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第5話:クロード

バシィィィィン!!


重厚な執務机が叩かれ、その上に置かれた一枚の羊皮紙が宙に舞った。


舞い落ちた紙には、鮮烈な赤文字で『金貨50億枚』と記されている。


「ふざけるな! ふざけるなふざけるなァッ!!」


王城の奥深く、かつては豪華絢爛だった「王の執務室」。

今やそこは、薄暗く、湿っぽく、そして何より――ドブのような腐臭に満ちていた。


エリック王子は、髪を振り乱して絶叫していた。

その目は血走り、爪を噛む癖のせいで指先はささくれ立っている。


「50億だと!? 我が国の国家予算の3年分だぞ!? 払えるわけがないだろう!」


「お、落ち着いてくださいエリック様ぁ……」


傍らで震えているのは、リリィだ。

自慢のピンクブロンドの髪は湿気でベタつき、ドレスの裾は廊下の泥ハネで茶色く変色している。

彼女の「発光魔法」も、今の陰鬱な空気の中では、切れかけた電球のように弱々しい。


「落ち着いてなどいられるか! 見ろ、外を!」


エリックが窓を指差す。

ガラスの向こうは、鉛色の空。

止まない豪雨が窓を叩きつけ、雷鳴が轟いている。かつてソフィアが制御していた「穏やかな気候」は消え失せ、本来の過酷な自然環境が牙を剥いていた。


「下水道は逆流し、井戸水は濁り、作物は根腐れして全滅寸前だ! 民衆の暴動も時間の問題だぞ!」


「で、でもぉ……ソフィア様が意地悪して、帰ってきてくれないからぁ……」


「そうだ! あいつだ! あいつが全部悪いんだ!」


エリックは請求書を踏みつけた。

自分たちが追い出したという事実は、彼の中ですでに改竄されている。

今の彼にとって、ソフィアは「義務を放棄して逃げ出し、不当な請求をする裏切り者」でしかなかった。


「……殿下。お嘆きはごもっともですが、時間は待ってはくれません」


部屋の隅から、冷ややかな声が響いた。

闇に溶け込むような黒衣を纏った男。

王国の裏仕事を統括する、宰相補佐官のガロンだ。


「帝国の通告によれば、期限は『即日』。……支払いがなければ、皇帝クロード自らが軍を率いて進軍してくるでしょう」


「ひっ……!」


エリックの喉が鳴る。

皇帝クロード。


「氷の皇帝」の異名を持つ彼は、かつて単騎で要塞を氷漬けにした怪物だ。

敵国に対する容赦のなさを、エリックはところかしこで聞いていた。

一騎当千を地で行く『皇帝』を相手にして、今のボロボロの王国軍で勝てる相手ではない。


「ど、どうすればいい! 金はない! だが戦争もできない! 詰みじゃないか!」


「……いいえ。一つだけ、起死回生の手があります」


ガロンは蛇のような目で笑い、一枚の地図を机に広げた。


「現在、ソフィア嬢は帝国の宮殿にいます。……しかし、彼女は元々、我が国の国民」


「だ、だからなんだ!」


「彼女を、『回収』してしまえば良いのです」


ガロンが低い声で囁く。


「50億の請求書といえど、請求主であるソフィア嬢本人がいなくなれば、効力を失います。あるいは、彼女自身に『請求は間違いでした』と言わせればいい」


「回収……? まさか、誘拐しろと言うのか!?」


「人聞きが悪い。『洗脳された聖女の救出』ですよ」


ガロンはもっともらしい理屈を並べ立てた。


「考えてもみてください。あの地味で従順だったソフィア嬢が、自らこんな高額請求をするでしょうか? きっと、あの冷酷な皇帝に脅され、操られているに違いありません」


「はっ……! そ、そうだ! そうに決まっている!」


エリックはポンと手を打った。


そうだ。


ソフィアは俺のことが好きだったはずだ。


あいつが俺に牙を剥くはずがない。


悪いのは全部、あの帝国の皇帝なのだ。


「かわいそうなソフィア……。今頃、冷たい牢獄で泣いているに違いない! 私が助けてやらねば!」


都合の良い妄想が、エリックの脳内で真実に変わる。

恐怖が使命感にすり替わり、彼の顔に醜悪な笑みが戻った。


「ガロン! 我が国の精鋭部隊を使え! 今すぐソフィアを奪還するんだ!」


「承知いたしました。……すでに、『部隊』を待機させております」


影狼部隊。


王国の暗部にして、対魔導師戦に特化した暗殺者集団。

音もなく忍び寄り、魔法障壁をすり抜け、標的を連れ去るプロフェッショナルたちだ。


「奴らは今夜、帝都へ潜入します。……明日の朝には、ソフィア嬢は再びこの執務室で、結界維持の仕事をしていることでしょう」


「頼んだぞ! ああ、早くソフィアに会いたい。帰ってきたら、たっぷりと(残業で)愛してやるからな!」


窓の外で雷が落ちる。

その閃光が、狂気に歪んだ王子の顔と、それを冷たく見下ろす宰相の顔を一瞬だけ照らし出した。

彼らは知らなかった。

彼らが「か弱い被害者」だと思っているソフィアが、今や帝国の最高戦力によって守られていることを。


――――――――――――


深夜2時。

帝国の宮殿に降り注ぐ雨音が、心地よいBGMとなって私を夢の中へと誘っていた。

ふかふかの羽毛布団に包まりながら、私はふと、かつての故郷のことを考えていた。


(……今日の雨は強いわね。きっと、あっち(王国)はもっと酷いことになっているでしょうけど)


王国の人間は勘違いしている。

あの国が晴れていたのは「神の祝福」でも何でもない。

単に、歴代の聖女が死に物狂いで結界を張っていたからだ。


そもそも、王国の国土は『嘆きの湿原』と呼ばれる、大陸で最も気流がぶつかる「豪雨地帯」にある。放っておけば、年間200日は雨が降り、地面は沼のように沈む。


人間が住むには適さない土地なのだ。

それを私が、上空の気圧配置を計算し、風の通り道を作る『広域天候制御プログラム』を常時稼働させることで、無理やり「晴れ」を作っていたに過ぎない。


(屋根のない家に住んでおいて、「雨が降らないのは当然」だと思い込んでいたんだもの。……屋根(私)がなくなれば、どうなるかくらい想像できそうなものだけど)


ま、もう私には関係ない。

今の私の仕事は、帝国の魔導炉を安定させ、あとは心ゆくまで眠ることだ。


「……ふぁ。おやすみなさい」


私は枕に顔を埋め、意識を手放した。

私の寝室には、クロードが設置してくれた『完全遮音結界』と『室温調整結界』がある。どんな嵐が来ようとも、私の安眠は約束されている――はずだった。


―――――――――


同時刻。

ソフィアの寝室がある塔の外壁を、音もなく登る黒い影があった。

王国最強の暗殺集団『影狼部隊』。


隊長のザイードは、雨に濡れたバルコニーに張り付き、ニヤリと笑った。


(チョロいもんだ。帝国の警備などザルだな)


彼らは「魔力遮断のマント」を羽織っている。

これにより、魔導感知システムに引っかかることなく、城内への侵入に成功していた。


(ターゲットは、この窓の向こうで寝ている。……哀れな聖女様だ。温かいベッドから、泥まみれの王国へ逆戻りとはな)


ザイードは部下にハンドサインを送る。

作戦はシンプルだ。

窓の鍵を解錠し、侵入。

スリーピング・ガスを撒いてソフィアを無力化し、袋詰めにして連れ去る。


抵抗するなら、手足の骨を折っても構わないと宰相からは言われている。


カチリ。


特殊な工具で、窓の鍵が開く。

ザイードは音もなく窓を開け、寝室へと足を踏み入れた。

広い部屋だ。

天蓋付きの豪奢なベッドで、ターゲットのソフィアが規則正しい寝息を立てているのが見える。


(無防備なもんだ。護衛の一人もつけないとは)


ザイードは腰の短剣に手をかけ、ベッドへと近づく。


あと5歩。

あと3歩。


勝利を確信した、その瞬間だった。


「――土足厳禁だぞ、ドブネズミ」


ゾワリ。

ザイードの全身の毛が逆立った。

殺気ではない。

もっと根源的な、生物としての「死の予感」が、脳髄を貫いたのだ。「な……ッ!?」

振り返ろうとしたが、体が動かない。

いや、足の感覚がない。

見下ろすと、自分の足が床から「凍りついて」いた。


「バカな……! 俺たちは魔力遮断のマントを……!」


「ああ、その安っぽい布切れか? 雨よけ程度にはなるんじゃないか」


部屋の隅。

闇に溶け込むように置かれたソファに、その男は座っていた。

片手にはワイングラス。

優雅に足を組み、まるで舞台劇でも鑑賞するかのように、侵入者たちを見下ろしている。

銀髪に、鮮血の瞳。

帝国の支配者、クロードだ。


「き、貴様……いつからそこに……!」


「最初からだ。私の『妻(予定)』が寝ているのだぞ? 悪い虫がつかないよう、見守るのが夫の務めだろう」


クロードはゆっくりと立ち上がった。

その動作に合わせて、部屋の空気が絶対零度へと急降下する。


「ぐ、がぁ……ッ!」


部下たちが悲鳴を上げようとするが、声が出ない。

口元まで氷に覆われ、呼吸すら許されない。ザイードたち『影狼』は、王国最強の精鋭だったはずだ。

だが、この男の前では、赤子同然の手も足も出ない。

格が、違いすぎた。


「……静かにしろ。ソフィアが起きるだろう」


クロードが唇に人差し指を当てる。

その声は優しいが、目は笑っていない。

瞳の奥にあるのは、底なしの殺意と、獲物を甚振る愉悦だけだ。


「わざわざ雨の中、ご苦労だったな。……ああ、もしかして、彼女を連れ戻しに来たのか?」


「う、うぅ……!」


「残念だが、私の大切な『妻(予定)』を渡すつもりはない。それに、彼女自身も帰りたがらないだろう」


クロードは凍りついたザイードの目の前まで歩み寄り、耳元で囁いた。


「なぜなら、あそこは『雨漏りのする欠陥住宅』だからな。…… を捨てた時点で、貴様らは泥に沈む運命だったのだ」


クロードの指先が、ザイードの額に触れる。


「さて、どう処理してやろうか。……ソフィアは優しいから、死体を見せると嫌がるかもしれん」


ザイードの視界が白く染まっていく。

意識が凍結する直前、彼が見たのは、悪魔のように美しく微笑む皇帝の顔と、その後ろで「むにゃ……残業代……」と幸せそうに寝返りを打つ、最強の聖女の姿だった。


「ゴミはゴミ箱へ。……いや、氷像にして王子の元へ送り返してやるのが、一番の『返信』になるか」


パキィィィィン……ッ!


その夜。

帝国の宮殿から、悲鳴一つ上げることなく、王国最強の部隊が消滅した。

翌朝、ソフィアが目覚めた時、部屋には塵一つ落ちておらず、窓辺には美しい氷の華が一輪、飾られているだけだった。


――――――


翌朝。

私は小鳥のさえずりと共に、爽やかに目覚めた。


「んぅ……よく寝たぁ」


大きく伸びをする。

昨夜は外の雨音が少し強かったけれど、私の部屋は静寂そのものだった。

やはり、クロードの用意してくれた結界は最高だ。

ふと、窓辺を見ると、キラキラと輝くものが置かれていた。

ガラス細工のような、精巧な花のオブジェだ。


「あれ、あんなのあったっけ?」


「おはよう、ソフィア」


いつの間にか部屋に入ってきていたクロードが、ニコニコと笑って私に近づいてきた。


「ああ、あれかい? 昨夜、少しだけ『害虫』が迷い込んできたのでね。私が処理して、ついでに余った魔力でアートを作ってみたんだ」


「害虫? この季節に?」


「ああ。黒くて、コソコソ動く、不快な虫だったよ」


クロードは楽しげに目を細めた。


そっか、皇帝陛下ともなると、虫退治すらに変えてしまうのか。


「綺麗ですね。涼しげで」


「そうだろう? ……まあ、君に見せるには美しくない『本体』のほうは、すでに故郷へ送り返しておいたがね」


「?」


よく分からないけれど、クロードが機嫌が良いなら何よりだ。

私は今日も、ふわふわのパンケーキが待つ朝食の席へと向かった。


――――――――


その日の午後。


王国の執務室は、異様な緊張感に包まれていた。


「遅い……! まだか! 影狼からの報告はまだなのか!」


エリック王子は、部屋の中を熊のようにウロウロと歩き回っていた。


計画通りなら、今頃はソフィアが「連行」されてきてもいい時間だ。「ご安心ください、殿下」

宰相補佐官のガロンが、青白い顔ながらも自信ありげに言う。


「影狼は無敗の部隊です。いかに帝国の警備が厳重といえど、音もなく侵入し、仕事を遂行しているはず。……おや?」


廊下が騒がしい。

衛兵が慌てた様子で飛び込んできた。


「ほ、報告します! 帝国の使い魔が、中庭に『荷物』を落としていきました!」


「荷物だと? ……まさか、ソフィアか!?」


エリックの顔がパァッと輝く。そうだ、きっと影狼がソフィアを捕らえ、運び込んだのだ。

彼は泥だらけの廊下を走り、中庭へと急いだ。

そこには、巨大な木箱が置かれていた。

周りからは、白い冷気が漂っている。


「おお、ご丁寧に冷凍保存(クール便)で送ってきたか! よし、開けろ!」


エリックの命令で、兵士たちがバールで木箱をこじ開ける。

バリバリッ、という音と共に蓋が外され――。


「さあ、ソフィア! 私の胸に飛び込んで……ヒッ!?」


エリックの笑顔が凍りついた。

いや、その場にいた全員が、悲鳴すら上げられずに腰を抜かした。

箱の中に詰まっていたのは、ソフィアではない。カチコチに凍りつき、恐怖に歪んだ表情のまま固まった、数人の男たちの「氷像」だった。


「ザ、ザイード……!? 影狼の……全員か……!?」


ガロンがガタガタと震えながら後ずさる。

王国最強の暗殺者たちが、傷一つないまま、まるで「生きた芸術品」のように瞬間凍結されている。

それは、魔法というよりは、神の御業に近い力の差を見せつけるものだった。

そして、一番上の氷像の胸元に、一枚のカードが刺さっていた。

美しいカリグラフィーで、こう書かれている。


『私の大切な「妻(予定)」の安眠を妨げた罪により、害虫を返送する。次は、送り主(お前たち)を氷像にして飾るとしようか。――クロード』


「あ、あぁ……あぁぁぁ……」


エリックはその場にへたり込んだ。

勝てない。

暗殺も、交渉も、武力も、何もかもが通じない。

相手は、人間ではない「怪物」だ。


「おしまいだ……。50億も払えない、ソフィアも取り戻せない……帝国が攻めてくる……殺される……!」


ガロンも頭を抱えてうずくまる中、極限の恐怖に追い詰められたエリックの脳内で、何かが「プツン」と切れた。


「……いや。まだだ」


エリックは虚ろな目で立ち上がった。


「まだ手はある」


「で、殿下?」


「クロードごときに、ソフィアが渡せるものか。あいつは私のことが好きなんだ。そうだ、直接会って話せば分かるはずだ」


王子の瞳に、狂気じみた光が宿る。

彼は恐怖から逃れるために、「自分は愛されている」という妄想に逃げ込んだのだ。


「行くぞ、ガロン。馬車を用意しろ」


「ど、どちらへ!?」


「帝国だ! 私が直接乗り込み、ソフィアを説得する! あの氷皇帝に騙されている彼女を、真実の愛で目覚めさせるのだ!」


それは勇気ではない。

破滅へと向かう、蛾のような特攻だった。豪雨が降り注ぐ中、泥にまみれた馬車が、帝国へ向かって走り出す。

それが、彼らにとっての最後の旅になるとも知らずに。


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