第4話 一ノ瀬穹
一ノ瀬穹は不幸のどん底にいた。
「はあ……」
こぼれるため息は深く濁っている。
白い塗装が経年劣化で灰色にくすんでいる田舎の総合病院を出て、古びた黒いジャケットのポケットに手を突っ込む。
やや猫背だった背筋を伸ばしつつ、ゆっくりと空を見上げた。
十七歳になったばかりの穹は、大きく息を吸い込み、真冬の空気を灰の中で循環させる。
頭の中には先ほどあった医師とのやりとりがこびりついていた。
「そんな……母さん、いえ母は助からないんですか!?」
「極めて難しい、という見解になるね。穹君のお母さんの症状はとても進行が速い。それにこの病気はうまく適合するドナーを探し当てて、心移植をする他にないのが現状なんだ。今から探して見つかるまでの時間と資金は……極めて難しいよ」
同じ言葉を繰り返す医師。それは一つの結末を物語っていた。
「お金は働いて、借金してでも何とかします! だから母を、母を助けてください!」
黙って目を伏せるのが分かった。穹は痛いほどに手を握り締めている。
拡張型心筋症。放っておくと脈拍の速度上昇と血栓の発生が起こり、やがて死に至る難病だ。移植が無事に成功しても、術後の生存率は七割前後という。
「言い辛いことだけれども、高校生の穹君に用意できるような金額ではないよ」
「それでも、それでもです! どんなことをしても必ず支払います。何年かかっても絶対に」
「お金を抜きにしてもだね……。穹君。適合率というものがあってね。お母さんの体が拒否反応を示さないドナーを見つけるまで、とてもとても長い道のりなんだよ」
次々と聞かされる絶望的な状況に、穹の心は崩れてしまいそうになる。厳しいことをはっきりと告げてくれる先生には感謝をしているが、さりとて現実は一ミリも好転しない。
「――お母さんと過ごす時間を大切にしなさい」
うなだれる以外になかった。
父親は穹が幼いころに蒸発した。女だとか借金だとか疑われたが、なんの痕跡もなかった。
以降母は女手一つで穹を育ててくれ、高校にまで入れてくれた。だから必ず将来孝行を尽くし、幸せにすると決めていたのに。
以前、臥せている母のベッドの横で、高校を辞めて働くと言ったとき、とても弱々しく頬をたたかれた。
「勉強して自分の道を探しなさい。私が死んでも、穹にとっては一つの節目になれるのだから、そんなことは言わないでちょうだい」
涙がとまらなかった。
わかっていた。母がそう言うことも。
医師の話を聞き、穹は母の最期を看取る決意を固める。
「母をよろしくお願いします」
万感の思いを込めて、頭を下げた。
◆
土曜日。穹がアルバイトをしているコンビニの昼休憩になった。
制服を脱いで外に出ると、一面の曇天が広がっていた。まるで穹の心を映し出したかのように暗い。
月に一回の贅沢で、穹は缶コーヒーの『親方』を買っている。財布をまさぐって小銭を確かめつつ、坂の下にある自販機まで歩いて行った。
「帰りにコタローの餌を買っていかないとな。あいつももう歳だから、やわらかいものを……」
幼少のころから一ノ瀬家で飼っている、ポメラニアンのコタローはもう十五歳になる。母の死を想像して眠れない夜に、そっと布団に潜り込んできて温もりをくれる、優しい犬だ。
「コタローも、そろそろかもしれない……か」
最近は白内障が進行してきており、足腰も弱くなってきていた。
「駄目だな、こんな気持ちじゃ」
自分がしっかりしないといけない、と穹は百円玉を強く握る。別れはいずれ誰にでも訪れる。くじけてしまっては顔を合わせられない。
頭を切り替えて、小銭を投入。取り出し口からコーヒーを手に取った時だった。
ドン、という鈍い音が穹の耳に届いた。あたりを見回すと、一台の軽トラが蛇行しながら自分の方向に向かってきているのが分かった。
操縦席は無人だ。だが速度が異常に早い。
「な、なんだっ! そんな、嘘……だろ……?」
必死に避けようとしたところまでは覚えている。だが誰も乗っていないはずの車は、まるで追尾するかのように穹へと進路を変えてきたのだ。
衝撃は一瞬で、痛みも一瞬だった。
水の中で音を聞いているように、もやっとした膜越しに悲鳴が聞こえる。
「おいおいおい、やべえぞ。救急車呼べ、早く!」
「マジかよ。動画動画。バズるわコレ」
「おえええっ、頭バックリいってるぜ」
(息が……できない。俺は……母さん……コタロー……)
意識は急速に薄れていく。瞼はとても重く、体は雪山にいるかのように寒い。
最後に穹が目にしたものは、ひしゃげた缶コーヒー。
そして今まで目にしたこともないような、異国の装束を着た美しい少女だった。
彼女はそっと蒼い槍を取り出し、穹の心臓を突く。痛みはもうない。そのまま槍は体に吸い込まれていった。
◇
蒼月は白亜の神殿を染め上げている。
「観測所より魔術振動の感アリ。『蒼』の召喚に成功したとのことです」
どよめきと歓声。
壁に掛けられた松明の火は、集ったものたちの喜びの影を映し出している。
「女神グリセルダ様のご加護があったようだな」
「これで世界はまだ戦える!」
「あとは――」
黒い法衣をまとった神官たちと、白衣を着た研究者の目が、奥に鎮座する男に集中した。
玉座とまではいかないが、繊細な金飾が施された重厚な椅子に、どっかりと座り込んでいる筋肉質で、片眼鏡の男がいる。
固唾をのんで見つめる人々に、男は手を挙げて答えた。
「よくぞ成功させてくれた。まこと感謝の念にたえない。これより予定通り、赫蒼双炎の儀を執り行う」
「おお、ついに!」
「夷を以て夷を制す。竜爵閣下の知恵の泉は枯れるを知らずですな」
「して、『赫』は何処に」
彼らには必要だった。赫蒼双炎の異名を持つのは一組の男女である。
「選定は既に済んでいる。吉報を待つがよい」
「竜爵閣下の仰せのままに……」
やがて集ったものたちは酒杯を手に、乾杯を繰り返す。
さもありなん。
世界で十二組しか存在できない、究極の存在を召喚することに成功したのだから。
◇
穹が目覚めたとき、その体は鉄格子がはめられた檻の中だった。
まず気づいたのは、自分の体から漂ってくる甘ったるい匂いだ。お香でも焚かれてるのだろうかとあたりを見回し、ぎょっとする。
「なんだこの床……え、魔方陣?」
妖しく紫色に明滅を繰り返すそれは、穹の神経をささくれ立たせる。
「えっと、そうだ、事故。俺は車に……!」
急いで自分の体に触れ、怪我がないか確かめる。だが流血はおろか痛みすらないので、ひとまずは大事無いだろうと判断した。
「少なくとも生きてはいる……と。で、ここはどこなんだよ」
病院だろうか。だが救急搬送されたとしても、重度の精神疾患患者が入室するような部屋のようだ。
「すいませーん! 誰かいませんかー!?」
声は時代がかった古いレンガを振動させ、辺りに木霊していく。
動きがあった。奥から二人の男が現れ、穹を値踏みするように観察している。
(外国人?)
穹の心拍数が上がる。目の前にいるのは西洋人に、若干のアジア的な丸みを加えたような容貌の人物たちだ。
「立派な素体ですな。流石竜爵閣下。お嬢様の血液を媒介とした召喚は大成功でございますね。魔法が不得手であらせられる……お嬢様にとって最適な組み合わせとなることでしょう」
「口ごもる必要はない、グレーフェン。アレに才能が無いことなぞ親である私が一番承知していることだ。まあいい。何はともあれヴァルトラウトの家に縁をもつ赫蒼双炎が出た。その事実が重要なのだ」
何やら深刻そうに話をしているが、穹にはさっぱりとわからない。日本語が通じるようなので意を決して話しかけてみることにした。
「すみません。ここはどこでしょうか」
「驚いた。我々の言語が解るのか」
「女神グリセルダ様の加護が備わっているのかもしれません。用心なさいませ」
警戒心が高まった二人に、穹は続けてたずねてみる。
「あの、もし俺が何かしてたらすみません。でもそろそろバイトに戻らないといけないんですが」
「ばいと……? 異世界の固有言語か。まあともあれ言葉が通じるのであれば教育も楽になるだろう。ただでさえアレの後始末に追われているのだ」
「えと……話が見えないんですが」
「ふむ。君の名前を問おう、少年」
「一ノ瀬穹といいます。イチノセが姓でソラが名です」
「なるほど。ソラ君、単刀直入に言おう。君は今まで住んでいた世界とは異なる世界にいる。それは我らが召喚の秘術を以て呼び寄せたからだ」
「ちょっと荒唐無稽すぎてお話についていけないんですが」
つまらなそうに穹を見つめる竜爵は、重々しく言葉を紡ぐ。
「君がどのように死亡したのかは不明だが、我々はこの世界で闘争するにふさわしい戦士の霊魂を選んだ。君にはこの世界、グランベリアのために身を賭して戦ってもらいたい」
死亡した。その言葉は穹を打ちのめした。
「待ってください。仮にあなたの言葉が事実だとしても、そんなの……身勝手すぎる」
「我々は存亡の危機に陥ってる。あらゆる手段を講じ、一人でも多くの有能な戦力が必要なのだ。君を元の世界で死亡させたのは謝罪しよう。だが君は女神グリセルダ様の力と我々の召喚術によって世界に生き返ったのだ。その身は我々の所有物である」
こんな茶番に付き合っている時間は穹にはない。一時間でも長く労働して賃金を得なくてはいけないのだ。
「意味不明なこと言ってないで、俺を元の場所に戻してください。俺にはやらなきゃいけないことがあるし、待っている人たちがいるんだ!」
「残念だがそれはできない。諦めよ」
ふざけるな。いい加減にしろ。
「母が病気なんです! もしかしたら今にも危篤になるかもしれない! 責任とれるんですか!?」
「グランベリアの未来のためには些事である。そも親は子よりも先に死ぬのだ。そのような自然の摂理を勘案する必要性はない」
「そんなことだと! さっきから聞いてれば、てめえ、いい加減にしやがれ! 母親と老犬が俺の働き次第で生き死にがかかってるんだよ!! 今この時が俺の正念場なんだ。ふざけたことぬかしてないで、とっとと俺を帰せ!」
「不幸な巡りあわせであったとは思う。次の機会があれば、そのような事情を持たないものが来ることを願おう」
穹は格子を掴み、蹴り、殴りつける。だが当然のごとくビクともしない。
このままでは穹は母親の死に目にもあえず、老犬は寂しく自宅で餓死をする。無事に戻れたとしても待っているのは無だ。
「いい加減に口をふさげ、下賤の民よ」
竜爵と呼ばれていた男が手にしている杖をふるう。
「ん、んん――!?」
穹の口はコンクリートで固められたかのように動かなくなった。
「竜爵閣下の『沈黙』、お見事でございます」
「よく聞けソラよ。お前の世界の住人よりも、私にはグランベリアの民の方が重要だ。そしてお前も本日よりその一員となる。過去は忘れるのだな」
「んぐっ、んっー-!」
「連れていけ」
発言を終え、竜爵・フォルカー・アウグスト・フォン・ヴァルトラウトは背を向ける。背後に控えていた兵士たちが牢を開け、穹の体を強引に引っ張りだした。
(ちくしょう、こんなの間違ってる。早く、早く帰らないと……)
遠ざかる革靴の音を聞きながら、穹は歯を噛みしめることしかできなかった。




