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第38話:イベント・ホライズン

「はぁ……はぁ……! う、そ……なんで……?」


ティナの足が止まった。

彼女は膝に手を突き、荒い息を吐きながら絶望的な表情で前方を見つめている。


スタートから10分が経過した。

私たちの全力疾走なら、とっくにゴールしていなければならない時間だ。

だというのに。


「……近づかない」


視線の先にある「大時計塔」。

その尖塔は、まるで蜃気楼のように揺らめき、スタート地点から見た時とほとんど変わらない距離感を保っていた。


走っても、走っても、背景が更新されない。

まるで、巨大なランニングマシンの上で踊らされているようだ。


「ソ、ソフィアちゃん……あれ……」


ティナが震える指で差した先。

道路の脇を、あの小さなゼンマイ人形――「自動配送ゴーレム」が、カシャン、カシャンと無機質な音を立てて歩いていた。


人間の早歩き程度の、のろまな人形だ。

本来なら、視界の彼方に置き去りにしているはずの相手。


それが今、私たちの横を涼しい顔で通り過ぎ、あろうことか数メートル先を歩いている。


「なんでよぉぉ! あいつ、あんなに遅いのに!」


ティナが泣き叫びながら、再び走り出そうとする。

だが、私は彼女の腕を掴んで止めた。


「無駄です、ティナ。……走るのをやめなさい」


「えっ!? で、でも時間が!」


「物理的な速度の問題ではありません。……今の私たちは、泥沼の中でボートを漕いでいるようなものです。力を入れれば入れるほど、沈んでいくだけです」


私は呼吸を整え、冷ややかな視線で周囲の空間を睨みつけた。


『1メートルが1メートルであるとは限らない』


彼は数学者だ。

文学者じゃない。

指摘な意味を読み取ることは不可能ではないが、解釈の余地を残せば真理は遠のく。

彼は真理を求めていると言っていた。

嘘ではないとするのなら、言葉通りに捉えるしかない。

つまり、ここでは私たちの尺度が通じないということだ。


「アドミン。……答え合わせといきましょうか」


私はモノクルを取り出し、装着した。


「周辺空間の『魔力密度』および『空間歪曲率』を可視化ビジュアライズ。……この街の『地図』ではなく、『構造』を表示してください」


『かしこまり!これは面白いです! 重力レンズ効果に類似した、高濃度魔力場を確認しました! マッピングを開始します』


電子音と共に、私の視界が塗り替えられる。

雪の積もった美しい石畳の街並みが消え、無数の「グリッド線(格子)」で構成されたワイヤーフレームの世界が浮かび上がる。


「……重力レンズ」


私は息を呑んだ。

私の視界に広がるグリッド線は、均一ではなかった。

街の至るところに――空間の歪がある。

そこを歪を中心に、グリッド線が極端に引き伸ばされ、巨大な「漏斗じょうご」のように落ち込んでいたのだ。


「なるほど……。これが『特異点』の正体ですか」


私は納得した。


『街のいたるところに、魔力の『力場』のようなものが出現しています。到着時はこんなものありませんでしたが──どうやら規則的は不規則か、この地域には以上に魔力が『溜まる』現象が起きているようです』


「ちなみに力場にはどれくらいの魔力が溜まっていますか?」


『そうですねぇ。まちまちではありますが、一番規模の小さいものでも、クロード様10人分が1m四方の立方体に詰まっていると考えてください』


「そらは、おそろしいわね……」


変な喩えをするなと突っ込みたかったが、堪えた。

この北の大地は、どうやら天然の「巨大魔力炉」のようなものが形成されてしまうらしい。


魔力とは地脈に沿って流れ、星全体を巡る。超重量の圧力で押しつぶせば、物質化するという減少も聞いていたが、この場合はどうなのだろう。


質量を持っているとすれば、本当に『重力レンズ』を形成しそうだが、現状ではあくまでも『そのようなもの』だが。


「なるほどな」


と再び納得した。

恐らくレインは、これを調べていたのだろう。


「ねぇ、ソフィアちゃん……」


恐る恐ると言った様子でティナちゃんが聞いてきた。

何か事件かと思ったが、単純な質問だった。


「重力レンズってなに?」


「ああ」


重力レンズ。

物理学の用語ですが、現象としてはとてもシンプル。


「例えば、ピンと張ったハンカチの端から端まで、アリさんが歩くとします。ピーンと張っていれば、すぐに着きますよね?」


「うん、一直線だもんね」


「では、そのハンカチの真ん中に、重たい鉄球を置いたらどうでしょう? ハンカチは重さで深く沈み込みますね」


「あ、穴みたいになる」


「その通りです。例えばそこをアリは真っ直ぐ歩こうとしても、一度穴の底まで降りて、また登らないといけません。上から見たら真っ直ぐに見えても、実際にはすごく『遠回り』をさせられていますよね?」


「うん、大変だね」


「それが今、恐らく起きていることです。巨大な魔力が空間ハンカチを沈み込ませているせいで、光も、私たちも、真っ直ぐ進めずに『遠回り』させられている……それが重力レンズ効果の正体ですよ」


「なるほど」


頭のよい子だから、多分これで理解できただろう。

考え込むような仕草をしているが、これは空間に置き換えるとイメージがしにくい。


「ティナ、見てください。この道を」


私はアドミンの映像をホログラムとして空中に投影し、ティナに見せた。


「なにこれ……網目が、ぐにゃぐにゃだよ?」


「ええ。私たちは今、この『一直線の道路』を走っています。目には真っ直ぐに見えますが……この歪んだ空間においては、この道こそが、最も引き伸ばされた『遠回り』のルートなんです」


中心部の魔力密度が高すぎるため、空間がゴムのように伸びている。


私たちが「1メートル」だと思って進んだ距離は、実際には「10メートル」あるいは「100メートル」分の物理的空間に引き伸ばされているのだ。


だから、どれだけ速く走っても、ゴールにはたどり着かない。


「じゃ、じゃああのゴーレムは!?」


「そうてすね。見てください」


私は先行するゴーレムを指差した。

レインは「直進」していると言った。

だが、よく見ると――あいつは道路の真ん中ではなく、微妙に端の、家屋の軒下スレスレを歩いている。


「ゴーレムは『機械』です。私たちのように『目(光)』で道を見ているのではなく、設定された座標に向かって、ただ愚直に足を動かしているだけ。だから、光の屈折や空間の歪みに惑わされず、結果として『歪みの影響が少ないルート』を通っているんです」


私たちは「目で見て真っ直ぐな道」を選んでしまった。

だが、とてつもないく大量の魔力溜まりによって、光さえも曲がるこの場所では、目に見える直線こそが、最大の罠だったのだ。



私たちは「目で見て真っ直ぐな道」を選んでしまった。

だが、重力によって光さえも曲がるこの場所では、目に見える直線こそが、最大の罠だったのだ。


「そんな……! じゃあどうすればいいの!?

 残り時間はあと5分もないよ!?」


ティナが時計を見て青ざめる。

ゴーレムは着実に進んでいる。

このまま道路を走っても間に合わない。かといって、今からゴーレムの後ろをついていっても、速度差で追いつけないだろう。


「落ち着きなさい、ティナ。……レインは『カオス』と言っていましたが、あくまでも『数学』で記述したいと言っていました。つまり論理的に解説が可能な現象のはずです」


私は歪んだグリッドの地図を睨みつけた。

ユークリッド幾何学(平らな地図)は通用しない。

ならば、非ユークリッド幾何学(曲がった空間)のルールで勝負するまでだ。


「ティナ。この歪んだ空間における『最短距離』は、直線ではありません」


私は指先で、空中のホログラムに一本の線を描いた。

それは、道路を無視し、建物を突っ切り、一見すると時計塔から大きく外れるような、奇妙な曲線だった。


「これです。空間の歪みが少ない『谷の縁』を走り抜けるルート。いわゆる『測地線』です」


「そ、そくちせん……? よく分かんないけど、その通りに行けば勝てるの!?」


「ええ。ただし――」


私は視線を上げた。

私が描いたルート。

それは、平坦な道ではない。

民家の屋根、路地裏の障害物、そして地下水路。

道なき道を、最高速度で駆け抜ける必要がある。


「道なんてありません。屋根を飛び、壁を走り、泥にまみれる覚悟はありますか?」


ティナは一瞬だけ呆気に取られ、次の瞬間、ニカッと笑ってゴーグルを装着し直した。


「愚問だね! ドワーフを舐めないでよ! 現場仕事フィールドワークなら、私の独壇場だもん!」


「ふふ、いい返事です」


私はコートの裾を翻し、道路の脇にある建物の非常階段へと足をかけた。


「行きますよ! ここからは『障害物競走パルクール』です!」


残り時間は、4分30秒。

ちなみに測地線とは、曲がった空間における最短ルートのことだ。



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