五章 十七丁 故縁の客人
物持の住まう町に居を構えるだけあって敷地は広く、玄関を抜けてすぐに一つ目の中庭が出迎えた。
俗に鬼の住処といわれる筈が、その心象に似合わず庭景は清雅で、坂田にとって何度か訪れ目にした風景だが、四季を楽しめるよう混植された花々と、細部にまで拘り手を加えられた作庭からは、もてなしの真心を変わらずに感じた。
江戸に立ち寄る際は、祖父の代から幾度も屋敷へ招かれるほど、綱影とは縁故が深く。金欠に苦しむ坂田は、こうした祖父の縁には大いに助けられている。
中庭を懐かしみながら奥屋敷へ移動すると庭の区画が変わり、桜木が強く目を引いた。
庭の中心に植えられた桜は屋根を越えて広々と枝を伸ばし、まだ頼りない冬芽が僅かに風に揺れる姿は、寒を耐え、春を待ち侘びて見える。
向かい合う室が覗き合いにならず景色を観賞出来るよう、紅葉や草花で上手く視野を狭めているが、数あるどの部屋からも桜が眺められる工夫は見事としか言いようがない。
無骨である万雷ですら流石に胸を打つものがあったのか、奥屋敷へ入り、桜樹が目に飛び込むなり歓声を上げた。
「おぉ! ここの桜はまた大きゅうなりましたなぁ。 若の丈立ちもこれくらい成長…」
「黙れ。 次は覚悟出来ておろうな」
万雷の言う事を予めわかっていた坂田は迅速に叱り付ける。
「八乎様も楽しみにしておられたのですよ。 此度まみゆる際には、見違えて丈立ちがご立派になられている筈だと」
きぬは親切心で坂田の身長に言及するが、当人はより調子を乱した。
「…左様に望みなき事を……心待ちにされては困る」
歯切れの悪い坂田を励ますよう、きぬは屈託なく笑う。
「ふふふ、八乎様はそうお考えではありませんよ。 とても意気あるお方ですから」
きぬが狙いをつけて述べたかは定かではないが、八乎という名が会話に訪れる度、坂田の面持ちは幸福に満ちる。
「よく存じている」
すっかり緩んだその表情を横目に見る万雷は、眉を顰めて鼻の下を伸ばし、なんとも言えぬ顔をした。
嘗て屋敷に住まわせ生活を共にしたきぬとは、 久闊 であった事など薄れるくらいに会話が弾み。その間、きぬは気を遣ってか、坂田の傷には一言も触れなかった。
そんなところもまた居心地がよく、互いの近況などをもっと語らいたかったが、惜しくも客間に辿り着いてしまった。
「ささこちらへどうぞ」
通された客間は二人では余る八畳間で、隣部屋の襖を開けて繋げれば、室は更に広がるだろう。
畳は新品同様に美しく、脇差しを休ませられるよう床板には、掛台が一つ。その後ろには、色調豊かな桜画の掛け軸があった。
この庭の桜を描写した掛け軸は、冬季に訪れた客人が楽しめるようにと、あえて満開の姿が描かれている。
質素ではあるが、こうしたささやかな心配り溢れる室内を見て、共に江戸まで歩んだ配下達は今頃粗末な宿で、安酒を飲んでいる頃だろうと、坂田は内心申し訳なく思った。
「もう少々お待ちください。 実は旦那様が、つい先程ご帰宅なされまして、用意が整っておらぬのです」
きぬは恐縮し、おっとりしているが少し急くような顔色は、やらなければならない仕事があると見える。
「白影殿が…。 それは…ご挨拶致さねば……」
苦手に感じる相手であっても、世話になる身の上であれば挨拶を交わすのは当然だが、気が進まぬ心内がつい言動の端々に現れ出た。
そうして立ち話をそろそろ終えようと思った折りに、ふと別室が騒がしくなり、廊下に控えていたきぬは、どの部屋での揉め事かと周囲を見渡した。
「…あら? 旦那様…まだ装いが…」
木々の隙間から向かい廊下を覗き見たきぬが、面持ちを曇らせた為、坂田と万雷もつられて廊下へ顔を出す。と、華やかな娘が白影の腕に縋り付く場面を丁度目撃した。
「白影様っ!! お待ちください…っ!! どうし…っ」
娘は白影の衣手を掴んで必死に引き留めるが、青年は見向きもせず袖を払って歩き去り。蹌踉めいて裾を踏んだ娘は、へたりと床に座り込んだ。
その心無い場面を目の当たりにしたきぬは、袖で口を押さえて悲痛な声を上げ、坂田も同様に己の目を疑った。
娘を置き去りにした当人は、険しい顔付きのまま――坂田を瞥する事もなく、目の前を通り過ぎる。
思わぬ事に驚愕するあまり、すれ違うその時は遅々と流れ、乱れた髪の隙間から確かに捉えた青年の横顔は、憔悴し悲愴に打ち拉がれていた。
「な…何だ…!? 彼奴は…」
顔馴染みである客人を等閑にして表へ行く青年が気掛かりではあるが、坂田は後を追わず、床に沈む娘の元へ駆け寄った。
娘の側にはすでに騒ぎを聞きつけた少年達が数名集まり、中庭でまごまごと立ち尽くしている。
しかし娘は、壁に両手を添えて身を預け、顎を震わせながら愕然としていた。
「八乎様! 先程の男――…」
坂田が駆け付けようと、娘にはその姿が目立たず、真っ青に色褪せた己の頬を両手で包み込む。
「――――そんな…!! これが……っ!! 離縁っ!!?」
夫である白影に、離婚を言い渡されたと叫ぶ八乎の一言で、娘へ密かに心を寄せる坂田の顔は浮き立つ。
「え…? ――八乎様っ!! 真ですか !? 詳しく…」
「若ぁ。 一応お止めしますが、そっとされた方が――…」
腕組みながら静観していた万雷は、呆れ顔で坂田を諫める。が、時既に遅く。
坂田の伸ばした手が、娘の肩に触れた瞬間――八乎は狂乱した。
「いやああああーーーッ!!!」
荒ぶる八乎の平手が、悪意なく頬へ直撃し、不意を突かれた坂田は縁側から仰向けに転落する。
その一瞬の出来事を目にした少年等ときぬは驚声を揃えた。が、万雷は逆さに突っ立つ坂田のハの字足を、縁側から無気力に見下ろす。
「お決まりですな」
八乎は差し含む涙を拭いながら自室へ飛び込み。
廊下には、新たな傷を負った哀れな男と、事情を量りかね混迷する者達が取り残された。
©️2025 嵬動新九
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