第52話:愚者の氷葬(前編)
不気味な静寂だった。
バルデル伯爵の屋敷。本来なら多くの使用人で賑わっているはずの庭園には、人の気配がない。
代わりにあったのは、無数の「石像」だった。
逃げようと背を向けた姿勢のまま固まったメイド。
恐怖に顔を歪めたまま石化した庭師。
紫色の毒々しい蔦が、彼らを、そして豪華な屋敷を飲み込むように絡みついている。
「……酷い」
私は口元を抑えた。
胃の腑が鉛のように重くなる。
一体なぜ、これほどの惨劇が起きたのか。
怒りと疑問を抱えながら、私たちは屋敷の奥へと急いだ。
「ひっ、ひひ……来たか、悪魔め!」
屋敷の最奥。
執務室の扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
部屋中に散乱した魔導書と、怪しげな薬液。
その中心で、バルデル伯爵が目を血走らせ、震えていた。
「バルデル伯爵。……この惨状はなんだ」
クロードが静かに問う。
怒鳴り散らすよりも遥かに恐ろしい、絶対零度の声音。
「う、うるさい! すべて貴様らが悪いのだ!」
伯爵は泡を飛ばして、私を指差して叫んだ。
「貴様らが! 科学だの効率だのと、訳の分からぬものばかり持ち込むから! 我々『伝統ある魔導師』の立場がなくなるではないか! だから私は守ろうとしたのだ! 古き良き帝国の秩序を! 私の地位を!」
「……そのために、禁忌の生物兵器に手を出したのか。自分の屋敷の者たちすら犠牲にして?」
「必要な犠牲だ! 貴様のせいだぞ、ソフィア!」
「なっ!」
急な責任転嫁。
私のせい?
どこに私の責任があるというのか。
「貴様が余計な改革などしなければ、私はこんな手段を使わずに済んだのだ! この石ころになった使用人たちを殺したのは私ではない! 私を追い詰めた、貴様の『正義』だ!」
「そんな無茶苦茶な論理……」
いいかけて、思い当たる節があった。
心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
こうした懸念は、むしろ真っ先に気がついたことではなかったか?
ここについたとき、私が制度改革を推し進めることで、既存のインフラで成り立っていた社会を壊して、そこに暮らす人々の生活基盤を破壊することになるのではと、私は考えに至っていたはずだ。
それなのに、私は何の対策もせず、便利になればいいかと、推し進めようとした──。
私の、せい?
私がスラムの現状を見て、怒りに任せて彼らを追い詰めたから?
効率だ、改革だと急ぎすぎた結果、彼らに逃げ場をなくさせ、暴走させてしまったのか?
足元の石化したメイドの恐怖に歪んだ顔が、私を責めているように見えた。
(私が……殺したの?)
私の「正義」が、私の「変革」が、この惨劇を招いたのかもしれない。
その考えが頭をよぎった瞬間、足がすくみ、言葉が出なくなった。
その時だ。
「――黙れ、下衆が」
一喝。
空気がビリビリと震えるほどの覇気と共に、視界が遮られた。
クロードが、私と伯爵の間に割って入ったのだ。
「ク、クロード様……?」
「顔を上げろ、ソフィア。こいつの妄言に耳を貸す必要はない」
クロードは背中越しに私に告げ、そして伯爵を睨みつけた。
その瞳には、侮蔑と激しい怒りが燃えていた。
「地位? 権力? そんなもののために民を石に変えた者が、被害者ぶるな。ソフィアを見ろ。彼女は、誰からも賞賛されずとも、たった一人で国のインフラを支え続けていた。追放されても、泥にまみれても、友を救うために奔走する」
クロードは剣を抜き、切っ先を伯爵に突きつけた。
「彼女の爪の垢ほども及ばぬ貴様が、彼女を悪魔と呼ぶか。……笑わせるな。国を腐らせている『病魔』は、菌ではない。変化を恐れ、既得権益にしがみつき、他者の足を引っ張ることしかできぬ……貴様のその腐った性根だ!」
「ひぃッ……!?」
伯爵が腰を抜かして後ずさる。
クロードの言葉が、私の胸のつかえを焼き払ってくれた。
ありがとうございます。
クロード様。
考えの足りぬ私を、こうも評価してくださって。
「く、来るな……! 私には切り札がある!」
追い詰められた伯爵は、懐から一本のアンプルを取り出した。
中には、虹色に輝く液体が入っている。
「あの方……『協力者』様からいただいた、この『完全版ワクチン』さえあれば! 私は菌を支配し、無敵の力を手に入れられるのだ!」
「……いや、待って。様子がおかしい!」
私が声を上げた。
モノクルでその液体をスキャンする。
……成分構成が異常だ。あれはワクチンなんかじゃない。
あれは──。
「やめて! それは罠です!」
私の制止も聞かず、伯爵は狂ったようにアンプルを首筋に突き立てた。
「ふははは! 見ろ! 力が……力が溢れて……!?」
ドクンッ。
伯爵の体が、あり得ない角度に膨張した。
「あ、が……? な、んだ……これ……!?」
皮膚が裂け、中から血ではなく、太い緑色の蔦が噴き出す。
ワクチンではない。
あれは、菌の成長を極限まで加速させる「培養促進剤」だ。
「どうやら、最初から伯爵を『生きた爆弾』にするつもりだったようだな」
クロード様が私を背後に庇う。
「オ、オオオオオ……!!」
伯爵の絶叫は、すぐに人ならざる咆哮へと変わった。
肉体は部屋中の菌糸と融合し、屋敷そのものを飲み込んで巨大化していく。
天井が吹き飛び、瓦礫の中から現れたのは、全身がヘドロのような粘液と蔦で構成された、醜悪な巨人だった。
「グルルルルァァァァッ!!」
怪物が腕を振るう。
それだけで突風が巻き起こり、私たちは吹き飛ばされそうになる。
「チッ、でかいな!」
クロード様が跳躍し、怪物の腕を斬りつける。
剣閃が走り、丸太のような太さの蔦が切断される。
だが──。
「再生した!?」
切断面から即座に新しい蔦が生え、傷を塞いでしまう。
それどころか、怪物はクロード様の溢れ出る魔力に反応し、さらに脈動を強めた。
「ソフィア! 援護を頼む! 極大魔法で氷漬けにする!」
「ダメですクロード様! 魔法を使ってはいけません!」
私は悲鳴のように叫んだ。
「あいつは魔力を『食べる』怪物です! 魔法を当てれば吸収されて巨大化します! かといって物理攻撃で倒そうとすれば、衝撃で体内の胞子袋が破裂し、帝都全域に菌がばら撒れる恐れがあります!」
「なっ……!?」
魔法は効かない。
物理で倒せばバイオハザード。
怪物が雄叫びを上げ、何本もの触手を私たちめがけて振り下ろしてきた。
「くそっ、なら、どうすればいい!」
クロード様が私を抱えて回避する。
瓦礫が舞い、土煙が視界を奪う。
絶体絶命の窮地。
だが、私の脳内では、高速で思考回路が回転していた。
魔法が効かない?
いいえ、魔法が「通じない」相手などいない。
相性が悪いなら、相性を覆すための「迂回路」を探せばいいだけだ。
「……クロード様。私と貴方なら、できます」
土煙の中で、私はクロードの腕を掴んだ。
「魔法を当てずに、魔法で殺す方法が」




