三章 八丁 酔えぬ相酌
白影 が向かったのは高台にある酒屋で、町並みを見下ろせるよう野外に長椅子が並べられている。
その整然と縦列に並ぶ長椅子の近くには、二棟の酒蔵があり、蔵と隣接した小屋では猫背の男が燗酒を造り、出来た熱燗を娘がせっせと長椅子に腰掛ける客へ運んでいた。
客はやって来た酒を嬉しそうに嗜み、景色を見て談笑しては用意した肴に 舌鼓 を打っている。
蔵と離れた広間に屋台店が五軒あり、酒を買う前に寿司を選ぶ客や、煮物、天麩羅を長椅子で待つ客がいたりなど、八つ時を過ぎてまだ夕刻前だが、小腹空きの間食を取るため町人が三々五々と集まり繁盛している様子であった。
この場所には酒を貯蔵する酒蔵が、過去にはずらり七棟羅列していたが、火事で蔵が焼失し、一時は酒屋の営業が困難となった苦労話がある。
しかし、機転を利かせた酒屋が、空いた土地を貸し出した事で、様々な屋台見世が酒のあてを提供出来るようになり。それぞれの商人が互いに邪魔し合いをする事なく、打ち解け合って生き生きと働く事を心から楽しんでいるようだった。
だがこの酒屋に人が集まるのは、酒食だけが理由ではないだろう。
この高台から見下ろす町並みは非常に壮観で、まだ夕闇ではないが商店の軒先に吊された 提灯 に段々と火が燈される光景は、風景に暖かな彩りを添えている。
そして遠方の山の隙間から、 扇形 をした海が顔を出しているのも、なんとも嬉しく思えてしまう。
白影達は屋台で煮物と焼きイカを買い。十席ある長椅子の内、酒屋から離れた二席目に腰掛けた。少し夕食には早いが、歩きくたびれた休息と小腹を満たすのに今は丁度良い頃合いである。
『 佳景を肴に、飲む酒は格別じゃ。この国は美しいじゃろう?』
景色を見下ろしながら一口酒を愉しんだ白影は、向かいの席に腰を下ろすネイへ声を掛けた。風景を眺めたままネイは微笑み、ゆっくり頷く。
ここ数日でネイは急速に語学を身に着け、白影への返答が増えていた。
それらは当てずっぽうではなく、内容を正確に理解しており、知能が優れていなければ半月程でここまでの意思疎通は不可能だろう。白影が根気よく話し掛けた成果の現われともいえるが、理解が早く物覚えの良さは、目を見張るものがあった。
『 これほど早く通じ合えるとは驚きじゃ。 主は賢しいのぅ 』
感心した白影はネイへ賞賛を送ったが、まだネイの知識には欠けた単語があったようで理解が及ばず首を捻った。会話が食い違いこうしてしばしば顔を見合わせ苦笑する事もあるが、互いにもどかしさや不快感を抱いた事は一度もなかった。
このまま焦らず地道に学べば、半季ほどで 流暢 に舌が回るだろう、と考えながら白影は酒を口に含んだ。丁度その時、ネイは御猪口に注がれてあった酒を、一口で思い切り喉へ流し込んだ。
あまりに勢いの良い飲み振りに、白影は慌ててネイの持つ猪口を優しく腕から引き離した。
『 ――とと…! 水ではないぞ。まだ舌がままならんか 』
怪我が原因で衰弱してしまった所為なのか、以前鍋に沈殿していた味噌の塊をネイは平然と食した事があった。その出来事で味覚がないと白影は気付いていたが、食欲も上がり機嫌良く食事が摂れるようになっていた為、快癒したとばかりに思い込んでいた。
澄み切った透明な酒を水と間違えるのは当然の流れであり、もっと気に掛けてやるべきだったと白影は己を責めた。
『 主には早かったな。 すまん、茶をくれ 』
『 はぁい 』
十六ほどの年頃の看板娘に頼んだ茶はすぐに手元に届き。白影は礼を言うと、人肌程度の温かさを確認してから湯呑をネイへ手渡した。喉が渇いていたネイは、それを先程の酒と同じ要領で口へ流し込んだ。
とりとめの無い会話すらなく、飯時の間二人は静かに食事を交わし、眼下に広がる美景と和気藹々とした人々の談笑を心地よく愉しんだ。
夕刻が近付いた空は美しく、風が頬を撫でる空間は、心身共に満たされた感覚がする。
白影はふと風景から目を逸らし、まだ傷の残るネイの横顔を見詰めた。
羽織の隙間から覗くネイの面持ちは空虚で、心を何処かに置き去りにしたように、ぼうっと景色を眺めている。
まだ万全とは言えないが、僅かでも対話の叶う今が折好いと考えた白影は、今まで触れた事のない問いをネイへ切り出した。
『 主、何故かような場所で倒れていた?』
白影の問いに、ネイは我に返った様子で白影の顔を見詰め返し、記憶を辿るように瞳を泳がせると、やがて首を横に振った。
『 なんと…わからぬだと…?』
口に運ぶ猪口を半ばで止め、白影は更に問いを続けた。
『 如何様にしてこの国に辿り着いたのか…、その刀の事もか?』
ネイは己の脇に立て掛ける朱鍔の刀を一瞥し、俯いたまま躊躇いがちに頷いた。
長椅子の盆の上に猪口を置き、白影は少し身を屈め真摯に臨む眼差しで次の問いを投げ掛けた。
『 では親族は?』
家族はと尋ねられたその瞬間、ネイの瞳は見開かれ――、痙攣し強張った指は、持っていた湯呑を取り落とした。
割れた陶器の音が一帯に響いた事で、賑やかに団欒していた人々の声は止み、辺りには居心地の悪い静寂が訪れる。
©️2025 嵬動新九
※盗作・転載・無断使用厳禁
※コピーペースト・スクリーンショット禁止
※ご観覧以外でのPDF、TXTの利用禁止




