第2話 家事戦線-始まりの朝
「――起きなさい、管理人」
耳元で冷たい声が響いた。
僕はぼんやりと目を開け、天井の梁を見上げた。
昨日とは違う、見慣れない部屋。だけど、床の感触と、ほんのり残った木の香りが、ここが“今の僕の居場所”であることを思い出させる。
「うぅ……朝、もう……?」
「当然でしょ。ここはシェアハウス。生活リズムは重要なの。起床は六時。朝食は七時。それまでに、掃除と調理の準備を済ませなさい」
立っていたのはリリス。完璧なメイド服、完璧な寝起きの悪さを許さない圧。
「……朝から厳しいですね」
「当然でしょ。家事を舐めてるの?」
「舐めてないけど、睨まれるとお腹が痛くなってくる……」
僕は布団から這い出すように起き上がった。畳のような床材に足をつけ、軽く伸びをする。
(うん、身体の調子は悪くない。スキル……は、まだ信じきれてないけど)
「はい、これ」
リリスが差し出したのは、小さなメモ。そこには食材名と分量が手書きでびっしりと並んでいた。
「これ……朝食の材料?」
「そう。あなたの実力を見せてもらうわ。最低でも、昨夜よりマシなものを期待してる」
「昨夜って、焦げ鍋の話……?」
「ええ。あれ以下の物が出てきたら、責任を取って崖から落ちてもらうから」
「いや、罰が重すぎる……!」
こうして、“初の朝食当番”という試練が、予告なしで僕のもとに降ってきた。
***
食堂の奥にある扉を開けた瞬間、僕はひとつ息をのんだ。
「……ここが、台所……」
ぱっと見た印象は、“古民家風”。
天井の梁がむき出しで、床もすべて木張り。竈や吊るされた乾物、調理器具が整然と並ぶ様子は、どこか懐かしさすら感じさせた。
けれど――よく見ると、鍋の材質は光を内側に吸い込むような漆黒の金属だったり、包丁の刃先に魔力が籠っていたりと、明らかに“異世界仕様”だった。
「うわ……これ、絶対指切ったら治らないやつだ……」
包丁のひとつを持ち上げてみると、ずっしりとした重みと、手のひらに吸いつくような柄の感触。良い道具ではあるのだろうけど、怖い。
いや、もっと怖いのは――
「……これ、どう使うんだろう?」
戸棚を開ければ、見たことのない調味料や食材がぎっしり。
瓶詰めの赤黒いペースト、角の生えた鶏卵のようなもの、葉っぱなのに明らかに動いている何か――どこを見ても初見殺しのオンパレードだった。
「さすがに、これだけで料理しろって無茶すぎる……」
メモに書かれていた材料名はこうだ:
—
・ルゥグの卵:3個
・モサ肉(軟):250g
・白火草の葉:一握り
・香霊油:数滴(多すぎ厳禁)
・カロ根(下処理済)
・ソル塩、ウィナ胡椒(適量)
—
「なにひとつ聞いたことない……!」
料理に自信はある。あるけれど、それはあくまで“地球基準”の話であって、異世界食材を前にすると一気に頼りない。
(でも――やるしかないよな)
改めて背筋を伸ばし、手を洗う。
異世界でも“水道”はあるらしく、壁の蛇口をひねると清らかな水が出てきた。ひんやりしていて、気持ちが引き締まる。
「まずは、食材を“見て”“嗅いで”“触って”確認する。いつも通りの手順だ」
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、僕は調理台の上に材料を並べていく。
まず、ルゥグの卵。
見た目は大きめのウズラの卵。
表面は少し熱を帯びていて、割ると中からは濃厚な黄身がとろりと流れ出た。
「うわ、卵黄というより……餅みたい……?」
でも匂いはしっかりと甘く、コクもありそうだ。
続いてモサ肉(軟)。これは一見、鶏むね肉に近い。柔らかく、脂も少ない。焼くと香ばしくなりそう。
白火草の葉。名前に“火”がついているのが気になるが、触ってみるとすこしピリッと刺激が走った。
「……わ、わかった。これはわさび系の葉っぱだな?」
まな板に置いて包丁を入れると、切り口から軽く蒸気が上がった。ほんのり香ばしい匂いがする。
(なるほど、加熱で風味が変化するタイプの薬味か……)
未知の素材を、ひとつひとつ見極めていく。
思い返せば、就職活動に失敗してバイトすら断られた日々も、僕はひとりで食材を買って、ひとりで料理をしていた。
そのときと、何も変わらない。
素材の性格を知って、どの順で加熱するか、味つけはどうするか――
ただそれを、今もやっているだけ。
「……よし」
僕は鍋に火を入れた。
かまどに組み込まれた魔石に手をかざすと、炎がふわっと現れた。
火力は自在に調整できるらしい。便利だけど、慣れが要りそうだ。
フライパンに香霊油を数滴、すぐにじゅっと音を立てて、スパイシーな香りが立ち上がる。
切ったモサ肉を投入。表面がこんがり焼けてきたら、刻んだ白火草とカロ根を加え、全体を絡める。
ルゥグの卵は、出汁に近いスープに溶かし入れる。
卵がふわっと浮かび、スープに黄金色のとろみがついていく。
「……これなら、いけるかも」
――素材は違っても、やっていることは同じだった。
料理という行為に、世界の違いは関係ない。
ただ“誰かが食べる”という目的に向かって、ひとつずつ手を動かしていく。それだけのことだ。
「創真ー! なんか、いい匂いしてきたー!」
廊下の向こうからクークの声が飛んでくる。
それに続いて、どたどたと複数の足音。
どうやら住人たちは、ちゃっかり“嗅ぎつけて”きたらしい。
「リリスさん……の期待値、超えられるかな」
誰に届くでもなくつぶやいて、僕は火加減を最後に調整した。
***
食卓に料理を並べ終えたときには、僕の額にはほんのり汗が滲んでいた。
とはいえ、疲労感はそれほどない。
どちらかといえば、妙な“達成感”があった。初めての食材、初めての設備、そして初めての“誰かのための異世界ごはん”。
「よし……これで、出してみよう」
皿に盛った料理は、スープと炒めもの、それから簡単な漬け物風の副菜。
すべてが初挑戦の食材だったけれど、香りは悪くない。彩りもそこそこいい。
カウンター越しに顔を出すと、すでに数人の住人たちが“席にスタンバイ”していた。
「おお、創真のメシ、ついに来るのか!」
と、真っ先に声を上げたのはアルノ。
タンクトップ姿のまま、箸ではなく筋トレ用の握力グリップを持ってる。食べる気、あるのか。
「たのしみー! うまかったら、おかわりいい?」
クークは尻尾をぱたぱたさせながら、椅子の上で正座していた。耳がぴくぴく動いてるのが、なんかかわいい。
「……においは、悪くないわね」
そして、静かにそう言ったのは――リリスだった。
相変わらず姿勢は完璧で、ナプキンまで膝にかけている。
けれど、さりげなく目線は料理の皿へと向けられていて、じっと様子をうかがっているのがわかる。
「では、どうぞ……召し上がって、ください」
僕の言葉に、空気が一瞬だけ緊張した。
クークが、わくわくとスプーンを持ち上げる。
アルノは豪快に箸を伸ばし、真っ先に炒めものを口に放り込んだ。
「……ん?」
もぐもぐ。咀嚼。飲み込み。
「――うんっ! うまいじゃねぇか、創真!」
「ほんと!? やった!」
僕の肩が、ふっと軽くなる。
クークも嬉しそうにスープを口に運び、頬をほころばせた。
「とろーりしてるのに、ぴりってしてて……ふしぎー! でも、おいしいー!」
「卵と白火草をあえて一緒に煮てみたんです。ちょっと甘みがあるから、刺激が和らぐかなって」
説明しながら、自分でも驚いた。
初めての素材に対して、ここまで自然に“工夫”が出てくるなんて思っていなかった。
「ほう、白火草は加熱で辛みが飛ぶが、香りが残るのか。筋肉の燃焼効率も上がりそうだな……!」
「そっちに使う予定じゃなかったんですけど!」
そして――
最後に、静かにスプーンを取り、口元に運んだのはリリスだった。
彼女は、スープをひと口。咀嚼する必要はない。
ただ、舌の上で味を転がし、ゆっくりと喉を通していく。
沈黙。
こちらを見ようとはしない。けれど、次の瞬間――
「……ふむ」
と、小さく呟いた。
その声に、なんとなく僕を含めて全員が固まる。
「な、なんというか……ダメ、でしたか?」
恐る恐る聞くと、リリスは淡々と返した。
「……味の構成は悪くないわ。素材の特性を理解しようという姿勢も感じられる。調理時間、火加減、塩分量。大きな失敗はない。及第点ね」
「おお……よかった……」
心の底から、安堵がこぼれた。
それを見てか、リリスはちらりとこちらを見た。
ほんの一瞬だけ――その視線が、やわらかく揺れた気がした。
「……ただし」
「食材の保存場所が曖昧。調味料の蓋が半分開いていた。調理器具の後片付けも、途中で止まってる」
「いや、それ後でちゃんとやろうと思ってたんです……!」
「“やろうとしていた”は、“やった”とは言わないの。肝に銘じなさい、管理人」
口調はいつも通り、冷たくて厳しい。
けれど――その隣で、クークが小声で笑った。
「ねぇねぇ、リリス、ちょっとだけ嬉しそうじゃない?」
「うるさい。黙って食べなさい、クーク」
返す言葉はぴしゃりと鋭かったけれど、耳の先が、ほんのすこしだけ赤くなっていた。
「……ふふっ」
思わず、僕も笑ってしまった。
***
食事が終わった後の食堂には、どこか穏やかな空気が漂っていた。
みんなが無言で食器を片づけているのは、満足している証拠かもしれない。
空っぽになった皿、ふわっと残る香り。僕の胸の奥も、なんとなくぽかぽかしていた。
「ふぅ……無事に終わってよかった……」
ついさっきまでバタバタと準備に追われていたのが、すでに遠い昔のように思える。
異世界での初めての朝食。それを誰かが「うまい」と言ってくれた。
その言葉が、想像していたよりも、ずっと心に沁みた。
(これで、少しは役に立てたかな)
クークは空の皿を抱えて「おかわりないのー?」と名残惜しそうにしていたし、アルノは厨房に忍び込もうとしてリリスに全力で怒られていた。
「残りは昼食に回すって言ってるでしょうが! 筋肉のために盗み食いとか矛盾にもほどがあるわ!」
「筋肉に時は関係ないんだ!」
「黙れっ!」
そのやりとりに笑いながら、僕は片づけに手をつけた。
バケツの水を替え、鍋を洗い、布巾で丁寧に拭き上げていく。
静かで、落ち着いた時間だった。
――けれど。
その静寂の中で、ふと“違和感”が生まれた。
「……ん?」
誰かが、どこかで、歩いている音がする。
コツ、コツ、と。
ゆっくりとした、足音。
この家の住人は今、ほとんどが食堂にいる。残る一人――
「ネム、か……?」
昨日、リリスが言っていた。
「引きこもり魔族。姿は見せない。部屋の外に出てこない」と。
けれど、足音は確かに廊下を横切っている。まるで、こっそり何かを確かめるように――
「……気のせい、かな」
僕は首を傾げた。
だがその直後、ほんのわずかに空気が動いた気がして、背中がひやりとした。
(今……見られてた?)
何かの視線。それはすぐに消えてしまったけれど、はっきりとした“気配”だけが残った。
まるで、壁の向こうに誰かがいたような。
まるで――“観察”されていたような。
「……気にしすぎか」
そう自分に言い聞かせて、僕は布巾を絞り直した。
けれど胸の奥には、拭いきれないざらつきが残っていた。
そして――その時、誰にも気づかれないように、物置の扉のすき間がほんの少しだけ、静かに揺れた。
***
食堂の片づけが終わり、住人たちが各自の部屋へと散っていった頃。
僕は廊下に立ち、ふと物置の前で足を止めた。
昨日、リリスに「基本的に開けないこと」と言われた場所。
それでも、今日の“あの気配”が気になって仕方なかった。
確かに、誰かが歩いていた。僕を――見ていた。
そしてこの扉は、昨日よりも少しだけ、開いている気がする。
「……うーん」
開けていいのか、よくないのか。
でも、開けずにずっと気にするのも、ちょっと居心地が悪い。
意を決して、ノブに手をかけた。
「ちょっとだけ、見るだけ、だからね……?」
誰にともなく呟いて、扉をそっと引く。
――軋む音。暗い室内。埃の匂い。
物置の中は思っていたより広く、壁際に大小の棚が並び、古びた木箱や壺、掃除道具らしきものが雑多に置かれていた。
けれど、不思議と“物が少なすぎる”ようにも感じる。
(……これ、ほんとに倉庫?)
どこか、空間そのものが歪んでいるような――そんな妙な違和感。
僕は奥へと進もうとした。けれど――
「……入るな」
ぴたり、と背後から声がした。
振り返ると、そこにはリリスが立っていた。
さっきまで食堂にいたはずなのに、まるで音もなく、すぐ背後に現れた。
「ごめん……つい、ちょっと気になって」
「気になるものよ。この家は、そういう場所だから」
リリスの目が、どこか遠くを見るように細められる。
「でもね、創真。開ける扉と、閉じておくべき扉ってのは、ちゃんとあるの。とくにここは――“名を記されなかった者たち”の、領分だから」
「名を……?」
その言葉に、どこかざわりと胸が波立った。
まるで、音もなく降ってくる雪のように、ひんやりと。
「この家には、住んでいるけど“記録に残されていない”住人がいるわ。リストにも、帳簿にも載っていない。誰も干渉しようとしない。……でも確かに、“いる”のよ」
「それって……」
「触れるなとは言わない。でも、覚えておいて。家事は、日常を守るもの。でも、“日常の裏側”を掃除しようとすると――手に負えないものまで拾い上げてしまうの」
その言葉が、やけに現実味を持って響いた。
リリスはそっと僕の肩に手を置いて、くるりと背を向けた。
「管理人として、この家の表側を守って。……それが、最初にできる一番大事なことよ」
その背中を見つめながら、僕は黙って頷いた。
物置の扉は、いつのまにか、風もないのに――音もなく、ひとりでに閉じていた。
***
物置の扉が静かに閉じる音を、僕はじっと見つめていた。
リリスの言葉が胸に残っていた。
“名を記されなかった者たち”――
意味はよくわからない。けれど、きっとこの家には、僕がまだ知らない空気が、たくさん渦巻いているのだろう。
明るくて、温かい場所。
でも、そのすぐ隣に、名前のない影が潜んでいる。
「……でも、やるよ」
小さく呟いて、顔を上げた。
僕にできることは、まず、家を守ること。目の前の生活を丁寧に続けていくこと。
リリスが言ったように、それがきっと、“最初にできること”なのだ。
廊下に戻ると、窓の外はすっかり朝から昼へと移り変わっていた。
柔らかな光が差し込み、木の床に長い影を落としている。
その光のなかで、クークが廊下に寝転びながらしっぽを振っていた。
「ねーねー創真ー! 次のお昼も創真のごはん?」
「えっ、交代制って聞いてたけど……?」
「じゃあ、これからは創真が専属に勝手に決定ねー!」
「決定って……」
思わず苦笑してしまう。
でも、その言葉がほんのり嬉しかった。
そのまま廊下を進むと、今度はアルノが廊下の柱で懸垂していた。
筋肉バキバキのエルフという存在にも、少しずつ慣れてきた自分が怖い。
「創真。今日の飯は良かった。次はプロテインスープ頼むぞ」
「ないよ、そんなもの!」
ツッコミが自然に出たことが、自分でも不思議だった。
でも、それもこの家の“日常”になっていくのかもしれない。
そして最後に、食堂の隅に座っていたリリスと目が合った。
彼女は書き物の手を止めると、ふっと視線をこちらに寄越す。
「創真」
「はい」
「……ようやく、“管理人らしく”なってきたわね」
「それって、褒めてるんですよね?」
「さあ、どうかしら?」
リリスはそのまま立ち上がると、何気ない仕草で、テーブルの上のコップを指さした。
「あとで茶器を磨いておいて。あの辺り、意外と水垢が溜まりやすいのよ」
「はいはい、了解です」
返事をしながら、自分の口調が自然すぎて驚いた。
まるでずっと、こうして過ごしてきたかのように。
管理人。
この家を掃除して、整えて、守る役目。
“誰かのために、手を動かす”。
それは、僕が向こうの世界でずっとやってきたことと、何も変わらない。
なら、ここでだって――
「……うん。今日から、ちゃんと名乗ろう」
誰もいない廊下で、小さく呟いた。
「僕は洗馬創真。この家の、管理人です」
その言葉が、少しだけ空気を変えた気がした。
廊下の先で、差し込む光がゆっくりと揺れる。
新しい日常が、少しずつ、少しずつ形になっていく。