第53話:愚者の氷葬(後編)
「……クロード様。私と貴方なら、できます」
土煙の中で、私はクロード様の腕を掴んだ。
耳元で、ある「作戦」を囁く。
常識外れで、なおかつ彼のような規格外の出力を持つ人間にしかできない荒技。
クロード様は一瞬目を見開き――そして、不敵にニヤリと笑った。
「なるほど。……悪くない」
「タイミングは私が合わせます。全力でお願いします」
「ああ。任せろ」
クロード様が私を抱えたまま、大きく跳躍する。
瓦礫の山を飛び越え、怪物の頭上高くへと躍り出た。
「グルルルルァァァァッ!!」
怪物が私たちに気づき、醜悪な咆哮を上げる。
その体表から無数の蔦が槍のように伸び、空中の私たちを串刺しにしようと迫る。
「無駄だ! 逃げ場などない!」
怪物の口から、バルデル伯爵の勝ち誇った声が響く。
「物理攻撃は届かん! 魔法を放てば私が吸収してさらに強くなる! 貴様らは詰んでいるのだ! 大人しく私の苗床になれぇぇぇッ!!」
迫り来る触手の群れ。
圧倒的な質量と暴力。
だが、私は冷静にその瞬間を見計らっていた。
(……今ッ!)
私は空中で両手を広げ、最大出力のコードを展開した。
「『多重結界・完全密閉』!」
怪物の周囲の地面から、六枚の光の壁がせり上がる。
それは屋敷の残骸ごと怪物を包み込み、巨大な立方体の檻となって外界から遮断した。
触手が壁に激突するが、私の結界は微動だにしない。
「ハッ! 結界か! そんな薄っぺらい壁で私を閉じ込められるとでも!?」
伯爵が嘲笑う。
触手が結界の内側を叩き、ミシミシと嫌な音を立てる。
「無駄だ無駄だ! こんなもの、魔力を吸い尽くして内側から破ってやる! さあ、絶望しろ! 貴様らの魔力はすべて私の――」
「――勘違いするな、下衆」
頭上から、冷徹な声が降り注ぐ。
クロード様が、結界の天頂部に降り立っていた。
その手には、周囲の大気すら凍てつかせるほどの、青白い魔力が渦巻いている。
「ひひっ! 魔法か? やる気か?馬鹿め! 学習しない奴らだ! その膨大な魔力、すべて私が美味しくいただいてやるぅぅッ!!」
怪物が歓喜の声を上げ、口を大きく開けて待ち構える。
クロード様は無表情のまま、剣を振り上げた。
「『極大氷結魔法・氷狼の棺』!」
放たれた白い閃光。
それは灼熱のマグマをも凍らせる、絶対零度の奔流。
だが――その切っ先が向いたのは、怪物ではなかった。
閃光は怪物を素通りし、あろうことか、私が展開した「結界の外壁」に直撃したのだ。
「……は?」
怪物の動きが止まる。
魔力の奔流は結界の表面で弾け、白い霜となって壁を覆い尽くしていく。
「あ、あははは! 何だそれは! 狙いを外したのか!? 恐怖で手元が狂ったか! 見掛け倒しの皇帝め!」
伯爵の高笑いが響く。
魔力は一切、彼には届いていない。吸収できない。
彼は勝利を確信し、再び触手を振り上げようとした。
「さあ、終わりだ! 貴様らを磨り潰して……ん?」
その時だった。
ピキィ……。
奇妙な音が響いた。
怪物が振り上げた触手が、空中でピタリと止まる。
「……なんだ? 体が……重い……?」
怪物の動きが鈍くなる。
まるでスローモーションのように。
表面の粘液が白く濁り、パリパリと音を立てて固まり始めた。
「な、なんだこれは!? 魔力は来ていないはずだ! 魔法は当たっていないはずだ! なのに、なぜ……寒い!? 寒い、寒い寒い寒いッ!?」
伯爵の悲鳴が上がる。
そう、魔法は当たっていない。
だが、結界の中は今、地獄のような低温になっていた。
「理解できないか」
クロード様が、凍りついた結界越しに冷ややかに見下ろす。
「私は貴様に魔法など撃っていない。ただ、ソフィアが作った『箱』を、外側から冷やしただけだ」
「は……こ……?」
「貴様は魔力を吸収できるそうだが……あいにく、『冷気』という物理現象までは食べられないらしいな」
そう。これが私たちの作戦。
私は結界の「熱伝導率」だけを最大に設定していた。
クロード様が外壁を絶対零度まで冷やすことで、結界内部の熱を強制的に奪い去り、巨大な「冷凍庫」を作り出したのだ。
「ま、待て……やめろ……! 動か、ない……細胞が……死ん……」
マイナス100度を超えた世界では、生物の生存など許されない。
再生能力の源である細胞活動が、物理的に停止していく。
絶対零度。
物質の活動が全停止する、自然界では怒り得ぬ死の世界。
柔らかい蔦はガラスのように硬化し、ヘドロのような体液はダイヤモンドダストへと変わる。
「ソフィアを侮辱した罪、その身で償え」
乾いた音が響き渡る。
怪物は断末魔を上げることもできず、その巨体全てが美しい氷像へと変わった。
蔦の一本一本、細胞の一つ一つまで、完全に凍結したのだ。
これなら、胞子が飛び散る心配もない。
「……チェックメイトですね」
支えを失った巨大な氷像は、重力に従ってゆっくりと傾き――。
盛大な音を立てて崩れ落ちた。
かつて怪物だったものは、無数の氷の欠片となって砕け散り、朝日にきらめきながら消滅していった。
一応、ワクチンができるまで結界を維持し、飛散を防ぐ必要はあるが。
後に残ったのは、半壊した屋敷と、静寂だけ。
クロード様が瓦礫の上に降り立ち、剣を納めて私の方へ歩いてくる。
私は大きく息を吐き、へなへなとその場に座り込んだ。
緊張の糸が切れた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。
「ソフィア!」
クロード様が慌てて駆け寄り、私を支えてくれる。
「大丈夫か? 魔力を使いすぎたのではないか?」
「……ええ。少々、結界の維持で脳を使いすぎました。ですが……クロード様のおかげで、被害を出さずに済みました」
私は彼の胸に頭を預け、安堵の息を漏らした。
空を見上げると、分厚い雲が割れ、美しい朝日が差し込んでいた。
長い、長い夜が明けたのだ。
「……見事だったぞ、ソフィア。君の知恵がなければ、私はただ力任せに国を滅ぼしていたかもしれん」
「いいえ。あの作戦を実行できるのは、世界で唯一、クロード様だけです」
私たちは互いに微笑み合い、手を取り合った。
まだ解決すべき問題は山積みだ。
石化した人々の治療、黒幕の正体、そして私の改革の行方。
だが今は、この勝利を噛み締めていたい。
私たちは、二人でこの国を救ったのだから。




