何もできなかった私が、助けると決めました
屋敷を抜け出した二人は、夜の中を進んでいた。月は雲に隠れ、足元はほとんど見えない。頼りになるのは、ノエルが持つ小さな灯りだけだった。
「……寒いですね」とルークが小さく呟く。「手、離さないで」とノエルは短く言う。握る手に、少しだけ力を込める。離したら――もう二度と、戻れない気がした。
森を抜け、岩場を越え、どれくらい歩いただろうか。足の感覚が、少しずつ薄れていく。呼吸が白く滲み、夜気が肌に刺さる。
やがて、空の色がほんのわずかに変わり始めた。闇が薄れ、輪郭が浮かび上がる。それでも、まだ夜の名残は濃く残っている。
そのとき、空気が変わった。土の匂いが、濃くなる。
「……ここ」
足を止める。目の前には――崩れ落ちた大地が広がっていた。渓谷。その一部が、まるごと崩れている。岩が折り重なり、道は完全に塞がれていた。
「……っ」
息を呑む。思っていたよりも、ずっと酷い。人が埋まっていても、おかしくない。
そのとき。
「父ちゃん!!」
叫び声が、静まりかけた夜を裂いた。
「どこだよ! 父ちゃん!!」
ノエルとルークは同時に振り向く。岩の山の向こう。ひとりの影が、必死に岩の隙間へ声を投げていた。
「聞こえてるなら返事しろよ!!」
トアだった。小さな体で、岩にしがみつくようにして。爪が割れ、指先が血で滲んでいるのに、それでも、やめない。
「トア!」
思わず、ノエルが叫ぶ。
トアが振り返る。その目に、一瞬だけ驚きが走る。「……は?」すぐに、表情が歪んだ。
「何してんだよ、お前ら」
荒い息のまま、吐き捨てる。
「夕方、村の人たちが声聞いたって言ってたんだよ!」
再び岩に向き直る。「父ちゃん! 俺だ! トアだ!」
返事はない。それでも、叫び続ける。
ノエルは、少しだけ息を詰めた。そして、一歩、踏み出す。
「……あのときは、ごめんなさい」
トアの動きが止まる。ゆっくりと、振り返る。
ノエルは、まっすぐに見返した。
「助けに来たの」
その言葉に、一瞬、沈黙が落ちる。
次の瞬間、トアが笑った。乾いた、音だった。
「……は?」
信じていない。それが、はっきり分かる。
「何言ってんだよ」
立ち上がる。
「救援でも呼んでくれたのか?」
周囲を見渡す。誰もいない。ノエルと、ルークだけ。
その現実に、トアの顔が歪む。
「……はは」
小さく、笑う。
「やっぱりな」
視線が、冷たくなる。
「貴族は、庶民の命なんて捨てるんだろ? 村の人たちが言ってたぜ?」
言葉が、突き刺さる。
「助けるフリして、結局は見捨てる」
一歩、近づく。
「同情した顔しやがって」
拳を、強く握る。
「お願いしたって、誰も助けてくれねぇ」
声が、震えている。怒りか。悔しさか。それとも、期待してしまった自分への苛立ちか。
「帰れよ」
吐き捨てる。
「邪魔なんだよ」
その言葉に、ルークがわずかに身を引いた。それでも、ノエルの手だけは離さなかった。
けれど、ノエルは動かなかった。逃げなかった。
「……そうね」
小さく、呟く。
トアが、眉をひそめる。
「私、何もできなかった」
視線を落とす。あのときの自分を、思い出す。言葉も出なかった。手も伸ばせなかった。
「でも」
顔を上げる。まっすぐに、トアを見る。
「だから来たの」
声は、小さかった。けれど、震えていなかった。
「今度は、逃げない」
一歩、前へ出る。崩れた岩の前に立つ。
ノエルは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。それから――
「……助けるわ」
その言葉は、薄明かりに変わりゆく空の下で、確かに、この場所に刻まれた。




