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誰にも見えない色

作者: 森村征爾
掲載日:2026/04/29

僕は、空気になぜか色が見える。

子どものころは、それを匂いのせいだと思っていた。母の洗濯物は薄い水色、雨上がりの土はユラユラ動く緑、給食の時間にはパレットにぶちまけられた絵の具が空気中を漂っていた。世界は目に見えない色で満ちていて、誰もそれに気づかないのが不思議だった。

けれど口に出したことはない。変なやつだと思われるに決まっていた。


小学校六年の六月、プール開きの日。塩素の匂いが白い靄となって水面を漂う中、一本だけ赤い色が混じっているのを見つけた。

血のような赤だった。

その筋はプールサイドを這い、飛び込み台の前で立っていた高橋の足元へつながっていた。

高橋は人気者だった。泳ぎが速く、よく笑い、女子にも男子にも好かれていた。日に焼けた肩を揺らしながら友達を押しのけ、笛の音に文句を言っている。その周囲だけ、空気がじわじわと赤く滲んでいた。

僕は声をかけようとして、やめた。

お前、赤い色がしてる。

そんな言葉、どうやって信じてもらえる。

笛が鳴り、一斉に水へ入る。白い飛沫の中で、高橋の赤だけが尾を引いた。クロールで進み、ターンの手前で急に腕が止まる。顔が上がらない。

数秒後、歓声が悲鳴に変わった。

高橋は心臓の発作だったらしい。救急車が来て、午後の授業はなくなった。皆が泣き、僕も泣いた。高橋のためなのか、自分のためなのかはわからなかった。

もし言えていたら。

もし赤を信じていたら。

その日から、色のことは誰にも話していない。


成長してから、色は人の気持ちだと知った。

人の機嫌。場の空気。言葉になる前の感情。そういうものもまた、薄い靄となって漂っていた。

職場で誰かが怒りを呑み込んでいる日は、天井近くに鈍い黒が溜まる。祝いの席では金色の粒が照明の下で跳ねる。恋人と笑い合った帰り道は、夜道なのに薄桃色の靄が肩の高さを流れていく。

嫌なときは黒に近い。

楽しいときは明るい色。

単純な法則だった。

だから人生も、その色の通りにできているのだと思っていた。苦しい時期は過ぎれば明るくなるし、明るい時期には希望が続くのだと。

だが四十を過ぎたころから、様子が変わった。

朝の台所。駅のホーム。会社の廊下。馴染みの喫茶店。休日の公園。

どこへ行っても、空気の底に黒みが差している。

最初は世の中のせいだと思った。ニュースは暗く、人は余裕をなくし、誰もが疲れて見える。だから街全体が濁っているのだと。

明るい色を見たくて、人の集まりにも行った。

同窓会。地域の祭り。ライブハウス。笑い声の多い居酒屋。

だが人の多い場所ほど黒は濃かった。楽しげな声の裏で、焦り、見栄、孤独、諦めが煤のように舞っている。金色の粒も、桃色の靄も確かにある。けれどその下地には、拭いきれない黒が広がっていた。

ある朝、洗面所の鏡の前でネクタイを締めながら、ふと気づいた。

黒ずんでいるのは世界ではなく、僕なのではないか。

目尻の皺。覚えにくくなった名前。増えた薬。減っていく誘い。未来の予定より、残り時間を考える癖。

それらが薄い煤になって、見る景色すべてに混じっている。

この力は他人の感情を見るものではなく、自分の時間を見る力なのかもしれない。

老いを感じる能力。

そう思ったとき、不思議と腑に落ちた。


高橋のことを、ときどき思い出す。

彼は若かった。肩は日に焼け、歯は白く、将来サッカー選手になるだの海外へ行くだの、無責任な未来を笑って話していた。

なのに、あの日の彼の周りには赤が満ちていた。

若さは明るい色ではない。

長く生きることも、明るさの保証ではない。

色は年齢ではなく、終わりの近さを映すのかもしれない。

高橋の赤は突然燃え上がる炎だった。

僕の黒は、誰にも気づかれず少しずつ濃くなる夕暮れだ。

今朝、窓を開けると、冷たい空気が部屋へ流れ込んだ。

その中に、ごく細く白い色が混じっていた。

昔、プールで見た塩素の白に似ている。乾いて、頼りなく、すぐ消えそうな色。

僕はしばらく、それを見ていた。

やがて白は、朝日に溶けるように消えた。黒は相変わらず部屋の隅に沈んでいる。

それでも、たしかに見えたのだ。

まだ老いても終わりきっていない時間の色が。

老いは悪いものではない、それは成熟した人間にしかわからない境地である。


僕と言える年齢を過ぎた。


「……聞こえますか?」


今、私は病院のベッドに横たわっている。

耳元では家族たちが、涙をこらえながら私の名を呼んでいる。息子の震える声。娘のすすり泣き。妻の、若いころと変わらぬ少し低い声。

返事をしたい。

ありがとうと伝えたい。

けれど唇は動かず、瞼も開かない。

その代わり、閉じた瞼の裏で、色だけが見えていた。

黒はなかった。

赤もなかった。

恐れの灰色も、後悔の濁りも、もうどこにもない。

ただ、眩しいほど明るい色が、静かに、どこまでも広がっていく。

金でも白でもない。

春の朝焼け、夏の水面、秋の夕空、冬の雪明かり――生きてきた季節すべてを溶かし合わせたような色だった。

ああ、と私は思う。

この色を、ずっと探していたのだ。

子どものころから見続けた、誰にも言えなかった色の世界の答えを、いまようやく知る。


生きた時間すべてが混ざり合い、ひとつの光になることなのだ。

耳元で、誰かがまた私の名を呼ぶ。


眩しい匂いと色は、徐々に暗くなり…。


光はゆっくりと遠ざかっていく。

ああ。

最後に消えるのは、私の色だった。

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