で激しい、稲妻のようなスピードと回転の相撲を取りなさい、という意味が込められています」
「なるほどなあ!」
大島は膝を打った。
「確かにあんたの相撲は、立ち合いの鋭い踏み込みから、一気に中に入っての巻き替えが鮮やかだ。まさに稲妻だ」
「ありがとうございます。でも、まだまだです。先場所は立ち合いが遅れて、押し出される相撲が目立ちました。稲妻になるには、もっと心を研ぎ澄まさなければいけません」
真摯に語る彼の表情には、武道家としてのストイックさが満ちていた。しかし、タカシが厨房からパスタの茹で加減をチェックする香りが漂ってくると、彼の鼻がピクリと動き、すぐに親しみやすい若者の顔に戻った。
「いい香りですね。タカシさん、メニューにないものをお願いしてもいいですか?」
「ええ、材料があれば何でも作りますよ。何がいいですか? カルボナーラ、それともアマトリチャーナ?」
降偶螺十流は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「実は、名古屋に来てから、ずっと気になっている『ナゴヤメシ』があるんです。でも、相撲部屋の門限や食事の時間があって、なかなか外食できなくて。この店の看板に『名古屋の食材を活かしたイタリアン』って書いてあるのを見て、もしかしたら作ってもらえるんじゃないかと」
「ほう、何だい?」
大島が興味津々で覗き込む。
「『あんかけスパゲッティ』です。あれは、イタリアのパスタとは全然違うと聞きました。でも、名前はスパゲッティでしょう? ローマ人の私としては、一度食べて、その正体を確かめなければいけないという、奇妙な義務感があるんです」
タカシは一瞬呆気にとられ、それから声を上げて笑った。
「ハハハ! なるほど! 本場ローマの人から『あんかけスパゲッティ』のリクエストが来るとは思いませんでした。いいですよ、作りましょう。ちょうど仕込みで太麺のパスタを茹でてありますし、ソースのベースもあります」
あんかけスパゲッティ。それは、茹でた極太のスパゲッティをラードで炒め、胡椒が強烈に効いたトマトベースの粘り気のある濃厚なソース(あん)をかけた、名古屋独特の進化を遂げた麺料理だ。イタリア人からすれば「これはパスタではない」と言われてもおかしくない、独自の文化である。
タカシは腕まくりをした。
「よし、せっかくだから、ただのあんかけスパじゃなく、僕なりの『イタリアと名古屋の融合』で作ってみますね。少し時間をください」
「楽しみに待っています」
タカシが厨房でフライパンを叩き始めると、ジューという激しい音とともに、スパイシーな香りとラードの甘い香りが店内に広がり始めた。
その香りに誘われるように、もう一人、常連客が入ってきた。地元の大学で西洋史学を研究している女性教授の白山だった。彼女もまた、カウンターに座る浴衣姿の巨漢を見て驚いたが、大島が「まあ座れよ、今場所注目の降偶螺十流関だぞ!」と呼び止めると、目を輝かせて隣に座った。
「あら、本当に! ローマ出身の力士の方ですね。お目にかかれて光栄です」
「はじめまして、降偶螺十流です」
白山は、彼が先ほど語っていた四股名の由来を大島から聞くと、深く感心した様子で頷いた。
「【fulgurator】(フルグラートル)、ユッピテルの雷ですね。素晴らしい四股名です」
「ありがとうございます」
降偶螺十流は微笑んだが、その笑みはすぐに消えた。グラスの中で弾ける炭酸を、しばらく見つめていた。
「でも最近、自分がどちらの国の人間なのか、分からなくなることがあるんです」
彼はグラスを置いた。
「ローマに帰れば、日本人みたいになったと言われる。日本では、何年たってもイタリア人力士と呼ばれる。土俵では余計なことを考えないようにしています。でも、負けた日は、自分がどちらの土にも根を張れていないような気がするんです」
店の中が、少しだけ静かになった。
大島は何か言おうとして、言葉を見つけられないように口を閉じた。
白山は降偶螺十流を見つめ、それから穏やかに尋ねた。
「でも、日本の大相撲と古代ローマの神話には、実は深い共通点があるのをご存じですか?」
「共通点、ですか?」
降偶螺十流は顔を上げた。
「ええ。日本の相撲は、もともと神々に豊作を感謝し、祈りを捧げる神事として始まりましたよね。土俵の吊り屋根には四つの房があり、それぞれ四季と方位、その方角を守る四神を表しています。実は、古代ローマでも、スポーツや格闘技は神々への奉納行事だったのです」
「確かに……」
降偶螺十流は頷いた。
「コロッセオで行われていた剣闘士の闘いも、元々は死者の追悼や、神々への生贄の代わりとして始まったと言われています」
降偶螺十流が応じると、白山は嬉しそうに頷いた。
「その通りです。そして、ローマ神話において、大地そのものを司り、全ての生命を育む最も偉大な女神がいます。私たちは彼女をこう呼びます。【magna mater】(マグナ・マーテル)――『偉大な母』と」
「マグナ・マーテル……。ギリシャ神話のキュベレーのことですね」
「ええ。彼女は自然そのものであり、不屈の生命力と、すべてを受け入れる大地の象徴です。大相撲の『土俵』は、まさに土、つまり大地で作られていますよね。力士の皆さんは、毎日その土の上でぶつかり合い、汗を流し、大地のエネルギーを全身で受け止めている。私は、降偶螺十流さんが土俵に上がる姿を見たとき、ローマの【magna mater】の加護を受けた戦士が、日本の大地の神と交信しているような、不思議な神聖さを感じたのです」
白山の言葉は、降偶螺十流の胸に深く突き刺さったようだった。彼は自分の大きな手のひらを見つめた。毎日、泥にまみれ、擦りむき、それでも掴みかかっていく土俵の土。
「マグナ・マーテル、偉大な母なる大地……」
彼は噛みしめるように呟いた。
「そうですね。私が日本に来て、初めて土俵に上がったとき、不思議な安心感がありました。言葉も通じない、食べ物も違う異国なのに、土俵の上に立つと、足の裏から不思議な力が湧いてくるのを感じたんです。それは、ローマの土も、日本の土も、同じ『偉大な母』だからなのかもしれません。私は今、日本の土俵という母に育てられているんですね」
彼の言葉に、大島は感動して涙ぐみ、白山は深く微笑んだ。
「お待たせしました! 特製、トスカーナ風あんかけスパゲッティです!」
タカシが大きな声を上げて、カウンターに巨大な皿を置いた。
それは、普通のあんかけスパゲッティとは一線を画す、芸術的な一皿だった。
ラードの代わりに上質なオリーブオイルで香ばしく炒められた2.2ミリの極太パスタ。その上には、愛知県産の完熟トマトと、イタリア直輸入のポルチーニ茸、そして数種類のスパイスをじっくり煮込んだ、特製の「あん」がたっぷりと注がれている。トッピングには、あんかけスパゲッティの定番である赤ウィンナー……ではなく、イタリアのソーセージ、サルシッチャがゴロゴロと転がり、仕上げにたっぷりのパルミジャーノ・レッジャーノが雪のように削りかけられていた。
「うわあ……!」
降偶螺十流の目が、子供のように輝いた。
「これは、見た目だけでノックアウトされそうです」
「さあ、冷めないうちにどうぞ。フォークじゃ物足りないでしょう、箸を使いますか?」
「はい、お箸でいただきます」
降偶螺十流は、太い箸を器用に使い、極太の麺に濃厚な「あん」をたっぷりと絡ませた。そして、大きく口を開けて一気にすする。
ジュルルッ、と豪快な音が店内に響いた。
麺を噛みしめるたびに、彼の表情が驚きから歓喜へと変わっていく。
「……美味い!!」
彼は思わずイタリア語ではなく、日本語で叫んだ。
「どうですか、本場の人の口に合いますか?」
タカシが心配そうに尋ねる。
「最高です、タカシさん! 麺のコシは、イタリアのアルデンテとは違いますが、このモチモチした食感が、濃厚なソースをしっかり受け止めている。そしてこのソース! トマトの酸味の奥に、黒胡椒のスパイシーな刺激がある。これは、ローマの伝統的なパスタ『カチョ・エ・ペペ(チーズと胡椒のパスタ)』の刺激的な辛さと、地中海のトマトソースが、名古屋の『あんかけ』という魔法で一つになったような味です!」
「よかった!」
タカシはホッと胸を撫でおろした。
「それに、このサルシッチャが、ソースのスパイスに負けない強い旨味を出している。これはまさに、イタリアと名古屋のハイブリッド、いや、土俵の上での激しいぶつかり合いのようです!」
降偶螺十流は興奮した様子で言い、再び麺をすすった。百六十キロを超える巨体を維持する彼の胃袋にとって、大盛りのパスタなど数口の量に過ぎない。しかし、彼は一口一口を愛おしむように、じっくりと味わいながら食べていた。
「大島さん、白山さん、皆さんも一口どうですか? この美味しさは、一人で独占するのはもったいない」
「お、いいのかい? じゃあ、お裾分けを……」
タカシが小皿を差し出し、大島と白山もその特製パスタを口にした。
「おおっ! これは普通のあんかけスパより、上品だけどパンチがある! ビールが進む味だ!」
大島が目を見開いた。
「本当ね。トマトの旨味が凝縮されていて、スパイスの刺激が体を芯から温めてくれるわ。名古屋の暑い夏を乗り切るのにぴったりね」
白山も満足そうに頷いた。
店内に笑顔が広がる。外は相変わらずジメジメとした不快な暑さだったが、この小さなトラットリアの中だけは、爽快な風が吹き抜けているようだった。
皿を綺麗に平らげた降偶螺十流は、満足そうなため息をつき、お茶(タカシが気を利かせて出した冷たい麦茶)を飲み干した。
「ごちそうさまでした。故郷の味を思い出しながら、名古屋の新しいエネルギーをもらいました。これで、今場所は戦えます」
「降偶螺十流さん、名古屋場所、期待しているわよ」
白山がエールを送った。
「あなたの四股名【fulgurator】のように、鋭い稲妻で相手を圧倒してください。そして、日本の【magna mater】、大地の神様に、あなたの素晴らしい相撲を捧げてね」
「はい。私はローマの息子ですが、今は日本の相撲の息子でもあります。二つの国の、二つの『偉大な母』に恥じないよう、泥だらけになって戦います」
「おう、期待してるぞ!」
大島が彼の逞しい腕を叩いた。
「俺は毎日、体育館に通うからな。東の土俵からあんたが登場するのを、大声で応援するよ!」
「ありがとうございます。大島さんの声、土俵まで届くように頑張ります」
降偶螺十流は立ち上がり、浴衣の襟を正した。
懐から財布を取り出そうとする彼を、タカシは手を振って制した。
「お金はいいですよ、降偶螺十流さん。これは、未来の『イタリア人関取』への、僕からの投資です。その代わり、十両に上がったら、またこの店に食べにきてください。その時は、もっと凄い『ナゴヤ・イタリアン』を考案しておきますから」
降偶螺十流は一瞬驚いたが、すぐに深く頭を下げた。日本の「お辞儀」の作法が、彼の体に完全に染み込んでいるのが分かった。
「ありがとうございます、タカシさん。その約束、必ず守ります。次にここへ来るときは、関取になって、勝ち越しの報告をします」
彼は店内の全員に、もう一度温かい微笑みを向けた。
「ボナ・フォルトゥーナ(幸運を)。皆さん、良い夏を」
カランカラン、と再びベルが鳴り、降偶螺十流は店を出て行った。
路地へと出ていく彼の後ろ姿は、夕闇の中でも際立って大きく、そして頼もしかった。びん付け油の甘い香りが、ほんの少しだけ店内に残り、地中海のオリーブの香りと混ざり合っていた。
「いい男だなあ」
大島がしみじみと呟いた。
「あいつは強くなるぞ。フルグラートル――稲妻を投ずる者、だったな」
「ええ」
タカシはフライパンを片付けながら微笑んだ。
「今場所の名古屋の土俵には、きっと凄い稲妻が落ちますよ」
数日後、大相撲名古屋場所が開幕した。
蒸し暑い名古屋の午後。まだ空席の残る館内で、幕下の取組が始まっていた。
一人の琥珀色の瞳をした力士が、土俵に上がった。
仕切り線の前に拳を下ろしながら、降偶螺十流は先場所の立ち合いを思い出していた。
イタリア人初の関取にならなければならない。ローマから来た自分が、ここで結果を出さなければならない。
そう思うほど相手の動きが気になった。呼吸を読みすぎ、踏み込む一瞬が遅れた。
けれど、今日は違った。
ローマと日本、二つの国を背負っているのではない。二つの大地に、足元から支えられている。
土俵の土を、足の指で強くつかんだ。
迷いはなかった。
相手の懐へ一瞬で飛び込み、電光石火の巻き替えから、そのまま一気に寄り切った。
『ただいまの決まり手は、寄り切り。寄り切って、降偶螺十流の勝ち』
館内に拍手が広がった。客席の一角から、ひときわ大きな声が飛んでくる。
「降偶螺十流! よくやった!」
大島の声だった。
土俵の砂を払う彼の足元で、日本の古き大地の神と、遠いローマのマグナ・マーテルが、確かにその不屈の息子を抱擁し、祝福していた。そしてその勝利の味は、あの夏の日の、少しスパイシーで温かい、あんかけスパゲッティの味がするのだった。
(完)




