『傷の深さを知らない』
登場人物
■ 秋津 真澄/24歳
・薄い顔立ちの、黒髪に切れ長の目
・大学を中退し、現在はとある非合法のデリバリー業を請け負っている
・感情が極端に乏しく、他人に興味を持たない
・言葉遣いは丁寧だが、暴力的な思考を内に抱えている
・“愛”や“信頼”といった概念を信じていない
■ 嶋谷 総士/28歳
・整った顔立ちだが、いつも不機嫌そうな目をしている
・元半グレ。現在は半ば表向きの輸入雑貨会社の代表
・身体に刺青あり。強引な性格で他人の境界を踏み越えることを厭わない
・真澄を“便利な存在”としか見ていない
・だが、時折その無関心さに苛立ちを隠せない
【1】
嶋谷は真澄のことを、ただの便利屋くらいにしか思っていなかった。
薬を運ばせる。不要な証拠を処理させる。欲望が溜まれば体を使わせる。
真澄はすべてに無反応で、まるで壊れかけた機械のように命令をこなしていた。
「お前、何か楽しいことあんの?」
嶋谷が聞いても、真澄は何も答えない。ただ煙草の煙を見つめている。
「死ぬまでの暇つぶしをしてるだけですから」
その言葉に含まれる毒は、なぜか嶋谷を苛立たせる。
“どうせ俺もその暇つぶしの一部なんだろう?”
そう問い詰めたくなるが、そんなことに意味がないとわかっている自分も腹立たしい。
セックスの最中ですら真澄は声をあげない。
喘ぎも、媚びも、痛みも出さない。
まるで、体だけを貸しているかのような、冷めきった人形。
「こっちが感じてねえみたいじゃねえかよ……クソが」
ベッドの上で、嶋谷は噛みつき、爪を立て、暴れるように突く。
それでも、真澄は息一つ乱さない。
どんなふうに傷つけても、壊れない。いや、壊れてるのかもしれない。
壊れているから、もう何をされても動じないのだ。
⸻
【2】
ある日、嶋谷の元に“掃除”の依頼が入った。
小さなモーテルの一室で、死体と、残されたバッグ。
「真澄、行ってこい。あそこ、血がひどい。処理液と替えの服、持ってけ」
「了解しました」
真澄は淡々と準備し、嶋谷にひとことも疑問を投げかけず、指示通りに現場へ向かう。
異臭、乾いた血、吐き気を誘う腐敗臭。
それらの中にいても、真澄の呼吸は一定のままだ。
彼はかつて、姉の死体を三日間、誰にも言えずに部屋で過ごした。
その時から、“死”というものは彼の中で“恐怖”ではなく“既知”になった。
「死んでるってだけで、なんでみんな騒ぐんだろうね」
一人ごちる声に、何の感情もなかった。
⸻
【3】
嶋谷はふと、ある晩に真澄を呼び出して言った。
「なあ、お前、俺のこと好きとか思ったことある?」
真澄は少しだけ首を傾けてから、答えた。
「ないですね。あなたは俺を利用しているだけでしょう。俺も、そうしてますし」
「じゃあ……せめて、他のやつとは違うって思ってくれたりしねぇの?」
「ありません。期待しないでください。俺は誰にも“特別”を感じたことがない」
まっすぐ、まるで刃物のように真っ直ぐな声。
嶋谷の心のどこかが、わずかにざわつく。
「クソ……!」
嶋谷はその夜、真澄の身体をむちゃくちゃに扱った。
吐かせ、泣かせようとした。
だが、真澄はやはり、目を閉じたまま、何も言わなかった。
「お前、ほんとに人間か?」
「さあ。どうでしょう。俺もたまに思います。生きてるつもりなだけじゃないかって」
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【4】
ある夜、嶋谷はかつての仲間に裏切られ、倉庫に呼び出される。
銃声、怒号、走る血。
彼は命からがら逃げたが、足を撃たれていた。
そして向かった先は、真澄のアパートだった。
「……手当てして」
「……あなたが“助けて”って言うとは思いませんでした」
真澄は黙って、消毒液と針を取りにいき、何も言わずに治療を始めた。
嶋谷は痛みに顔を歪めながら、ぽつりとつぶやいた。
「お前さ……もし俺が死んだら、悲しんでくれんの?」
「いいえ」
真澄の声は静かだった。
「きっと、次の日には他の依頼主を見つけてます。あなたの名前も、三日で忘れるでしょう」
「……最低だな」
「あなたも」
しばらくして、嶋谷は不意に笑った。
「はは……ほんと、最低だな、俺ら」
「ですね」
二人は、暗い部屋でただ背を向け合って座っていた。
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【5】
その後、嶋谷の右足は完全には戻らず、夜の現場からは一歩引いた。
それでも彼は真澄を呼び出し、無意味なセックスを求め、
無意味な会話を繰り返した。
「なあ……お前、本当に何も感じねえの?」
「……たぶん、感じてるんでしょうけど。どうせすぐに薄まるんです。全部、俺の中で」
「じゃあさ……最後に一個だけ、試していい?」
「はい」
嶋谷はポケットから、昔使っていたナイフを取り出す。
真澄の喉元に押し当て、静かに囁く。
「今、殺すって言ったら、どうする?」
「どうもしませんよ。もともと、死ぬ準備しかしてませんでしたから」
しばらくの沈黙。
そして嶋谷は、そのナイフを真澄の足元に落とし、吐き捨てるように言った。
「……やっぱ、つまんねえな。お前みたいなやつ」
真澄は拾い上げたナイフをまじまじと見つめ、口元だけで微笑んだ。
「俺も、あなたみたいな人間が一番嫌いです」
その笑みには、感情がなかった。
どこまでも空っぽで、どこまでも不快な、美しさだった。
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【終章】
真澄はある日、嶋谷のもとを離れた。何の言葉もなく、何の未練も残さず。
その後、嶋谷はどこかの港町で、小さな店を開いたという噂がある。
真澄は依然として“生きている”。
ただし、それが“人間”であるかどうかは、誰にもわからない。
彼の足跡はすぐに消える。
触れた人間の記憶も、すぐに消える。
まるで、もともと存在しなかったかのように。
⸻
―終―