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5. 病弱な美桜の食事


 庄屋の家の使用人達が全員食事を食べ終えたのを見計らって、美桜はそっと台所に足を踏み入れる。

 与えられていた多くの仕事をやっと終わらせてからの、遅い朝食だった。


「ごほ……っ、ごほ! ゴホゴホ……っ」


 近頃気温が低く空気が乾燥しているせいか、美桜が患うタチの悪い咳は、発作の頻度も度合いも増している。

 

 病持ちだからと言われ、マツによって皆と食事を共にする事を禁じられていた美桜は、いつもたった一人で膳に向かう。

 庄屋の屋敷に下女として仕えるまでは父親と姉達と共に食べていたので、本当はひとりぼっちの食事を少し寂しく思う気持ちもあった。


 美桜の使う箱膳の上に乗せられているのは、少量の白米に雑穀と大根の葉が混ぜられた粥が茶碗に少しと、酸っぱくなった漬物だけ。

 

 特に働き者で仕事が多い美桜は、いつも空腹を感じていた。笑えるくらいに長い時間をかけて腹の虫が泣くのも、もう聞き慣れたものである。

 

「美桜」

「あ……百合姉さん」

「今から食べるの? 一人で?」


 庄屋の息子に嫁いでからというもの、百合は夫と義両親と共に食事をしていたので、美桜がたった一人で食事をしていた事を知らなかった。

 台所の中をぐるりと見渡した百合は、冷たく寂しいその景色に眉を顰める。


「うん。皆はもう終わったから」

「……っ」

 

 てっきり他の使用人達と共に食事をとっていると思っていた妹が、毎日孤独な食事をしているのだと分かって胸が痛くなった百合は、思わず声を詰まらせてしまう。


 やがて箱膳の前に座る美桜のそばに寄り添った百合は、美桜がまだ箸を付けていない食事に瞠目した。


「美桜……いつもこのような食事なの?」

「え?」

「白米は? 煮豆は?」


 思いがけない事を突然百合が尋ねてきたので、美桜は戸惑いつつも正直に答える。

 普段は表情があまり変わらない百合の顔が、恐ろしいくらいに強張っているのが分かって、自分が何か悪い事をしてしまったのだろうかと不安になった。

 

「時々は食べさせて貰えるけれど、最近はずっと……」

「時々……」


 それだけで勘のいい百合は全てを悟ったらしく、切れ長の瞳をみるみる潤ませてから、気まずい表情を浮かべて俯いてしまった。

 百合を気に入っている庄屋夫妻が仕立ててくれたという質の良い着物を身に付けた肩が、小刻みに震えている。膝の上に置かれた拳は、強く握られて白くなっていた。


「百合姉さん? どうしたの?」


 先程まで感じていた空腹もすっかりどこかに行ってしまった美桜は、百合の膝にそっと手をやると俯く姉の顔を覗き込む。


「ごめんね、美桜……。私ったら、何も分かっていなかった。ううん、本当は……そうかも知れないと思いつつも、真実を知りたく無かったの……」

「どういう意味? 百合姉さん、どうか泣かないで」


 美桜は、どうして姉が泣いているのかは分からないけれども、自分のせいに違いないという事だけは分かった。

 いつもはあまり感情を表に出さない百合を泣かせてしまった衝撃で、美桜まで涙目になる。


「おととさんが居なくなってから、良かれと思って二人をここに連れて来たのは私。でも、そのせいで美桜にはしなくてもいい苦労をさせてしまったのね」

「そんな事……ゴホ……っ、ごほごほッ!」


 ヒュッと息を吸った拍子にひどく咳き込む美桜の背を、百合は優しく撫で摩る。百合の手のひらにコツコツと固い物が触れた。

 咳き込みで呼吸が出来ずに息苦しそうな美桜の骨ばった背中は、着物越しにも痩せ細っているのを感じさせ、百合の表情をまた曇らせていく。


「ごめんね、美桜。私、嫁いでからというもの、少しいい気になっていたわ」

「はぁ、はぁ……百合姉さん……そんな事……」

「若奥さんと呼ばれて、皆に好かれなければならないと思って、いい顔をしていたの。本当は、もっと妹達を気にかけなければいけなかったのに」


 百合が発した言葉の意味を汲み取るには、咳き込みと呼吸に苦しむ美桜には難しすぎた。

 やっと発作が落ち着いて来た頃には、頭がぼーっとして身体が気怠い。ひどい発作の後はいつもこうなってしまう。


「姉さん……」

「元から華奢な子だったのに、ここまで痩せてしまって……。こんな食事では、治るものも治らないわ。待ってなさい」


 百合は美桜の身体をそっと放すと、立ち上がって台所の奥へと向かい、何やら支度を始めた。

 美桜は戸棚の陰で見えなくなってしまった百合の真意が分からず戸惑いながらも、待てと言われたのでじっと待つ。

 空腹と体調の悪さで何も考えられない。


「ほら、食べなさい。中に梅干しを入れて置いたから。美味しいわよ」

 

 戻って来た百合は白米の握り飯を美桜の目の前に差し出した。続いて野菜や芋の入った味噌汁も手にし、美桜の箱膳へと並べる。

 

 美桜からしてみれば、まるで正月のような豪華な食事であった。むしろついこの前に迎えた正月にも美桜の食事は質素だったので、正月以上の豪華さである。


「味噌汁……久しぶり」

「そう。すっかり冷えているけれど、きっと美味しいわ」

「うん」


 確かに味噌汁はキンと冷えていたが、浮かんださつま芋の素朴な甘さが、空腹の美桜の五体にじんわりと染み渡るような気がした。


「はぁ……美味しい」


 美桜はごく自然とそう口にして、皮が剥け、乾いた唇がゆるゆる弧を描く。

 どこか緊張した面持ちで美桜の様子を眺めていた百合も、そこで初めてふっと肩の力を抜いた。


「ゆっくり食べなさい」


 百合は食事を終えるまで美桜のそばに居て、片付けをしている間に何処かへ行ってしまった。


 それ以降、マツはもう食事の時に美桜だけ台所へ入るなと言わなくなったし、他の使用人達と同じ物を食べさせてもらえるようになる。

 美桜の食事は少量の雑穀粥から白米になり、漬物は新鮮な物に、煮豆や野菜を炊いた物と味噌汁まで必ず付くようになったのだった。


 


 


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