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第1話 求人広告と燃える鍋

初めまして。

華奢な出世魚です。

就活に失敗した主人公が異世界の住人とドタバタする日常劇です。

読んでもらえると嬉しいです。

大学を卒業してから、もう半年が経った。


 洗馬創真は、今日もまたスマートフォンに表示された不採用通知の文字を、ぼんやりと眺めていた。件名には「選考結果のご連絡」とあって、本文は、まあ、いつも通りの定型文。

 つまり、不採用だった。


 「……はい、またひとつ追加、っと」


 声に出したのは、小さな独り言。壁に響くほどの勢いもなければ、誰かに届かせたい意志もない。

 スマホを伏せ、机の上に置いてあったインスタント味噌汁のパックにお湯を注ぐ。湯気が立ちのぼり、カップの中で乾燥ワカメがもぞもぞと膨らんでいくのを、ぼうっと見つめていた。


 ――何してんだろ、僕。


 思っても口には出さず、ただその光景を眺めるだけ。気を抜くと、そういう時間ばかりが増えてきた。


 バイトを辞めたのは、就職活動に集中するためだった。けれど、結果はこの有り様だ。今では、バイト先に戻ろうとしても「既卒はちょっと……」と濁される始末。

 部屋に積まれた履歴書のコピーと、どんどん減っていく証明写真の束が、今の自分を見せつけてくる。


 (写真、あと四枚……いや、これ、地味に地獄だな)


 選んでいたはずの「一番よく撮れた写真」も、今ではただの在庫。あのスーツ姿の自分は、なんとなく他人のようだった。


 何か変わったことが起きてくれれば――

 なんて、そんな無責任な願いは、言葉に出さない。ただ、心のどこかでぼんやり思っているだけだ。


 ふと視界の端に、机の上のフリーペーパーが映った。求人情報誌。目に止まったのは、なぜかそこだけ紙質の違う、妙に分厚い一枚だった。


 何気なく手に取って開いた瞬間、僕は思わずまばたきをした。



『異世界住み込み管理人募集』


待遇:個室・食事・風呂完備、異種族との共同生活。

条件:やる気と掃除スキルがあればOK!

報酬:あなたの「居場所」と「使命」

※採用者にはすぐにこちらから連絡します



 「……いや、異世界て」


 つい、小さくつぶやいた。ひとりツッコミが口をついて出るくらいには、我ながらまだ元気らしい。

 けれど、その広告には企業名も連絡先もなかった。ただ、隅にぽつんと、小さなQRコードだけが印刷されている。


 こういうのは、だいたい怪しい。

 わかってる。わかってるけど、でも。


 (どうせ、暇だし……)


 軽い気持ちで、スマホをかざしてQRコードを読み込む。何かのイタズラ動画でも再生されるんじゃないかと思った、その瞬間だった。


 ――画面が、光った。


 「うわっ――」


 反射的に目を閉じる。強い光が視界を塗りつぶして、スマホが手から滑り落ちた。

 耳の奥がきーんと鳴って、身体がふっと浮いたような感覚に襲われる。


 (え、なに、ちょ、うそでしょ……!?)


  「――え」


 次の瞬間、視界が真っ白になった。音がなくなった。

 風もなく、重力も感じなくなって――


目を開けた時にはもう、僕は知らない天井の下にいた。焦げたような匂いが鼻をつき、近くから「ボンッ」と鍋が爆ぜる音がした.....


***


鼻をつく焦げ臭さに、僕は半分意識が戻ってきた。

 天井は見たことのない木目で、照明器具も裸電球ではなく、どこかファンタジーなランタンだった。

 いや、それより――


 「……あれ、鍋?」


 横を向くと、すぐそばのテーブルに置かれた鍋から、もくもくと煙が立ちのぼっていた。

 しかも、中身は完全に炭と化している。どう見ても料理失敗、いや事故レベル。


 「おい、また焦がしてるぞ! 誰か止めろって言ったじゃ――」


 突然、聞き慣れない女の声が飛び込んできた。声は玄関の方から、こちらに近づいてきて――


 「ったく、あんたたち何度やったら……って、なにこれ。……誰?」


 パタパタと足音が止まったかと思うと、玄関の奥から現れたのは――


 黒いメイド服を着た、銀髪の女性だった。


 ぱっと見は整った顔立ちで、目つきも鋭く、どこか冷たい印象を受ける。

 そして、僕を見たその瞬間、彼女はぴたりと足を止め、眉をピクリと跳ね上げた。


 「……なるほど。煙の元凶は、貴様だったか」


 「いや僕まだ何もしてないんですけど!?」


 反射的に立ち上がった僕に、彼女は容赦なく距離を詰めてくる。

 睨まれている。完全に犯人扱いされている。なにこの展開、怖い。


 「この間抜けな顔。状況も理解せず焦げた鍋の前でぽかんとしている。加害者としての自覚は?」


 「だから違うって言ってるじゃないですか! 僕、気づいたらここにいたんです!」


 「……はあ?」


 彼女は一拍置いてから、じろりと僕を見下ろす。

 口調も態度も容赦がなく、まるで上司に怒られてる気分になる。


 「名前は?」


 「洗馬……洗馬創真、です」


 「職業は?」


 「いえ、無職です……今は……」


 「貴様か」


 「えっ?」


 「“新しい管理人”、とかいう、妙な広告に釣られて来る阿呆。……なるほどね」


 銀髪の彼女は、ふぅと息をつくと、頬にかかった前髪を指先で払った。

 その仕草すら妙にキマっていて、余計に腹が立つ。いや、僕は何も悪くないけど。


 「私の名はリリス。この家の家事担当であり、全体統括だ。といっても、元・魔王軍幹部だった身としては、こんな場所で貴様みたいなのの面倒を見るなど、本来あり得ない話だが」


 「自己紹介の仕方、もうちょっと優しくできません?」


 「掃除ができるのか?」


 「……そこだけは、まあ、多少」


 「料理は?」


 「一人暮らし、長いので」


 「洗濯、風呂掃除、買い出し、ゴミ分別、アイロン掛け、裁縫、消臭、害虫駆除?」


 「……人類レベルではそこそこやれてると思います」


 沈黙。


 ややあって、彼女は短く鼻を鳴らした。


 「ふん。ま、いないよりはマシね。今日からここの“管理人”、名乗りなさい。魔王様の遺した土地であっても、住人に快適な暮らしを提供すること。それが貴様の義務。いいわね?」


 「いや、え、あの、話が早すぎません!?」


 「なお、仕事を放棄した場合、崖から蹴り落とします」


 「説明雑ぅっ!?」


 こうして、僕――洗馬創真は、気づけば“異世界シェアハウス”の管理人として、煙たがられながらもスタートラインに立っていた。

 正直、全然納得はしてないけど、誰か鍋だけは何とかしてー!!!!!!


***


 「……まず、その鍋を片付けなさい。煙がうっとおしい」


 リリスの冷淡な声に促され、僕は改めて目の前の“焦げ鍋”と向き合った。

 煙は収まりかけているものの、中の物体は黒く固まり、もはや正体不明。何をどうすれば、ここまで炭になるのか――いや、そもそも誰が調理したんだ、これ。


 「えっと、これ、捨てちゃって大丈夫ですか?」


 「捨てるか舐めるかは自由。どちらにしても、ここでは管理人が責任を持つのがルールよ」


 「食べろってこと!?」


 リリスは面倒そうに視線を逸らすと、部屋の隅に置かれた小さなバケツを指差した。どうやらこれがゴミ箱代わりらしい。


 鍋をつまんで持ち上げると、底が変形していた。そっと置いたつもりだったのに、バケツに入れた瞬間、**ガンッ!**とすさまじい音が響く。……なんか、割と本気で命に関わる事故だったんじゃないか、これ。


 「で……その、改めて聞きますけど……ここ、どこなんですか?」


 「“第二魔王軍戦略本部兼住宅群跡地”……通称“寮跡”。今は再利用して、住民のシェアハウスとして使われているわ。魔王様の遺志でね」


 「魔王様の、遺志……?」


 「ええ。魔王様は、戦争を終えた後、世界との和解を模索されていた。力ある異種族たちが“人と共に生きる道”を探せるように、この場所を残したの。――まあ、理想は素晴らしかったけど、住んでるのは問題児ばかりよ」


 「問題児って……」


 「元盗賊に、風呂好き脱ぎたがりの古竜、筋肉馬鹿に、引きこもり魔族。そして私。自慢じゃないけど、マトモなのはたぶん一人もいないわ」


 「……それって、つまり、僕が唯一の常識枠ってことですか?」


 「常識があるかどうかは、これから見極める」


 僕がぐぅの音も出ないでいる間に、リリスはすたすたと歩き出した。


 「ついてきなさい。部屋の見取り図と、掃除当番表、配膳ローテーション表、それから備品一覧。説明することは山ほどあるわよ」


 「は、はいっ」


 慌てて後を追いかけると、木製の廊下がぎしぎしと鳴った。建物は古いらしいが、手入れはされている……はず。床には小さなキズや焦げ跡、妙なひっかき傷のようなものが点在していて、生活感というより“戦闘の痕跡”みたいだ。


 「ここが風呂場。さっきは誰かが勝手に火を焚いてたらしいけど……」


 ふわっと湿気の混じった熱気が、木の扉の隙間から漏れている。誰かが入ってるのだろうか。

 リリスは中を覗くことなく、そのまま素通りした。


 「こっちは物置。基本的に開けないこと。……あ、でも中身が勝手に移動してたら報告しなさいね」


 「……え、何がどうなってるんですか?」


 「細かいことはいいの。初日はとにかく覚えることが多いから」


 (いやいや、覚えるとかいう次元じゃないって)


 案内の合間、ふと横のドアのひとつに目をやった。

 そこには紙が貼られていて、マジックで大きくこう書かれていた。



 《ノック厳禁 餌を置いて去れ》

 《侵入者は例外なく氷漬け》



 「ここはネムの部屋。“自宅警備員”を自称してるけど、実態は引きこもり魔族。姿を見られるのを極端に嫌うから、下手に関わらないように」


 「……餌ってなんですか」


 「アイスよ。バニラ限定。溶けてたら怒るから注意して」


 やばい住人しかいない。


 僕は思わず天井を仰ぎ見た。ほんの数時間前まで、エアコンと布団と味噌汁のぬくもりが僕の生活のすべてだったのに。

 この世界、刺激が強すぎる。


 「さて、次が食堂と……共同スペース。皆が自由に過ごす場所よ。……と言っても、あまりに自由すぎて、しばしば破壊されるんだけど」


 そう言って開けられたドアの向こうには、広々とした食堂兼リビングがあった。が――


 「うおおおおッッ!! この筋肉に、感謝を――ッ!!」


 上半身裸のエルフが、家具を持ち上げて叫んでいた。


***


 「うおおおおッッ!! この筋肉に、感謝を――ッ!!」


 「……感謝されても困るんですけど」


 僕の声は、もちろん彼には届かなかった。


 筋肉は語る。筋肉は裏切らない。筋肉はすべてを解決する――そんなテンションで叫び続けるのは、尖った耳と長身が特徴の、エルフ族の男性だった。

 エルフといえば、森に棲む知的で静謐な種族というイメージがあったけど、今その幻想は、家具を頭上でスクワットする彼によって真っ二つに打ち砕かれた。


 「アルノー、またそれソファだって言ってるでしょ。家具で筋トレするの禁止にしたじゃない」


 「だがこの重さ、ちょうどいいんだ……! そしてこの滑り心地、まるで尻にフィットする至福の座面……」


 「やめて。説明が変態っぽくなってるから」


 そう言ってリリスが呆れたように溜め息をつく。


 「……あれ、リリス。そっちの地味そうな人、誰だ?」


 ソファを片手で持ったまま、エルフ――アルノがこちらをじっと見てきた。うん、地味って言われるの、慣れてるけど地味ってはっきり言われると地味に傷つく。


 「ああ、今日から管理人として来た洗馬創真よ。とりあえず家事はできるらしいけど、それ以外は今から査定」


 「査定て」


 「ほう……家事か。なるほど」


 アルノはぽん、とソファを床に下ろした。予想外に静かに。ちょっと感心してしまった。


 「家事……つまり、筋肉にも通じるというわけか」


 「どんな理論!?」


 「考えてみろ。拭き掃除――それは腕の回旋筋を、

 洗濯板――それは背筋を、

 重い鍋――それは握力と肩回りの強化……!」


 「いや、もう無理矢理すぎてツッコミが追いつかないんですけど!?」


 「お前、明日から俺と一緒に朝筋アサトレだな! 早朝五時、裏庭集合! 雑巾持参で床磨きから始めよう!」


 「ええっ!? っていうか、それ家事というより軍事訓練では……?」


 「安心しろ。いずれ家事と筋肉の融合が、究極のバトルスタイルを導く」


 「導かなくていいからっ!」


 もうこの人、ずっとハイテンションだ。僕が冷静でいることでバランスが取れていると思うしかない。


 「そこの馬鹿は無視していいわ。それより、ほら、次」


 リリスに促されて横を見ると、今度はテーブルの下に、小さな影が潜り込んでいた。


 「……むむ」


 「なにかいる?」


 「いる。……いるが、捕まえづらい。ほら、出てきなさい、クーク」


 そう声をかけると、テーブルクロスがふわりとめくれて、中から飛び出してきたのは――


 獣耳とふわふわの尻尾を揺らした、少女だった。


 「にゃはっ、バレたかー!」


 年の頃は十代後半くらい? ちょっと子どもっぽい笑顔と、軽快な身のこなしが印象的だ。片手にはなぜか、さっき鍋に放り込んだ“焦げ物体”の一部が握られている。


 「……それ、どこで拾ったの?」


 「ん? さっきゴミ箱の中で。なんか香ばしい匂いがしてたから、おやつかと思って」


 「やめて!? それ確実に人体に有害なやつ!」


 「あーん、つまらんー」


 少女は“しゅん……”と肩を落として、ぽすんとソファの隣に座り込んだ。耳も尻尾もダダ下がりで、見てるだけで罪悪感がすごい。


 「クーク。ちゃんと食堂のものは人に聞いてから手をつけること。前にも言ったでしょ?」


 「わかってるもんー。でもおなか減ってたんだもんー……」


 「すみません、あとで何か作りますから……」


 「ほんと!? じゃあ創真ってやつ、気に入ったー!」


 そう言って、クークが耳をぴょこぴょこさせながら近づいてくる。思わず後ずさった僕の肩に、ぽふんと尻尾が当たった。柔らかい。あとくすぐったい。


 「これが……異世界の日常……」


 感想としては、あまりにカオスすぎる。

 僕が管理人を任されたこのシェアハウス――どう考えても平穏とはほど遠い気がする。


 「で、創真。あなたが今からやるべきこと、わかってるわね?」


 「……掃除、ですか?」


 「正解。まずは台所と風呂場と、物置の整理。それから玄関のスライム除去」


 「最後、聞き捨てならないワードが混ざってませんでした?」


***


 「では、頑張って」


 その一言を残して、リリスはすたすたと去っていった。


 目の前に広がるのは、玄関の石畳と、その隅でぷるぷる震えているゼリー状の何か。どう見てもスライムだ。

 見ようによっては可愛らしいが、近づくと靴底にぬるぬる絡みついてきて、けっこう不快。何より、玄関の清潔感がゼロになる。


 「これ……僕がやるのか」


 当然といえば当然だ。管理人なんだから。

 けど――僕は、手ぶらだった。


 「え、掃除用具って、どこにあるんだろ……?」


 ふと、頭が真っ白になる。いや、さっき物置は“開けるな”って言われたばかりだ。

 つまり、手元には何もない。どこからどう手をつければいいのかも、さっぱりわからない。


 (……道具もない、知識もない、実感もない。僕、ほんとにここでやっていけるのか……?)


 魔王軍の跡地で、異種族と共同生活。誰がどう考えても、非日常の極みだ。

 その中に、ぽつんと“僕”がいる。


 場違いもいいところだった。


 思わず、両手を見つめた。


 「……僕、何にも持ってないな」


 口に出すと、ひどく情けなく響いた。

 でも――どこかで、ふと脳裏に浮かんだのは、アパートのキッチンだった。


 狭い流し台。ぎりぎり二口のガスコンロ。百均のスポンジ、洗い桶、カビの生えかけた排水溝。

 ずっと一人だった。誰のためでもないのに、ずっと洗い物をしていた。


 面接に落ちて、ひとりでカップ麺をすすって、眠れずにいた夜。


 それでも、朝になれば床を掃いて、トイレを磨いて、洗濯をしていた。


 「……そっか」


 何もないわけじゃない。

 “僕には、それがあったじゃないか。”


 誰かに褒められたことはなかったけど。

 誰かに必要とされたこともなかったけど。


 でも、毎日やってきた。ずっと、ずっと。


 「――じゃあ、やろう」


 やるしかない。

 僕にできることは、それだけだから。


 目を閉じて、深く息を吸った。


***


《スキル発動:具現化家政(Household Manifestation)》



 ぱちん、と空気が弾けた音がして、僕の手の中に“何か”が現れた。


 「……え?」


 見下ろすと、バケツ。雑巾。モップ。

 見慣れた家庭用の清掃用具が、何の前触れもなく、光の粒から“具現化”された。


 「な、なんで……!? え、ええ?」


 一瞬、言葉が出なかった。

 これ、なに? 手品? 夢オチ? それとも何かヤバい幻覚でも見てる?


 僕は慌ててバケツの縁を指でつまんでみる。冷たい。中にちゃんと水も入ってる。

 雑巾は濡れていて、絞った形でまとまっている。モップの柄には、自分の手になじむ細かい傷もある。


 「いやいやいや……どういうこと……?」


 震える声が漏れた。

 でも、目の前にはあいかわらずスライムがいて、玄関は汚れたまま。


 (……落ち着け、僕。とりあえず、使ってみるしか……)


 半信半疑のまま、モップを持ち直してスライムに向ける。


 「……えい」


 モップの先端が伸びて、ぴしゅん、と青白い光をまとった。

 スライムに触れた瞬間、びりっと小さな電撃のような火花が走り、それは煙のようにしゅるしゅると消えていった。


 「………………」


 静寂。モップを見つめる僕。

 モップも、僕を見ているような気がする。


 「なにこれ……僕、ついに変な方向に覚醒した?」


 誰にも聞かれていないのを確認して、そっとバケツに雑巾を戻す。

 水面が揺れて、波紋が広がる。


 間違いなく――現実、らしい。


***


玄関の掃除を終えて、僕はバケツを持ったまま廊下に腰を下ろした。


 冷たい木の床に座ると、妙に現実味が湧いてきた。さっきまでいた世界の空気とは、明らかに違う。木の香り、どこかに混ざるスパイスの匂い。空気が濃いというか、温度が肌にしっかり残るというか――


 「……異世界、なんだよなぁ……これ」


 ぽつりとこぼれた声に、誰も返事をする者はいない。


 だけど、ほんの少しだけ、心の中に“やれるかもしれない”という気持ちが芽生えていた。


 《具現化家政》。

 名前も能力も突拍子がなさすぎて、正直まだ信じ切れていない。

 でも、それは確かに“僕のやってきたこと”とつながっていた。


 掃除、洗濯、料理、片付け。

 誰かに褒められなくても、当たり前すぎて気づかれなくても、それをずっとやってきた。


 「だったら……ここでも、たぶん、僕にできることがあるよな」


 ぽつんと笑ったその瞬間――


 「……なるほど。少しは使えそうね」


 声がして、僕は驚いて振り返る。


 廊下の柱の影、天井の梁の上、半開きの戸のすき間。


 リリス、アルノ、クーク。それに……影のような一つの気配も.....?。


 皆、僕が掃除していたのを――こっそり、見ていた。


 「ま、最初にしては上出来じゃないか?」


 ソファを担ぎながら登場したアルノが、妙に満足そうにうなずく。


 「でも、次は料理だぞー! 創真のごはん、早く食べてみたいもんっ」


 クークがしっぽを振りながら近づいてくる。

 リリスはといえば、相変わらず澄ました顔で、鼻で笑った。


 「管理人のくせに、少し目立ちすぎじゃない? ……まあ、鍋を焦がすような馬鹿よりは、よっぽどマシだけど」


 「褒めてるのか、けなしてるのか、わからないなぁ……」


 僕が困ったように笑うと、リリスは少しだけ口元を緩めた。


 「明日は朝食当番。それと、風呂場の床、今日中に見ておいて。古竜が暴れてるから」


 「え、それって……“風呂好きの脱ぎたがり古竜”ってやつですか……?」


 「そう。たまに裸で出てくるから気をつけて」


 「気をつけるって、何に!?」


 賑やかな会話が、自然と広がっていく。


 はじまりは唐突だった。

 でも今、僕の周りには、誰かがいて。僕はそこにいる理由を、少しずつ手に入れはじめていた。


 ――新しい日常が、始まろうとしている。



しばらくは日常編です。

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