二章 三十一丁 旅路の分岐
漁太と利吉を見送った碧眼の男は、やっと人心地がつく。
野衾と蟒蛇の二体を相手取り、賊に煩わされ、挙句には牛鬼と一戦を交えた疲労感から、碧眼の男はすぐに旅籠屋から立ち去れず。二人が去った戸口を見詰め、呆ける一瞬の休息が必要だったのだ。
そんな隙だらけの、脱力した男の腕を少女は握った。
気を抜き油断していた男は、掌を握られた驚きから咄嗟に少女を見下ろした。が、同時にその小さい掌の感触に、ふと懐かしさを覚えていた。
「怖かったぁ…」
身に降りかかったこれまでの出来事に困憊し、ここで一息を吐いたのは少女も同じようだった。少女は旅籠屋の戸口を見詰めて呟いた後、少し困惑の色を浮かべる碧眼の男の顔を見上げる。
「お侍さますごいね。誰かを助けるの……あんなに怖いのに…。――あの…」
敬いを込めた瞳で話す少女の言葉は不意に途切れ、頬を少し赤らめると口籠もったきり、中々その先を言い出せない。
俯いて、もじもじと黙り込んだ少女の様子を、心配した碧眼の男は少女の目線に合わせてしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
そうして少女が口を開くのを男は気長に待ち。時の間を得て、少女は漸く決意し、背に隠していた物を不安な面持ちで男へ差し出した。
少女の両手に握られていたのは、狐の面。
全体を白く色取られているが、真っ直ぐに額から伸びる左耳だけが、空色で着色されている。目は紅い縁取りで囲まれ、微笑むように湾曲した狐の口元が、狐面を優しく可愛らしい印象に形作っていた。
この狐面は、嘗て男が着用していた鬼面よりも人に好かれ、見た者を笑顔にするような意匠と色合いに思える。
「同じ物はなかったの……。でも…ないと困ると…おもって…」
面を見て少し目を丸くする男へ、少女は申し訳なさそうにか細く声を発した。少女が男の様子を窺うように見詰めるのは、この狐面が気に入らず気を害してしまわぬかという不安から来るようだった。
漁太達と別れる際に、少女の姿を見掛けなかったのは、この面を買っていたのだろう。が、少女の身なりを見る限り、面を買える銭を持っているとは思えなかった。
まさか髪を切り、銭を得たのではないかと、男は一瞬心苦しさを感じたが、元々少女の頭巾に覆われた髪は、顎の下辺りまでしかなく。その短髪は動く度に、時々頭巾から毛先を覗かせている。
髪を売ったのではないのなら、どの様にしてこの狐面を買ったのか。碧眼の男は、少女の衣服に視線を向けた。
男の予想した通り、少女の腰に巻いていた紅色の帯は無くなり、代わりに手拭いを用いて、着物がはだけぬよう腰に固く結んである。帯を失い、解れた着物を纏う姿は出会った頃より、一層見窄らしいものへ零落していた。
店主と交渉し、帯と交換してこの面を手に入れたのだと、察した碧眼の男はそっと狐面を受け取り、少女の気持ちを胸に感じ入った様子で贈り物を見詰めた。
男が面を受け取った事で、暗く沈んでいた少女の頬には紅が差し、その表情は溢れんばかりの笑みへ変わってゆく。
「助けてくれてありがとう!」
嬉々として発せられた少女の声で、碧眼の男は我に返り顔を上げたが、既に少女は通りへと駆け出していた。
去り行く少女の小さな背を見て、男は咄嗟に立ち上がったが、少女は通りの真ん中で立ち止まり笑顔で振り返った。
「さようなら!どうかお達者で!」
少女は男へ何度も大きく手を振り、満面の笑みで別れを告げると、通りを真っ直ぐに突っ切り、やって来た方角とは別の山へ向かって走り出した。
去り行く少女の小さな身体が、建物の影に隠れて見えなくなるまで、碧眼の男は呆然と見送っていたが。やがて顔に陰りを残したまま、道角を曲がり裏道へ歩き出した。
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