第3話 名ばかりの管理人-試練の一日
朝食の片づけを終え、食堂の空気が落ち着きを取り戻した頃。
僕はリリスに呼び出されて、廊下を歩いていた。目的は、今日の“本格的な管理人業務”の開始らしい。
「これから、この家の掃除、洗濯、備品確認。ひと通り全部、担当してもらうわよ」
「いきなりですか……?」
「いきなりじゃないわ。昨日の夜の時点で、あなたは“仮採用”。それは本人にも伝えたはずだけど?」
「いや、なんか“崖から蹴り落とす”って脅された記憶しかないんですが……」
「それが“この家の試用期間”の意味よ」
「ブラック企業の面接ですか!?」
軽口で返しながらも、僕の心には、うっすらと緊張感が残っていた。
“まだ正式な居場所ではない”という事実は、ずしりと重く響く。
でも、不思議と足取りは重くなかった。
むしろ――この家の空気に、少しずつ馴染んできている自分がいた。
クセの強い住人たち。騒がしいけど、どこか素直で、不器用で。
それでも一緒に食事を囲めば、笑ってくれる。叱ってくれる。頼ってくれる。
誰もが完璧じゃない。けど、だからこそ、放っておけない。
「……もうちょっと、ここにいてみたいかもな」
ぽつりと小さく、誰にも聞かれないように呟いた。
「なにか言った?」
リリスが前を歩きながら、ちらりと振り返った。
「い、いえ、なんでもないです!」
「ふうん。ま、逃げ出すのはいつでもできるから、そのときは早めに言いなさい。報告書を書くのが面倒だから」
「そっちの都合なんですか!?」
リリスは、昨日とは違う廊下の先――薄い緑の扉の前で立ち止まった。
「さて、第一関門よ。問題児その一、“アルノ”の部屋。あなたの初仕事は、ここから」
「問題児って、本人に聞かれたらどうするんですか……」
「大丈夫よ。本人も自覚してるから。むしろ誇ってるわ」
それはそれでどうなんだと思いつつ、僕は扉のノブに手をかける。
「……じゃあ、いってきます」
「ふふ。せいぜい、筋肉まみれになってらっしゃい」
軽く背を押されるような気配とともに、僕は扉をゆっくりと開けた。
「お邪魔しまーす……」
中に入った瞬間――鼻をつくのは、強烈な汗と革と金属の匂い。
「……うわぁ」
想像の五倍くらい、“体育会系の部室”だった。
***
扉を開けてまず飛び込んできたのは、空気の密度そのものだった。
もわっとした熱気、刺激のある汗と金属の匂い、そして謎のスパイス的な何か。完全に“野性”だ。
「これ、ほんとに部屋……?」
部屋の中は、まるでトレーニングジムだった。
というか、ジムですらここまで物は置かないんじゃないかというレベルで、壁際にはバーベル、鉄アレイ、縄。床にはマットとプロテインの空袋。天井から吊るされているロープは……なにに使うんだ?
部屋の一角には、謎の祭壇のように積まれた“使用済みタンクトップ”の山が築かれていた。
「すごい……神殿かな……?」
口から出た言葉に自分でツッコむ気力もなかった。
それでも、僕はゆっくりと足を踏み入れる。
部屋全体が“筋肉で形成された異空間”のように感じて、妙な緊張感がある。しかも床が意外と滑る。
「これ……床、プロテインでコーティングされてる?」
間違いなく足裏に馴染んでくる感触がある。危険すぎる。
(……けど、ここで逃げたら多分リリスさんに崖から落とされる)
気合を入れ直し、僕はおそるおそる両手を見下ろす。
「昨日みたいに……手を前に出して……」
スキル、《具現化家政》。
僕にだけ使える、異世界の“家事スキル”。
けれど、昨日一度きり発動しただけで、今でも信じきれていない。
(本当に、また出るのかな……)
不安と、ほんの少しの期待。
深く息を吸い、手のひらに集中を込める。
⸻
《スキル発動:具現化家政〈清掃モード〉》
⸻
光の粒が浮かび上がり、手元に“道具”が現れる。
バケツ、雑巾、モップ――すべて、見覚えのある家庭用のそれ。けれど、どこか“異質な力”が宿っている気がする。
「……出た。よかった……けど、やっぱり慣れないな、これ」
道具をそっと手に取り、重さや温度を確かめる。
形は完璧でも、どうにも“手に余る”感じがする。自分の身体と道具が、まだ微妙にズレているような感覚。
(だけど、やるしかない)
僕はそっとモップの柄を握り、タンクトップの山に向かって、一歩を踏み出した。
***
「おお……なんという清らかな空気……!」
その声に僕は、反射的に肩を跳ね上げた。
振り返ると、そこに立っていたのは――タンクトップ姿のアルノだった。
いや、もはやその“姿”というより、“存在感”。
朝日を背に、筋肉のアウトラインがやけに神々しく浮かび上がっている。
「部屋が……俺の筋肉が、喜んでいる……!」
「えぇ……」
思わず変な声が漏れた。
まぶしさもそうだけど、何より言ってる内容が筋肉ベースすぎて脳がついていかない。
「掃除、しておきました。タンクトップ、ちゃんと畳んで棚にしまいましたから」
「……ありがたい」
と、アルノは珍しく神妙な顔で言った。
「俺の“汗の結晶”たちが、丁寧に扱われた……それだけで、背中の広背筋が一段階開いた気がする」
「えっと、変化の指標がわからないです……」
「創真、貴様――いや、“君”。君は……掃除を、ただの家事としてではなく、“対話”として捉えているな?」
「たい、わ……?」
「掃除という行為は、空間との会話。空間に宿る気配、残り香、汗と埃と歴史を、受け止め、整え、敬意を持って拭い去る。――それはまさしく、“筋肉のメンテナンス”と同じだッ!」
「今の話、掃除の例えの中に強引に筋肉をねじ込んでません!?」
僕がツッコミを入れると、アルノは大きく頷いた。
「いや、違う。“筋肉とは掃除”であり、“掃除とは筋肉”だ。俺は今、その真理に触れた。ありがとう、創真。君に敬意を表して、これを授けよう」
そう言って、彼は自分の懐から――何かを取り出した。
「はい、これ。俺の“試作プロテインバー”。自家製」
「待って!? 完全に湿気てません!? 個包装とかないんですか!?」
「安心しろ。天然由来の保存法で固めてある。歯は折れるが、栄養は満点だ」
「安心できるわけないよね!?」
だけどその表情は、純粋に誰かに“何かを返したい”という気持ちで満ちていて――
なんだかんだで、受け取ってしまった。
(たぶん後で誰かに押しつけるけど)
「お前が、掃除で家を整え、俺が筋肉で場を整える。
この家は、俺たちが支えていくんだな――管理人殿!」
「いや、管理人として一緒にされるのはちょっと……」
とはいえ、こんなふうに素直に感謝されるのは、悪くない。
僕は、湿ったプロテインバーをそっとポケットにしまった。
***
「……終わった」
廊下に出た瞬間、思わず深く息を吐いた。
バケツの中の水はすっかり濁り、モップは筋肉の匂いをほんのりまとっている。
部屋はきれいになった。僕の服はちょっとだけ汚れた。
でも、不思議と気分は悪くない。
(アルノさん、ちょっと怖かったけど……ちゃんと感謝してくれたし)
“管理人として何かを成した”という手応えが、少しずつ胸に積もっていた。
玄関へ戻る途中、廊下の奥からリリスが姿を見せた。
手には書き物の束とペン。事務的な仕事をしていたらしい。
「終わったのね」
「はい。一応、床も水拭きして、棚も整理しました。あの……タンクトップは全部畳んでおきましたけど、捨ててよかったですか?」
「ううん、それは本人に任せて。あれはたぶん、アルノなりの“神棚”みたいなものだから」
「神棚だったんだ……」
リリスは小さく笑って、首を傾げる。
「それで、どう? この家での初“本格作業”は」
「……思ってたより、大変でした。でも……」
僕は、廊下の窓から差し込む日差しを見ながら、言葉を選んだ。
「掃除してると、ちょっとだけ、落ち着くんですよ。
自分の手で、何かを整えてるって感覚があって……それが、気持ちいいというか」
リリスの目が、一瞬だけ揺れた。
「……そう。なら、向いてるのかもしれないわね」
それだけ言って、彼女はまた歩き出した。
でも、数歩進んだところで、ふと振り返る。
「……創真」
「はい?」
「アルノの部屋を“最悪の筋肉ゾーン”って呼んでたけど、実際どうだった?」
「“最悪の筋肉ゾーン”って、そんな名称あったんですか!?」
「私はそう呼んでるわ。ちなみに“第二筋域”は風呂場、“最終筋界”は物置の奥」
「地獄のマップ作らないでください!」
リリスの口元がわずかに緩んだ。
「あら、ツッコミができる余裕はあるのね。結構なことよ。管理人には、その程度のタフさが必要だから」
「精神鍛えていきます……」
歩きながらの会話。それだけのやり取り。
でも、昨日の彼女より、ほんの少しだけやわらかかった。
そして何より――
僕は、今日一日を“ここで過ごした”ことに、ささやかな誇りを感じていた。
***
「次の掃除は、風呂場よ」
そう言ってリリスに案内されたのは、建物の南側――日当たりのよい渡り廊下を抜けた先にある、やけに大きな木製の扉だった。
「……ここ、まさか」
「ええ。“第二筋域”よ」
「そんなネーミング、公式なんですか?」
「一部の住人の間では定着してるわね」
僕が扉を前にして固まっていると、リリスがぽつりと付け加えた。
「そういえば、言ってなかったわね」
「え?」
「この家には、もうひとり“未記録扱い”の住人がいるの。
正確には、元住人で……今は、ふらっと帰ってくるだけの、半・居候みたいな存在」
「それって……?」
「“フレイム”という名の古竜。見た目は中年のおじさん。性格は脱ぎたがり。風呂好き。あと、非常に厄介」
「情報が多いし濃すぎるんですが……!」
「普段は長期でどこかに行ってて、気が向いたときだけ戻ってくるのよ。だから名前も帳簿に載ってない。けど、いるとしたら――今この時間は風呂場ね」
「こわっ……」
「掃除は任せるわ。くれぐれも覗くタイミングを間違えないことね。視線が合ったら、即、“脱ぎモード”に入るから」
「どんなフラグ立てですかそれ!?」
リリスはそれだけ言うと、くるりと踵を返して去っていった。
残された僕は、目の前の巨大な扉をじっと見つめる。
(……フレイム。風呂場を占拠してる古竜のおじさん)
この家にきてから、想定外のことばかりだったけれど――
正直、今日の一番の難所はここな気がする。
「よし……いくか」
モップとバケツを手に持ち、意を決して、僕は“第二筋域”へと足を踏み入れた。
***
扉を開けた瞬間、目の前に立ちこめたのは――もくもくと立ちのぼる蒸気の壁だった。
「……うわっ、なにこれ、サウナか……?」
湯気というより“霧”に近い。視界が白くかすみ、床の石タイルも見えづらい。
室内は意外と広く、天井が高い。石造りの浴槽が奥にひとつ、洗い場が数箇所。明かり取りの窓から差し込む光さえ、湯気でぼんやりとぼやけていた。
「これ、掃除どころか……遭難しそう……」
バケツと雑巾を手に、そろそろと足を踏み入れる。
足元の石は滑りやすく、慎重に進まなければならない。しかも湿気で髪がふわふわしてきている。
(とりあえず、窓を開けよう。換気、大事)
そう思って洗い場の隅を回り込もうとしたとき――
「おや、珍しいお客さんだ」
――声がした。
低く、くぐもった声。けれどどこか軽やかで、芝居がかった響き。
湯気の奥から現れたのは、肩まで伸びた濡れ髪をかき上げながら、バスローブ一枚で立つ中年男性だった。
すらりとした体格、落ち着いた佇まい、そして妙に整った顔立ち。
だけど、第一印象としては――
(……なんでバスローブ、開けかけてるの!?)
「君、新顔だね。さては……“管理人くん”かな?」
「え、は、はい……洗馬創真です。今日から……あの、掃除を……」
「おお、管理人くんか! よく来たねえ。歓迎するよ。あ、ちなみに私は――」
男はバスローブの前を片手で押さえつつ、もう片方の手を優雅に広げた。
「名乗るほどの者ではないけれど、まあ“フレイム”とでも呼んでおいてくれたまえ」
「名乗ってるじゃないですか!」
「はっはっは、細かいことはいいじゃないか」
湯けむりの中、フレイムはまるで舞台俳優のようなポーズで笑っていた。
その動きで、またローブがずり落ちかけているのがとても危険だ。
「とりあえず閉めてください! 風呂は開放的でも、肌は開放しすぎないで!」
「おっと、すまんすまん。つい癖でな」
彼はバスローブをぎゅっと締め直すと、浴槽の縁に腰かけた。
「それで、掃除だって? 悪いね。ついさっきまで古竜式入浴法の瞑想に入っていたところだったんだ」
「なにそれ怖い」
「いやぁ、久々に帰ってきたら、なんだか蒸気の回りが悪くてね。君が来てくれて助かるよ。……ん?」
フレイムの目が、僕の手元にあるモップとバケツに向けられた。
「それ、見覚えのない道具だね。まさか、“スキル”かい?」
「え? あ、いや……たぶん……そうです。なんか出せるようになったんですけど、まだよくわかってなくて……」
「ほう、“家事系”か。実にいい。地味だが、それでこそ価値がある」
フレイムは立ち上がると、まるで宝物を見るような目で僕を見た。
「管理人くん。君、たぶん、いいセンスしてるよ」
「えっ、センスですか?」
「うん。“黙って掃除を始める男”は信用できる」
「え、なんかそれだけで評価高くないですか?」
「黙って脱ぎ始める男も同じだ」
「それは絶対信用しちゃダメなやつ!!」
なんなんだこの人。疲れるけど、どこか憎めない。
いや、気を抜いたら絶対バスローブが落ちるので警戒は続けるけど。
「とにかく、風呂場を任せるよ。何か困ったら、呼んでくれたまえ。私が脱いで励まそう」
「励まし方を変えてください!」
***
夕暮れの光が、廊下に長い影を落としていた。
風呂場の掃除を終え、汗と蒸気と変人にまみれた僕は、ようやく廊下を歩いて戻ってきたところだった。
バケツは空っぽ。雑巾は絞りすぎて硬くなっている。
だけど、足取りは軽かった。
(今日だけで、筋肉地帯とサウナ地獄を踏破した……)
小さな達成感。
ほんの少し、この家の一員になれたような気がした。
「おかえり」
そんな僕に、正面から声をかけたのはリリスだった。
彼女はいつものように姿勢よく、食堂前の廊下に立っていた。
「無事に終わったのね。風呂場」
「はい……ちょっと、変な人がいましたけど……」
「ええ、知ってる。というか、あの人を“変じゃない”と感じたら、もう終わりよ」
「それ、僕もう半分終わってるかもしれません」
リリスはくすっと小さく笑って、それから手にしていた帳簿を僕に見せた。
「ねえ、創真。これ、何かわかる?」
それは――住人名簿だった。
綴じられた紙の表には、「記録居住者一覧」と印字されている。
そこには、アルノ、クーク、ネム、リリスといった名前が並んでいた。
そしてその最後に――
「僕の名前も、あるんですね……」
「ええ。今日一日、仕事をこなして、住人たちとも関わって。
少なくとも“ここにいていい人間”には、なったと思ったから。私の判断で、記したわ」
「……ありがとう、ございます」
帳簿に書かれた“洗馬創真”という五文字が、妙に眩しく見えた。
「ただし、これはあくまで“現時点での記録”。
帳簿に記されたからといって、過去も未来も保証されるわけじゃない。……ここにいる理由を、見失わないことね」
「……はい」
素直に頷けた。
逃げ場として来たこの家。だけど、少しずつ、自分の“居場所”に変わりつつある気がした。
(ここで、ちゃんと生きていきたいな)
僕は静かに息を吸い込んだ。
暮れていく空が、窓の外でやさしく茜に染まっていた。