四章 一丁 禍匣
『 昔あるところに、無道という恐ろしい鬼がおりました 』
童に 古物語 を語り聞かせる女の声は、鈍くぼんやりと反響し、閉鎖された空間をより息苦しくさせる。
矩形十六畳ほどの座敷には、表戸の覗き穴以外、窓と呼ばれる隙間はなく。女童の手の届かぬ板壁に備え付けられた 燭台 の蝋燭のみが、許された灯りであった。
外部から、あえかな光すら与えられない室内は、暗澹たる闇が濃く深く 高天井 を覆い隠し、上から厚みをかけるよう垂れ込めて見え。一歩たりとも外へ出ることを禁ぜられる少女にとって、この滅入るほどの小暗い一室が世界の全てであり、当たり前の暮らしである。
『 その鬼は軍勢を率いては都を襲い――…、果てには人をも喰らいました 』
少女の腰まで垂れる髪を後ろ背から梳り、女は何度繰り返したか限りない御伽噺を誇らしげに聞かせる。
『 数多の悪事を重ねた無道を人々は恐れ、天に助けを求めると……、それはそれは美しい天女様が現れ、手ずから一刀の神剣を振るい――…。無道を斬り伏せました 』
髪を梳いてくれるのが喜ばしい少女は、かねてより好まぬ鬼の物語に大人しく耳を傾けている。
上質な絹の衣に身を包む少女の翠の黒髪に、櫛を隈無く通す光景は、女の 妙齢 を鑑みれば我が子を愛おしんでいるのだと捉えてしまう。が、幾度も繕い直した小袖を纏う女の姿は、少女との身分の差を顕著に表わし、二人の似通いもしない顔立ちを見比べれば、世話を任された下女と容易に見抜ける。
『 無道が斃れ…世に平穏が訪れると…、天女様は刀をある一族に託し、いとほがらかに天へ帰りました。……――おしまい 』
女は最後に、少女の額にある短い角を指でなぞるよう触れると、櫛を 玉匣 という化粧箱へ仕舞い、腰を上げた。
『 さ、終わりましたよ 』
そのまま立ち去る気配を感じた少女は咄嗟に振り返り、女の前掛けにしがみ付いた。
『 え…もう帰っちゃうの…? もう一回…もう一回聞きたい!』
心根は飽き飽きした御伽噺など聞きたくはなかったが、傍に居てほしい一心で少女は強請った。女が引き上げてしまえば、またこの薄暗がりの部屋で一人、長い時を過ごす事が少女にとっては耐え難い苦痛であった。
『 御鈴姫様。 毎日お話しているでしょう 』
縋られた女は、困った様子で御鈴姫と呼ぶ童の両手を引き剥がし、その手を握り締めた。そして、不意に何か吉事を思い出したかの様に、唇を吊り上げる。
『 では一つ、今日は良い事をお教えします。 天女様に刀を託された一族が私達二ギハヤヒ一族なのですよ。ね、誉れ高いでしょう?』
『 そうなんだぁ…。じゃあカルタして!』
女が得意げに言った言葉をしっかり聞いていない様子で、御鈴姫は足元に散らばるカルタを拾い上げ、期待の眼差しで女へ絵柄を見せた。
『 もう夕食の支度をせねばならぬのです。 また明日遊びましょう 』
だが女は素っ気なく、溜め息交じりに少女から視線を逸らし、床へ散らばる遊具を片付ける。
『 うん… 』
御鈴姫はしょんぼりと肩を落としカルタを下げ、女の動きに同調した。
遊びを要求したのは、足を止めてもらう為であったが、忙しない女にこれ以上我儘を言えず、手慣れた動作で全ての遊具を元通りに収納してゆく。
灯りの行き渡らぬ隅に棚が固定されているため、彩り豊かな遊び道具は少女の手から、棚へ移った途端に精彩を欠き。棚には、鞠や駒、おはじきや、ひいな遊びに使う小振りな人形など、一日では遊び尽くせぬほど豊富に並んでいるが、そこから少女が取り出すのはいつもほんの一部である。
人形ときさごはじきを元の場所に戻し、片付けを終えて振りかえれば、女はすでに戸口に向かっているところであった。
『 私も一緒に行きたい!』
格子扉に指をかけ、今にも離れ去る女の背へ抱き付き、御鈴姫は熱心に訴えた。
『 なりません 』
女は御鈴姫を引き離し、その両肩へ手を添えると言い含めるような口調で話す。
『 御鈴姫。いつも申しているでしょう?貴女は我が一族に万福をお与えくださる守り神であらせられます。下界に降り立てば貴女様の御身は穢れ、お命を落とすと 』
『 でも…、このままいつまで…ここに居ればいいの…? ちょっとくらいなら… 』
御鈴姫は女の気遣わしげな表情に屈しそうになったが、負けじと笑顔をつくり、相手の主張を変えさせようと手を尽くした。
『 ですからなりません。 …私は姫様の御身が心配なのです。
お願いで御座いますから我儘を言ってこの槙を困らせないで下さい、ね?』
女は眉を吊り上げて語調を強めたが、最後には柔らかい笑顔を浮かべた。
折れぬ女の態度に根負けした御鈴姫は、足止めに失敗し気を落とした。
『 …ごめんなさい 』
顔に影を落とすも素直に従った御鈴姫に、女は満足した様子で立ち上がり戸口へ向かい。その後をとぼとぼ御鈴姫は追随した。
女が座敷を去る際は、いつもこうして戸口まで見送るが、槙はそそくさと時を惜しむように格子扉を鍵で開け、御鈴姫を座敷に置いて鍵を閉める。そして土間に揃えていた下駄を履き、表戸の口を開けた。
『 待って…… 』
女が表戸を閉め切る前に、御鈴姫は格子扉の向こうから声を掛けた。
『 ……声がするの…たまに…。 外にも誰かいるの……?』
戸の隙間から御鈴姫を見詰める女は、唐突な問いに動きを止めた。が、沈黙の後に、一度も見せた事の無いにこやかな笑みを御鈴姫へ送った。
『 いいえ 』
――全身に悪寒が走り、心に悔恨が押し寄せた。
戸が閉まる瞬間に垣間見せた槙の顔は、怒りと嫌悪を明白に伺わせた。
©️2025 嵬動新九
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