第22話:戦闘開始
「戦闘開始!」と私が叫んだ、その刹那だった。
私たちのやる気を嘲笑うかのように、「パンドラの箱」が爆発的な反応を見せた。
噴き出した黒い霧は、もはや煙ではない。
意思を持った無数の触手となって、逃げ惑う来場客たちへ襲いかかったのだ。
「きゃあぁぁぁッ!?」
「た、助けてくれぇぇ!」
「チッ……! リリィ!」
私が叫ぶより早く、元聖女が動いていた。
「させませんっ!!」
リリィが両手を掲げると、まばゆい浄化の光が炸裂する。
迫り来る霧の触手が、光に触れた端からジュワジュワと蒸発していく。
「ナイスです! リリィはそのまま、光で逃げ遅れた人を誘導して!」
「はいっ!」
私は視線を、霧の中心――もはやエリックの原型を留めていない、ドス黒いエネルギーの塊へと向けた。
「アドミン! パンドラの箱とエリックを解析して、弱点を探して!」
『了解! 高速スキャン開始!』
ドローンが危険を顧みず霧の周囲を飛び回る。
『……解析完了! どうやら、パンドラの箱は王子の魔力を動力としているようです! 魔力との接点を切れば止まるはずです!』
「接点の切断ですね!」
私は即座に横を見る。
視線の先には、巨大な機械アームを操作する派手な男。
「ギルバート殿下!」
「おっけー! 任せな!」
ギルバート殿下がニヤリと笑い、レバーを倒した。
機械的な唸りを上げて、ケーキ入刀用の巨大な「高収束・熱線魔導カッター」が起動する。
極太の赤いレーザーが、会場の装飾品ごと黒い霧を焼き切り、その中心部へと突き刺さった。
『ギギギ……ギャアアアアアッ!!』
霧の中から、耳をつんざくような絶叫が響いた。痛みを感じているのだ。
レーザーの熱量に耐えきれず、霧が急速に収縮していく。
しかし、消滅したわけではない。
霧は密度を上げ、鋼鉄のように硬質化し、両腕に鋭い刃を形成した「黒い人型」へと変貌した。
『危ない! 敵性体、硬質化! ターゲット変更……ソフィアお姉ちゃん!?』
「なっ……!?」
黒い人型の顔――目にあたる部分に赤い光が灯り、私を睨みつけた。
本能で悟ったのだ。この場の司令塔であり、最も戦闘力の低い私が「急所」だと。
ドォンッ!!
床を踏み砕き、黒い刃が弾丸のような速度で私に突っ込んでくる。
速い。
反応できない。
鋭利な切っ先が、私の喉元に迫る――。
(しまっ――)
死を覚悟した、その瞬間。
「――そこまでだ」
絶対零度の声が響いた。
ガギィィィィンッ!!
私の目の前で、凄まじい衝撃音が炸裂する。
黒い刃は、私の喉元数センチのところで静止していた。
いや、止められたのだ。
私の前に立ち塞がった、銀髪の皇帝によって。
「ク、クロード様……」
見れば、私に迫っていた黒い人型は、その全身を分厚い氷塊に覆われ、完全にしていた。
クロードは氷漬けの怪物を見下ろし、冷たく吐き捨てた。
「私の目の前で、私の妻を狙うとは……万死に値するぞ、愚か者め」
間一髪。
最強の防壁が、バグの侵入を食い止めたのだった。
「凍てつけ」
クロードの氷魔法によって、私を襲った黒い刃は、その持ち主である人型の霧ごと完全に凍結した。
分厚い氷塊の中に閉じ込められ、ピクリとも動かない怪物。
一瞬の静寂が会場を支配する。
そして、誰かが呟いた。
「た、助かったのか……?」
ワァァァァァッ!!
次の瞬間、避難していた人々から安堵の歓声が上がった。
「……は、ぁ……」
死の恐怖から解放された反動で、私はその場にへたり込んでしまった。
膝が笑って力が入らない。
「ソフィアお姉ちゃん! 大丈夫!?」
「よくやった、ソフィア。君の解析のおかげだよ」
「ふぅ……リリィの光も効いてたね!」
アドミン、ギルバート殿下、リリィが駆け寄ってきて、私の無事を喜んでくれる。
「立てるか、ソフィア」
クロードが私のそばに跪き、優しく肩を抱いてくれた。
私は首を横に振る。腰が抜けてしまって、自力では立てそうにない。
「……仕方ないな」
クロードは少し困ったように笑うと、私の体を軽々と持ち上げ、お姫様抱っこをした。
「きゃっ、クロード様!?」
「皆の者、聞け! 結婚式は一時中断だ! 我が妻は疲弊している。直ちに寝室へ運び、休ませる! それと、あの不快な氷像をさっさと撤去しろ!」
クロードが皇帝としての威厳ある声で指示を飛ばす。
衛兵たちが「はっ!」と敬礼し、氷漬けのエリックに向かって走り出した。
全てが終わった――誰もがそう思った。
だが、私の鏡の端に、奇妙なノイズが走った。
(……え? 魔力反応が、消えていない?)
それどころか、氷の中の熱源が、急速に膨れ上がっている。嫌な予感が背筋を駆け上がった。
「ま、待ってください、クロード様……!」
私は彼の腕の中で声を上げようとした。
だが、クロードは「今は何も言うな。休むことだけを考えろ」と、優しく私の言葉を遮り、歩き出そうとした。
その、瞬間だった。
ぱきん──。
氷が砕ける音。
それは解凍の音ではない。
内側からの暴力的な破砕音だった。
「――ッ!?」
クロードが振り返るより早く、砕け散った氷の礫の中から、黒い刃が再び私に向かって射出された。
「ちいっ――!!」
クロードは魔法を構築しようとしたが──間に合わない。
とっさに私の体をかばうように回転し、自らの背中を差し出した。
鈍く、湿った音が響いた。
「ぐぅっう……!!」
「ク、クロード様!?」
私の目の前で、クロードの右腕――利き腕であり、魔法を行使するための重要な腕が、鮮血に染まっていた。
刃を受け止めた代償だ。
「クロード様! 血が……!」
「問題ない……かすり傷だ……」
クロードは強がるが、その顔は苦痛に歪んでいる。
彼は左手で杖を構え直すが、先ほどまでの圧倒的な覇気がない。
連続した大規模魔法の行使と、利き腕の負傷。
魔力出力が明らかに低下している。
「……ククク、アハハハハ! 油断したな、帝国最強の皇帝が!」
砕けた氷の中から現れたのは、もはや不定形の霧ではなかった。
禍々しい黒い鎧を纏ったような、明確な人型。
その顔は歪んでいるが、間違いなく――
「……エリック殿下?」
「その名で呼ぶな! 俺はもう、惨めな王子じゃない!」
エリックの意識は、黒いの負の側面に完全に侵食されていた。
彼の内にある劣等感、嫉妬、憎悪が増幅され、怪物と化している。
「見ろよザマァない! 愛する女をかばって手負いか? 美しい愛だねぇ、反吐が出る!」
エリックの両腕が再び鋭利な刃に変形する。
「貴様……ソフィアには、触れさせん……!」
「ハッ! 遅いんだよ!」
クロードが氷の礫を放つが、エリックはそれをハエでも叩き落とすかのように、黒い刃で軽々と切り払った。
「なっ……!?」
「力が落ちてるぜ、皇帝陛下!」
ヒュン…と腕を振る。
エリックの斬撃が、クロードの足を、肩を切り裂く。
クロードは私をかばいながら戦うため、回避行動が取れない。
一方的に嬲りものにされていく。
「がはっ……!」
クロードが片膝をつき、口から血を吐いた。
「いやぁぁっ! クロード様!」
「近寄るなソフィア! ……逃げろ!」
瀕死の状態でも、クロードは私を背にかばい続ける。
「アハハハ! 傑作だ! これが古代の禁忌の力か! この力があれば、俺はもう誰にも馬鹿にされない! 帝国も、世界も、全て俺の足元にひれ伏すんだ! ヒャハハハハハハハっ!!」
エリックは高笑いし、血まみれのクロードを見下した。
そして、真顔になると、その視線を、クロードの背後にいる私へと向ける。
「さて、次はお前だソフィア。俺を捨て、こんなに乗り換えた売女が。……お前だけは、絶対に許さない。殺してやるよ」
殺意の塊となった黒い刃が、私に向けられる。
「死ねぇぇぇッ!!」
エリックが突っ込んでくる。
私は動けなかった。
息も絶え絶えなクロード。
迫る刃。
しかし、思考が真っ白になる。
私の視界が黒く染まる直前。
またしても、銀色の背中が割り込んだ。
肉を貫く、決定的な音。
飛散る鮮血。
視界が、赤く染まった。
「……カハッ……」
クロードの腹部を、黒い刃が貫通していた。大量の血が、私の純白のウェディングドレスに飛び散り、赤い花を咲かせる。
「ク、クロード……さ……ま?」
エリックが刃を引き抜くと、クロードの体は支えを失い、私の腕の中へと崩れ落ちた。
「あっ、あぁ……いや……」
私は彼を抱きとめる。
傷口からは、止めどなく血が溢れてくる。
彼の体温が、急速に失われていくのが分かった。
虫の息だ。
誰が見ても、助からない。クロードが、震える血まみれの手を伸ばし、私の頬に触れた。
焦点の合わない瞳が、私を探すように彷徨う。
「……に……げ……ろ……」
最期に絞り出した言葉は、私への愛ゆえの命令だった。
そして、彼の手が力なく滑り落ちた。
「……クロード様? ねえ、嘘でしょう? 起きてください。今日は、私たちの結婚式なんですよ……?」
返事はない。
私の問いかけは、虚しく響くだけ。
「ギャハハハ! 死んだか! 皇帝が死んだぞ! 俺が殺した! さあソフィア、次は――!?」
勝ち誇っていたエリックの声が、突然裏返った。
私の体から。
感情の許容量を超えた私の内側から。
理性を焼き切るほどの、膨大な魔力が溢れ出したからだ。
ブチィンッ。
私の頭の中で、何かが決定的に切れる音がした。
「……よくも」
私はクロードの身体を丁寧に床に寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。
涙は出ていない。
悲しみよりも先に、私の心を塗りつぶしたのは――冷たく、昏い、憤怒だった。
「よくも私の……私の最愛の夫を……!」
私はモノクルを投げ捨て、エリックを睨みつけた。
「絶対に許さない。……貴方だけは、私がこの手で、文字通り在消してあげる」
私の魔力が、暴風となって会場に吹き荒れた。




