何もできない私が、動くと決めました
村を出て、帰路につく。空は薄く曇っていた。行きとは違い、誰も口を開かない。乾いた土を踏む足音だけが続く。
しばらくして、ノエルは隣を歩くガランを見上げた。
「……ガラン」
低く呼ぶ。
ガランは視線だけを向けた。
「はい」
「崩落って……どこで起きたの?」
一瞬、間があく。問いの意図を測るように。それから、静かに答えた。
「この先の渓谷でございます。村から半日ほどの距離にございます」
ノエルは、その言葉を頭の中でなぞる。渓谷。半日。帰ってこない村人。
「……危ないの?」
小さく問う。
ガランは、わずかに目を細めた。
「地盤が不安定でございます。崩落は、今も続いている可能性がございます」
それだけ言って、前を向く。それ以上は、何も語らない。
ノエルも、もう何も聞かなかった。ただ、頭の中にはひとつの光景だけが残っている。土に額をつけて、頭を下げる少年。
「お願いします」
その声が、離れない。
屋敷に戻っても。食事をしても。湯に浸かっても。消えなかった。
夜が深くなる。部屋は静かで、風の音だけが微かに響く。ノエルは、布団の中で目を開けていた。眠れない。瞼を閉じても、浮かぶのは同じ光景だ。震える背中。助けを求める声。
(……どうして)
胸の奥が、ざわつく。
(どうして、何も言えなかったの)
自分の手を、ぎゅっと握る。何もできなかった。それが、どうしようもなく悔しい。
気がつけば、ノエルは布団から出ていた。冷たい床に足が触れる。躊躇は、ない。
机の上の蝋燭に火を灯す。小さな炎が、ゆらりと揺れる。その灯りを頼りに、本棚へ向かう。背の高い棚。整然と並べられた本の中から、一冊を引き抜く。
分厚い、革張りの本。
開く。
中には――地図が収められていた。
紙の上に描かれた、線と印。ノエルは、それを見つめる。渓谷。ガランの言葉を思い出す。
「この先の渓谷だ」
指先で、地図をなぞる。ここから半日。どの道を通るのか。どこが崩れているのか。何も分からない。
それでも。
視線は、離れなかった。
小さな炎が揺れ、影が紙の上でゆらめく。ノエルは静かに息を吸い、ゆっくりと吐く。
(……行かなきゃ)
誰に言うでもなく、心の中で呟いた。
その決意は、まだ小さい。けれど、確かにそこにあった。
夜は深く、静かに進んでいく。




