29. 異なるもの
「私を? どうして……」
千手観音は美桜が来るのを待っていたのだと言う。だから以前に産土神が牛鬼の角を渡すように頼み込んでも、決して渡さなかったのだと。
「あの子を救うのに、産土神では駄目だったから。あの子には美桜が必要だった。それに、今だからこそあの子が救えるんだよ。だから私は、その時が来るのをずっと待っていた」
最も良い機会というのはまさに一期一会。様々な要素が絡まり合って、その一瞬の時でないと最良の結果はもたらされない。
「千手観音様には……全て分かっていらしたのですか?」
「私は無限の眼と手を持つのだよ。それに、私の分身は世界中にある。産土神が気にかけていたあの子に、たった一つの慈悲を与える事など容易い」
全てを見通すといわれる千手観音の眼は、今此処に美桜が来る事すらも分かっていた。
無限の救いを与える手は、今日のこの時の為にずっと牛鬼の角を守っていたのだ。
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。時が来たら渡すべき物を渡すだけ、別に大した事では無いからね。それに……全ては必然、既に決まりきっていた事だ」
千手観音菩薩の話は常人にすぐに理解出来るものでは無いものの、美桜はとにかく牛鬼の角を手に入れられるらしいと分かり、ホッと肩の力を抜く。
「さあ、これが牛鬼の角だ。持てるかい?」
「はい」
そうして目の前に現れた立派な木箱には「牛鬼角 双角」としたためられている。ずっしりと重量感のあるその箱を、美桜は大切そうに抱えたのだった。
「言っておくが、別に私は産土神を嫌っているわけじゃない。むしろ、産土神のお節介な性格は好ましいとさえ思っているよ」
神だの菩薩だのと、人間の美桜にとってみればはるか遠い存在の二人の関係性は、全くもって全てを理解できるものでは無い。
悪戯っぽい笑みを浮かべる千手観音に、美桜は困ったような笑みを浮かべるしか出来なかった。
「ただ、あの時に全てを説明するのはどうにも面倒だったものでね。まぁその私のものぐさな性格のせいで産土神を怒らせてしまったのだけれど。しかしこれを機に謝っておくとしようか」
産土神は千手観音と仲違いしていると言っていたが、事実はどうやら違っていたようだ。
「本当にありがとうございました」
そう言って美桜が頭を深々と下げ、次に顔を上げた時には寺の外で待つ産土神の前に立っていた。
一瞬の出来事に美桜が呆けていると、目を丸くした産土神もその驚きの表情のまま固まってしまっている。
「久しいね、産土神」
そんな産土神の様子を機にする風でも無く、親しげに近寄るのは千手観音だった。
不思議な事に、本堂では頭の中に直接響いていた千手観音の声が、もうしっかりと耳に届く。
美桜にその理由は分からない。けれどもしかすると本堂では、千手観音が直接美桜の身体の中へ入り込み、隅々まで巡って、美桜の人となりを確かめていたのかも知れない。
四本の青い手を使って産土神の肩やら髪やらを散々撫でさすり、やっとのことで我を取り戻した産土神が怪訝な表情を見せた所で、千手観音はパッと手を離す。
「何じゃ。あれ程ワシを嫌っておった癖に、今更白々しい」
「まあまあ、別に嫌っていた訳じゃないよ。あの時はただ、事情を全て説明するのが面倒くさ……上手く出来なかっただけで」
「ほう。それで? 美桜にあれを渡してくれた事は感謝するが、一体ワシに何の用かのぅ?」
産土神は美桜の隣に寄り添うように立ち、美桜が胸に大切そうに抱えた木箱を、しっかりと視界に収めてから言った。
「産土神よ、すまなかった。忙しさにかまけて、きちんと事情を説明しなかった事を謝ろう」
その時、ザザアッと大きな音を立てて木の葉が揺れた。高級な香の匂いと混じり合った一陣の風が、三人の間を颯爽と走り抜けてゆく。
「ほほぉ。千手観音菩薩ともあろう者が、産土神ごときのワシに謝ると?」
「何を言う。元は人である私よりも、生まれながらの神である産土神の方が格上では?」
「それを言うならば、産土神など八百万の神と同じで精霊のようなもの。曖昧な存在でしかないわい」
双方のやり取りを、間に挟まれたようになっている美桜は固唾を飲んで見守った。
「く、くくく……!」
「カッ、カッ、カッ、カッ!」
同時に上げた高らかな笑い声が、一気に緊張感を吹き飛ばす。
それでも美桜は双方の顔を見比べながら「どうしたものか」と困惑し、眉尻を下げていた。
千手観音はそんな美桜の頭を二本の手で左右から包み込むようにして優しく撫で、「私は美桜のように心が広く、感謝の心を持ち、深い慈悲の心と他者への深い思いやりを持つ人間が好きだよ」と囁く。
やがてその姿はどこからともなく現れた線香の煙にまかれたようにして見えなくなり、その場には美桜と産土神だけが取り残されたのだった。
「ワシには菩薩の考える事はよう分からん」
「ふふ……なんだか千手観音様もそう思っていそうですね」
「そうかのぅ。さ、それを持って早う帰るとするか」
髭を撫でながら首を傾げる産土神が眦の皺を深めてそう言うと、美桜は大きく頷き、木箱を抱え込み直す。
「はい! 帰りましょう」
角に秘められた記憶はきっと長年の遠夜の憂いを晴らすものだろう。
この時美桜はそう確信し、足取り軽く帰途に着いたのだった。




