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第4話 影の帳と静かな侵入者

夜――


 廊下の灯りは消え、館は静寂に包まれていた。

 風の音もなく、虫の声すらない。

 建物全体が、まるで時間の流れから切り離されたかのような、奇妙な静けさ。


 僕は、物音で目を覚ました。


 (……足音?)


 微かに、床板が軋む音。

 誰かが廊下を歩いているような、そんな気配。


 部屋の外には、誰の声もしない。

 けれど、確かに――何かがいる。


 (誰か、忘れ物でも取りに……?)


 そう思って布団から出ると、冷たい空気が肌に触れた。


 音のする方へと、ゆっくりと廊下を進む。

 床板は思いのほか静かで、足音を吸い込んでくれる。


 そして――角を曲がった先。


 ほんのわずかに、開いている扉があった。


 「……え?」


 それは、ネムの部屋だった。


 昨日までは、固く閉ざされていたはずの扉。

 “ノック厳禁、餌を置いて去れ”と書かれた、厳重な紙が貼られていたその場所。


 (……誰か、入った?)


 あるいは、ネム自身が――?


 けれど、あの引きこもりの魔族が、自ら部屋を開けるなんて。


 (いや、もしかしたら、何かあったのかも……)


 僕はそっと近づく。

 でも――


 「――おい」


 不意に、背後から低い声がかけられた。


 振り向くと、廊下の影の中にひとり――アルノが立っていた。

 いつもより静かに、けれど確かな力を帯びた目で、こちらを見ている。


 「それ以上、入るな。そこは、管理人の“職域”じゃねぇ」


 「え……でも、扉が開いてて――」


 「わかってる。でも、開いてるからって、踏み込んでいいとは限らねぇ」


 その言葉に、僕は一歩、足を引いた。


 アルノは黙って近づくと、扉をそっと閉めた。

 その手には、さりげなく握りしめられたタオルと、バニラアイスの小さな箱。


 「見なかったことにしてくれ。ネムは、そういうヤツだ」


 「……うん」


 それ以上、何も言えなかった。


 部屋の前に、静かに置かれたアイス。

 そして、再び閉ざされた扉。


 それは、“引きこもり”という言葉だけでは説明できない、何か深いものを感じさせた。


***


朝の光が差し込む食堂。

 焼いたパンの香りと、スープの湯気。

 いつも通りの朝のようでいて、少しだけ違ったのは――僕の気持ちだった。


 (昨夜のこと……)


 ネムの部屋の前で出会った、アルノの言葉と、静かに置かれたアイスの箱。

 あれは、明らかに“何かがあった”証拠だった。


 けれど、今その話題を出すには、空気が違いすぎた。


 「ん~、今日のスープもおいしいねぇ! 創真、やるぅ!」


 「ありがとう、クーク。ルゥグの卵、昨日より蒸してから溶いたから、まろやかになってると思う」


 「うんうん、しっぽで味わえる感じー!」


 「……どうやって?」


 隣ではアルノがパンを片手に、筋トレ器具をいじりながら黙々と食べている。

 いつも通りだ。でも、彼の目線が時折“奥の廊下”へ向いていることに、僕は気づいていた。


 そして、その空気を誰より敏感に感じ取っていたのは――


 「……ネムのことなら、心配しなくていいわ」


 唐突にそう口にしたのは、リリスだった。


 スプーンを口に運ぶその手は変わらず静かで、顔も変わらない。

 だけど、その言葉には、わずかに重さがあった。


 「……やっぱり、何かあったんですか?」


 「……いいえ。あったわけじゃない。“よくあること”なのよ、あの子にとっては」


 「……“よくある”……」


 リリスはふっと目を伏せ、コップの縁を指でなぞった。


 「ネムは……自分のタイミングで、勝手に出てきて、勝手に隠れて、勝手に引きこもるの。誰もそれを止めないし、否定もしない」


 「それって、放置してるってことですか?」


 「違うわ」


 リリスの声が、少しだけ鋭くなった。


 「“自分の居場所”を守るために、誰かが決めたルールじゃなく、“自分で選んだルール”で生きてる。ネムは、そういう子よ。……そして、この家は、それを許してるの」


 その言葉に、クークがパンをかじりながらぼそっと呟いた。


 「ネムって、あれでけっこう優しいよ? おなかすいてたら、なんか差し入れてくれるし」


 「何を?」


 「う~ん……氷結した魚の切り身?」


 「めっちゃ魔族感ある……」


 でも、不思議だった。

 名前も顔も、ほとんど知らない相手なのに――なぜか、ほんの少しだけ“心配”だった。


 (たぶん……昨日の扉の、あの空気のせいだ)


 無理に話さない優しさと、踏み込まない距離感。

 この家は、そういうふうに“誰かの心の形”を許容するようにできているのかもしれない。


 「……創真」


 リリスがふと呼んだ。


 「“全部に関わろう”としないこと。管理人は、“整える”ことが役目。壊すためじゃないわ」


 「……わかってます」


 静かに頷いて、僕はスープの鍋に手を伸ばした。

 今できることは、“この食卓を整えること”。

 ――それだけで、十分なんだと思う。


***


午前の仕事を終えて、僕は廊下を歩いていた。

 洗濯物を干し、窓を拭き、物置の前を通り過ぎ、いつものように“整える”仕事をしているだけ。だけど、今日は気持ちが少しだけ落ち着かなかった。


 (……昨日のネムさんの部屋のこと)


 扉の隙間、アルノの言葉、そしてリリスの今朝の反応。

 誰も“深くは語らない”その距離感が、この家の空気だとわかっていても、どこか気になってしまう。


 そのとき――視界の隅に、“それ”が見えた。


 (……あれ?)


 ネムの部屋の前。昨日と変わらず、ドアはしっかり閉ざされている。

 でも、その前に置かれていた“餌用の木皿”の横に、何かが添えられていた。


 「……封筒?」


 白い紙で作られた、折り目のついた手紙だった。

 封はされておらず、軽く折り畳んであるだけ。

 誰が置いたのかはわからないが、明らかに“誰かに向けたもの”のように見える。


 (……ネムさん宛て?)


 けれど、その紙には宛名も、差出人の名前も書かれていなかった。

 手に取ってみても、ごく普通の紙――かと思いきや、指先にひんやりとした“魔力の膜”のようなものが感じられた。


 (魔封……? いや、これは……)


 慎重に開くと、そこにはたったひとことだけ、文字が記されていた。


 —


 「また近いうちに、“記録”を見に来る」


 —


 「……え?」


 小さな紙の中心に、それだけ。

 字体は整っているが、どこか無機質で冷たい。まるで、感情のない機械が書いたかのようだった。


 (記録……? 帳簿のこと?)


 僕の胸に、ふと昨日の帳簿のことが蘇った。

 リリスが見せてくれた、住人の名が並ぶページ。そこに書かれた“自分の名前”。


 (でも、ネムさんの名前――あれ、載ってたっけ?)


 ……思い出せなかった。

 見たような気もする。でも、確かめた覚えもない。

 そもそも、“記録に残らない住人”がいるなんてことが、本当にあるのか――


 「創真?」


 不意に声をかけられて、肩が跳ねた。


 振り返ると、リリスが書類の束を抱えてこちらを見ていた。

 その目は、僅かに鋭い。


 「その紙、どこで拾ったの?」


 「え、あ、ネムさんの部屋の前で……あの、誰かの手紙、ですか?」


 「見せて」


 差し出すと、リリスは黙って受け取り、ぱっと目を通す。

 その表情は変わらない――けれど、わずかに指先に力がこもった。


 「……これは、破棄する」


 「え?」


 「この家の中に、“記録”を欲しがる者がいる。それは、あまり良い知らせではないのよ」


 リリスは小さく紙を折り直し、書類束の一番下に差し込んだ。


 「創真。あまり深入りしないこと。記録というのは、“存在の証”であると同時に、“拘束”でもあるの」


 「……拘束?」


 「そう。誰かが“記録に残らない”ことを選んでいるのなら、それは尊重すべき意思。

 それを外から“見に来る”と言ってくる存在は、たいてい――ろくなもんじゃない」


 その言葉が、冷たい風のように胸に残った。


***


 「記録は、存在の証」

 リリスが言ったその言葉が、ずっと胸に引っかかっていた。


 その意味を、もう少しだけ知りたくて。

 僕はひとり、帳簿室へと向かった。


 ――廊下の突き当たり。普段は鍵がかけられている重い扉。

 昨日リリスが貸してくれたその鍵を差し込み、そっと中へ入る。


 「……静かだな」


 冷たい空気。紙とインクの匂い。

 この部屋だけが時間から取り残されているような、そんな静けさだった。


 壁沿いには、棚。

 棚には、名簿、管理記録、物品リスト、各部屋の修繕履歴。

 そして中央の書架――そこに並ぶ冊子のひとつを、僕は手に取った。


 —


 《管理記録 第九番棟 居住者一覧(更新第36版)》


 —


 昨日、リリスがこの帳簿を見せてくれたときには、確かに“ネム”の名前も記されていた。

 だからこそ、今――もう一度、自分の目で見ておきたかった。


 (ええと……アルノ、クーク、リリス……)


 ページをゆっくりとめくっていく。

 僕の名前も、リリスの字でしっかり記載されていた。

 そしてそのすぐ下に――


 (……ネム)


 ――のはず、だった。


 けれど、そこにある“名前”は、奇妙だった。


 文字のかたちが――どうしても読めない。


 視線を定めようとするたびに、にじむように形が崩れていく。

 筆跡はある。インクもある。間違いなく、そこには“何かが書かれている”。


 でも、それが「ネム」なのかどうか――目で追っても、追うたびに違う文字に見える。


 (昨日は……確かに見えてたのに)


 ほんの一日前、リリスの帳簿で見た「ネム」の名前。

 あのときは、はっきりとそこにあった。間違いなく。

 なのに今は、まるで紙が“名前を忘れてしまった”かのような、不確かさだけが残っていた。


 (……なに、これ)


 言葉にならない違和感を抱えたまま、僕は帳簿の後半――未使用のページへ指を滑らせた。


 ページは真っ白。だけど、紙の表面にはどこかざらついた感触があった。

 まるで、何かが書かれて、そして無理やり消されたような――


 そのとき、ばちっ、と。


 「……っ!」


 軽い痛みが指先を走った。思わず手を引っ込める。


 見ると、指先には――灰色のインクのような染みが浮かんでいた。


 (今、なにかに……拒まれた?)


 ぞくり、と背筋をなぞるような感覚。

 記録の空白が、ただの“空白”ではないと、確かに思えた。


 「創真」


 不意に声がして、振り返る。


 帳簿室の入口に立っていたのは、リリスだった。


 彼女は静かに歩み寄り、僕の手元の帳簿を見て――目を細めた。


 「……触れたのね」


 「……あの名前、ネムさんの……見えなくなってました。昨日は、ちゃんと書かれてたのに」


 「そう。あれは、“見ようとする者によって、かたちを変える名前”なのよ」


 「それって……」


 「ここでは、“記録”すらもひとつの“生きもの”なの。誰が、何を、どこに残すか。あるいは残さないか。

 それは、ただ紙に書くだけじゃない。“意思”や“境界”や――時には、“忘れられたいという願い”すらも含まれている」


 リリスの声は、ふだんより少しだけ優しかった。


 「ネムは、“忘れられることで存在している”ような子よ。……だから、もしあなたが、その名前を呼ぼうとするのなら――相応の“覚悟”がいるわ」


 僕は言葉を失った。

 でも、胸の奥では、何かがはっきりとかたちになりはじめていた。


***


その夜。僕はなんとなく眠れずにいた。


 昼間に見た、あの帳簿の“にじんだ文字”。

 指先についた、灰色の染み。

 そして、リリスの言葉――「名前を呼ぼうとするなら、覚悟がいるわ」。


 (……覚悟って、なにを?)


 ネムのことは、ほとんど知らない。

 けれどこの家に来てから、アルノもクークも、フレイムも――ちょっと変ではあるけど、ちゃんと“顔を見て”、言葉を交わして、名前を呼んで、笑った。


 それが、当たり前だと思っていた。


 けれど、ネムだけは、何かが違う。


 顔も知らない。声も聞いたことがない。

 名前すら、はっきりと“記せない”。


 (……でも)


 だからこそ、気になっていた。


 誰かが“忘れられるように生きてる”って、どんな気持ちなんだろう。

 誰かが、記録にも言葉にも残らず、それでもここで暮らしているって――


 そのとき、コツ、と音がした。


 扉の外。廊下の向こうから、小さな足音。


 (……まただ)


 昨日の夜と同じ。けれど今日は、僕の部屋の前で、その足音が止まった。


 気配が、そこにいる。


 呼吸を殺して耳を澄ますと、扉の向こうから――


 「……起きてる?」


 ――小さな声がした。


 かすれた、けれど女の子の声。

 囁くような、霧のような声。


 (え……?)


 「……えっと……ネム、さん……?」


 扉の向こうで、少しの沈黙。そして、


 「……見えてる?」


 「え?」


 「……私のこと、今、ちゃんと見えてる?」


 「……見えてない、です。けど、声は……」


 「それなら、ちょっとだけ――名前、呼んで」


 息が詰まりそうになった。


 (……呼ぶ? ここで?)


 昼間、帳簿で名前をにじませた“何か”。

 リリスが言っていた“覚悟”という言葉。


 でも――扉の向こうのその声は、今にも消えてしまいそうに細くて、

 それなのに、確かに“届いて”いた。


 僕は、ごくりと息を飲み込み、口を開いた。


 「……ネム」


 沈黙。

 そして――


 「……うん」


 そのひとことだけ、安らぐような息とともに聞こえた。


 気配がすっと離れ、足音が小さく遠ざかっていく。

 扉の向こうにいた“誰か”が、ほんの少し、僕の前に現れて――消えていった。


 (今の、ほんとに……)


 でも、あの声は確かだった。

 “ここにいる”と、ちゃんと僕に伝わった。


 名前を呼ぶということは、存在を認めるということ。

 そして、誰かと繋がる、ほんの一歩なのだと思った。


***


朝。

 食堂に入ると、僕は思わず立ち止まった。


 テーブルの端――いつも空いている“誰も使っていないはずの席”に、空の器が置かれていた。


 「……あれ?」


 昨夜、寝る前に並べておいた器ではない。

 朝食の支度をする前。テーブルを整える前に、すでにそこにあった。


 (誰か……ここで食べた?)


 中身は、きれいに食べられている。

 スプーンも、少しだけ濡れている。

 けれど、他の誰の席でもない。“余ったはずの器”が、きれいに空いていた。


 「……ネムさん、なのかな」


 思わず呟いたそのとき、背後からぱたぱたと足音が近づいてきた。


 「おはよー! あ、今日もいいにおいー!」


 「おはよう、クーク」


 「……ん? あれ? そこの席、使ってた?」


 「いや……朝来たときには、もうこの状態だった」


 「ふしぎー。誰だろうねー? ねえ、アルノー!」


 クークが声を張ると、奥の方から「うるさい」と返ってきた。

 けれど、アルノも食卓を見て、わずかに眉を動かした。


 「……その器、昨日まで使ってなかったな」


 「やっぱりそうですよね」


 「ネム、か」


 短くそう呟いて、アルノはパンをかじった。

 それ以上は何も言わなかったけれど、顔にはどこか納得したような色が浮かんでいた。


 (……やっぱり、来てたんだ)


 あの声。扉越しの会話。

 あれが夢じゃなかった証拠が、こうしてテーブルの上に残っている。


 「創真、なんか知ってる?」


 クークが目を丸くして見上げてくる。


 「……ちょっとだけ、話したんだ。扉越しにだけど、名前を呼んでって言われて、呼んだら――返事があった」


 「ほんとに? すごい! ネムって、人見知りすぎて、アルノにもろくに話さないのに!」


 「それは単にお前がうるさいだけだろう」


 「むーっ」


 賑やかなやりとりの中で、器はそっとそこに置かれ続けていた。

 まるで、“ここにいた”ことを、ささやかに伝えたくて。


 「……ちゃんと、温かいうちに食べてもらえてたらいいな」


 僕がぼそっとつぶやくと、リリスがすっと食堂に入ってきた。

 何も言わず、空の器をちらりと見て、そして静かに頷く。


 「じゃあ、創真。今日の仕事だけど――」


 話題は自然に切り替えられた。

 でも、リリスの声のトーンが、ほんの少しだけやわらかかった気がした。


***


朝食の片づけを終え、僕はいつものように台所へ食器を運んでいた。


 いつもと同じ作業。器を重ね、スプーンをまとめ、お湯を沸かし、布巾を用意して――

 でも、ひとつだけ違ったのは、“空の器”がひとつ増えていたことだ。


 (ネムさんが……食べた)


 それだけのことが、どうしてこんなに心に残るのか、自分でもわからない。

 ただ、その器だけは、なぜか他の皿と一緒にできなくて。


 そっと、水に浸けてみる。

 普通のスプーン。普通の茶碗。

 でも、そのどちらにも、まだ**“誰かの温もり”**が残っている気がした。


 (……手で、持ってたんだ)


 水に触れた器の縁。

 そこに、ぴたりと指を添えたときだった。


 ――ふわり、と。


 背後に、ほんのわずかな風の流れを感じた。


 (……?)


 誰かが通り過ぎた気配。

 窓は閉まっている。リリスたちの足音もしない。


 けれど、すぐそこに――“視線”だけが残ったような、そんな感覚。


 「……ネムさん?」


 呼びかけてみても、返事はなかった。


 けれどそのとき、僕の手の中のスプーンが、かすかに音を立てた。


 キィン……と、どこか高く、金属の澄んだ共鳴音。


 手からは伝わらないのに、耳にはしっかり届く、不思議な感触。


 (……“ありがとう”って、言ってるみたいだ)


 根拠はない。ただ、そう感じただけ。

 でも、そう思うだけで、自然と口元がほころんだ。


 「どういたしまして。……また、食べてね」


 誰に向けるでもない言葉。

 でも、言った瞬間――湯気がふわりと、くすぐるように鼻先を撫でた。


***


 午後、洗濯物を干し終えたときのことだった。

 物干し場の裏手で風にタオルがはためく中、リリスが静かに僕を呼んだ。


 「創真。少し、話せる?」


 「はい」


 彼女は手に一冊のバインダーを抱えていた。

 それは見覚えのない厚紙の帳面――けれど、手にした瞬間から、どこか“普通ではない”気配を放っていた。


 「これは、“影帳えいちょう”。正式な帳簿ではないわ。

 この家に住んでいたけど、今は記録からこぼれ落ちた人たち――そういう存在の“痕跡”を残すもの」


 「……記録から、落ちた?」


 リリスはバインダーを開き、薄いページをゆっくりめくってみせる。


 そこには名前があった。

 けれど、読めなかった。


 書かれているはずなのに、目で追うたびににじんで崩れ、指で触れるとざらりと紙の感触が変わる。

 まるで、記憶の中の誰かを思い出そうとしたときのような――不確かさ。


 「ネムさんの名前……ですか?」


 「そう。ネムは、もともと“住人帳”に記録されていた。正式な住人として」


 「じゃあ、なんで影帳に……?」


 「その記録が、少しずつ“剥がれてきている”のよ。まるで紙に染みたインクが薄れていくように。

 今のネムは、“記録に残る存在”としての輪郭が、曖昧になってきている。

 そして、そうして“記録から外れかけている者”が――こうして、影帳に写りはじめるの」


 彼女の指先が、かすれた文字の上をなぞる。


 「これは“二重記録”じゃないわ。

 “記録の移行”――いえ、“こぼれ落ちた余熱”のようなもの。

 ネムは今、住人帳と影帳のあいだに存在してる。

 定着できず、どちらにも居場所を持たない……不安定な状態」


 「……それって、放っておいたらどうなるんですか」


 リリスはしばらく黙っていた。

 風がページをかすかに揺らす音がする。


 「――忘れられる」


 その一言が、思ったより重く響いた。


 「名前を呼ばれることもなく、記録にも残らず、誰の記憶からも失われていく。

 それが“影帳にしか存在しなくなった者たち”の末路よ。

 ネムは今、その一歩手前にいるの」


 「……それを止めるには、どうしたらいいんですか」


 リリスは、驚いたように僕を見た。


 「……あなた、そんなふうに言うとは思わなかった」


 「僕、昨日……ネムさんに名前を呼んでって言われて。

 呼んだら、“うん”って返事があったんです。

 それだけなのに、なんだか……嬉しかった。

 誰かと繋がったって、ちゃんと届いたって、思えたんです」


 その言葉に、リリスはふっと目を細めた。


 「なら、答えはもう持ってるのね。

 記録とは、ただの紙じゃない。“誰かを想い、呼ぶこと”。

 その積み重ねが、存在をここに留めるのよ」


 風が吹いて、ページがめくられた。

 そこにあったのは、ぼやけてはいるけど――確かに、誰かの名前だった。


 (この紙の中で、誰かが消えないように――誰かを、誰かでいさせるために)


 僕は、その重さを両手でそっと受け止めた。


***


物干し場の風が静かに吹き抜けていた。

 リリスはバインダーを手にしながら、どこか遠くを見るような目をしていた。


 「創真。あなたには、記録って“何のためにある”と思う?」


 「……誰かが“そこにいる”って、忘れないためのもの……ですか?」


 「そうね。けれどこの家では、それだけじゃ足りないの」


 リリスはバインダーを閉じ、腰のポケットからもう一冊、小ぶりな冊子を取り出した。

 それは、これまでに見た帳簿とはまた違った雰囲気のものだった。


 「この家には、記録が三つあるの。ひとつは、あなたも見た“住人帳”」


 「はい。今この家で暮らしてる人たちの名前が載ってる帳簿ですね」


 「ふたつめが、“影帳”。消えかけている者たちの痕跡が、にじむように浮かぶ記録。

 もともとは住人だったけれど、記録に定着できなくなった者たち。あるいは、誰にも呼ばれなくなった存在」


 「……ネムさん、ですね」


 「ええ。そして――三つ目が、これ」


 リリスは手にしていた小冊子を、僕に差し出す。


 表紙には、手書きのような文字でこう書かれていた。


 —


 《来訪者帳――記録されぬ定住者たち》


 —


 「この帳は、フレイムのような者のためのもの。

 どこかに根ざすことなく、けれどこの家に“縁”を持ち、時折戻ってくる。

 彼らはこの家にとって“記録すべき存在”だけれど、“住人”ではない。

 だから彼らの記録は、ここに“眠って”いる」


 リリスはそう言ってページを開いた。


 その中には、“フレイム”の名前。

 短く記された来訪履歴。「6年前、9月」「3年前、2月」「先月、蒸気風呂破壊」などのメモ。


 「来訪者帳の名前は、いなくなれば“休眠”する。でも、完全には消えない。

 呼べば目を覚ます。“縁の記録”だから」


 「……誰かが思い出してくれる限り、名前は残る」


 「そう。だから彼らは、影帳には載らない。忘れられていないから」


 僕は静かにその三つの帳簿を見つめた。


 住人帳。

 影帳。

 来訪者帳。


 どれも、記録のかたち。

 でも、記録のあり方が違えば、存在の仕方も変わる――


 「……じゃあ、僕がもし誰からも呼ばれなくなったら、影帳に移っていくんですか?」


 「その可能性もあるわ。でも、あなたはもう“誰かの中にある存在”になってる。

 クークやアルノ、ネム、私……あなたを呼ぶ者がいる限り、あなたはここに“残る”」


 それは、どこか怖くて、でも、あたたかい話だった。


 記録というのは、“書く”ことだけじゃない。

 “呼び合うこと”。それが、この家での“居場所”なのだ。


***


夜。

 今日も、静かだった。


 窓を閉じた僕の部屋には、かすかに風の音だけが入り込んでいた。

 館全体がまるで息を潜めているようで、足音ひとつさえ届かない。


 (……記録って、“呼び合うこと”)


 昼間、リリスに聞いた話が、まだ胸の中に残っていた。


 住人帳。

 影帳。

 来訪者帳。


 記録とは、紙に書かれた名前の話ではなく、誰かが誰かを想う、その“痕跡”そのものなのだと。

 そう思えば思うほど――やはり、もう一度、名前を呼びたくなった。


 「……ネムさん」


 声に出すと、部屋の空気が微かに震えた気がした。


 静かな呼び声。けれど、前よりもずっと、はっきりと想いを込めていた。


 「もし、聞こえてたら……今日もちゃんと、ご飯食べてくれてたら、嬉しいです」


 返事はなかった。


 けれどそのとき――


 窓際の小さな机の上に置いていたノートが、ふわりと一枚、ページをめくった。


 風はない。部屋の扉も閉まっている。

 それでも、確かに“何かの動き”があった。


 「……来てたんですね」


 僕は思わず、机の方へ視線を向けた。


 何もいない。影もない。

 でも、“気配”だけが、やわらかく残っている。


 (ここにいた。ちゃんと、いた)


 声はなくても、返事はあった。

 姿は見えなくても、誰かの存在は伝わってくる。


 それが、“名前を呼ぶこと”の力なのだと、今なら少しだけわかる気がした。


 「また明日も、話しかけますから」


 ノートのページが、もう一枚だけ、やさしくめくれた。


***


朝。

 食堂に入ったとき、僕はまたあの“器”を見つけた。


 前日と同じ席。いつも空いている、端の椅子の前に――

 食べ終えた食器が、きれいに揃えて置かれていた。


 でも、昨日とは違っていた。


 スプーンの柄が、ほんのわずかに斜めを向いている。

 お茶の湯呑みには、すこしだけ残り香が漂っていた。


 (……ここに、ちゃんと“いた”)


 そして、何より。


 「あ、また来てる~!」


 クークが飛び跳ねるように近づいてきて、その席を指さした。


 「ねえ、これネムでしょ!? またごはん食べてるんだね~!」


 「うん。食べてくれてるみたいだね」


 僕が頷くと、クークはしっぽをふわふわ揺らしながら言った。


 「じゃあ、今日の朝ごはんは“ネムにも好かれるメニュー”ってことだね!」


 「その基準、すごい狭いけど……まあ、嬉しいです」


 後ろからアルノもやって来て、器をちらりと見た。


 「……温もり、残ってるな。最近じゃめずらしい」


 「“最近じゃ”ってことは、昔はよくあったんですか?」


 「まれにな。気分次第で現れては消える。ネムってのはそういうやつだ」


 「でも、“現れた”って、目撃情報あるんですか?」


 「いや、ない。けど、俺たちは“気配”でわかる」


 そう言って、アルノは椅子をひとつ引き、テーブルについた。


 「昨日より、気配が濃い。だから今朝は、ネムのぶんもひと皿用意しとけ」


 「……わかりました」


 返事をしながら、僕はふと思った。


 誰かがここに“いた”という証拠は、言葉じゃなくても、姿じゃなくても――

 こんなふうに、少しずつみんなの中に“気配”として残っていくのだと。


 その気配が、やがて“記録”になっていく。

 そしてそれが、誰かにとっての“居場所”になるのだと。


***


昼下がりの中庭。

 風が葉を揺らし、木漏れ日が地面に影を落としている。


 僕は洗濯物をたたんでいた。

 乾いたタオルを手際よく折りながら、ふと視線を上げると――リリスが、物陰からこちらを見ていた。


 「……どうかしました?」


 「いいえ。ただ、見ていただけよ。あなたの手の動きは、いつも丁寧ね」


 「ありがとうございます。洗濯は、わりと得意なので」


 「いえ、そういう意味じゃなくて」


 リリスは少し歩み寄りながら、ポケットから一冊のノートを取り出した。


 それは昨日見せられた、影帳でも住人帳でもない――まっさらな、小さな帳簿だった。


 「これは……?」


 「“記録者の帳”。まだ名前は書かれてない。

 本来これは、“管理人の補佐”にあたる者、つまりこの家の“記録の引き継ぎ手”に手渡すものよ」


 「記録……の、引き継ぎ?」


 「あなたはまだ、“ただの管理人”。けれど最近のあなたは、少しずつ“記録者”に近づいている」


 そう言われて、僕は言葉に詰まった。


 「記録者って……リリスさんの役目ですか?」


 「ええ。私はこの家の“記録の保管者”でもある。

 けれど、記録はただ書き留めるだけじゃない。“存在を受け止めて、忘れない”――それが本当の意味」


 リリスはノートをぱらりと開く。中は白紙だった。


 「ネムの名前を呼んだのも、気配を受け取ったのも、あなたが最初。

 それはこの家の“記録”として、すでに意味を持っている」


 「でも、僕には……まだ、そのつもりは……」


 「ええ、わかってる。これは“選ぶ”ものだから」


 リリスはふと、空を仰ぐ。


 「ここには、たくさんの“記されなかった物語”がある。

 けれど、それを記す価値があるかどうか――その判断は、私だけではできない」


 「……僕に、できるでしょうか」


 「さあ。けれどあなたは、今日も名前を呼んだ。

 呼ぶたびに誰かが返してくれるなら、それはもう“始まっている”のよ」


 彼女は、白紙のノートをそっと僕の手に渡した。


 「これはまだ、“預ける”だけ。持っていて。いつか、あなた自身が“誰かを記録したい”と思ったとき――そのとき、初めてこの帳は開くわ」


 僕は、ノートを両手で受け取った。


 小さくて、軽くて、でも――ひどく、重かった。


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