五章 九丁 軍議
『今戻った』
剣の修行を終え、汗を拭いながら借家へ戻る途中。門前で、執拗に鼻をかんでいる万雷と出会った。
『…? その手のものは何だ?』
坂田は、万雷が鼻紙に使っているそれをじっと見詰め、眉間に皺を寄せる。
声を掛けられた万雷は、鼻水を吸わせたくしゃくしゃの紙を眺めてから、漸く坂田の質問の意図を理解する。
『文の様ですな。 今は塵紙ですが』
言い終えると再び万雷は文で鼻をかみ、その愚行に坂田は腹を立てた。
『貴様っ!! 火急の便りであったらどうするのだ !!』
『判がありませぬ。飛脚が持っては来ぬでしょお。――どうせくだらぬ、餅つきの催促ですぞ』
坂田の脳裏に蘇りし記憶は、そこで途切れる―――。
万雷が捨てた文こそ、出雲からの救済を乞う願書であり、もしそれに目を通していたならば、今頃無貌の鬼について何らかの手掛かりを得て、ここにいたのではないか―――
そう考え及んだ坂田は、心の内で万雷の名を叫んだ。が、事の発端である万雷は、境内で呑気に欠伸をしている。
「ふわぁぁ…、毎度毎度かような場所で…こう長くてはかなわん」
頭に同行する 従者 は、全員野外の一角で軍議の終わりを待たされ、遅参を根に持つ様子で、砂利に座り込んで日向ぼっこをする万雷を恨めしそうに見詰めている。
坂田が窮地に陥り、弁解の最中に言葉を失い、大汗を噴き出しているのも知らずいい気なものだが。万雷とは、こういう男であった。
「…如何なされた?」
片倉は、病気があるのではと坂田を案じ、声を掛けられた事で我に返った坂田は、額の汗を拭った。
「い…え、申し訳ありませぬ。 耽って…おりました」
坂田の徒ならぬ動揺っぷりを一同は怪しんだが、気を利かせた奥村が、各務へ問い掛けた事で誤魔化された。
「お主は何処の守禦だ?」
面前で仕官先となる藩を尋ねる行為は、儺斬衆では好まれないが、物腰穏やかな奥村の態度が好感的だったのか、抵抗なく各務は答える。
「津山守禦、各務。以後お見知り置きを」
各務は武士の作法で軽く名乗りを終えると、すぐに切り出した。
「時を無為にせぬよう申し上げたが、…他にもおろう? 我が津山と同じく、出雲に気近き…事の仔細を聞き及ぶ守禦が…」
情報を得る者があれば自ら名乗り出ろと各務は強調するが、申し出る事で立場が悪くなるのは目に見えている為、当然手を挙げる者はない。
一同が仲間の所在をすべて把握していないのは、ここでも報が妨げとなっていた。
各藩の領主の計らいにより、武士、もしくは浪人を雇い込んで、領の自衛に据え置かれるのが儺斬衆であり、いずれの藩主が幕府に申し立てているのか、仲間内ですら詳しくは明かされない。
同盟を避け、謀反の疑いを掛けられぬ為に設けられたこの報は、幕府の目算通り大いに衆の連帯を阻害していた。
よって隣国や家筋の結び付きなど、余程の繋がりがなければ、同じ衆に属そうが縁はなく。軍議においても、二心ありと疑いを掛けられる事を恐れ、初めて顔を突き合わせようが名乗り合いは非礼であった。
こうして秘匿を重んじる組織なだけに、軍議は仲間を探る絶好の機会と本音を抱く者もおり、とりわけ桜田という男はそれが目当てで、協議に真面目に参加する腹積もりはない。だが場を掻き乱した方が、利があると考えた桜田は静観を止めた。
「…確か、 長州 にも守禦が置かれていた筈では? 此度の軍議に赴いているかは存じませぬが…」
桜田が揚々と発言した事で、だんまりを決め込んでいた立花は俯けていた顔を少し動かす。
防衛の観点から考え、総員が軍議に参加するのは現実的ではないため、選ばれた藩の代表のみが江戸へ赴く。そして情報を得ているならば、事前に長である綱影と面談を済ませ、既に報告を終えているだろう。
故に、この場で藪をつつく必要性はなく。責任を追及されるくらいなら、黙って場を凌ぐ方が賢明であると、それなりに知恵がある者ならば心得ていた。
しかし、策比べや駆け引きなどが肌に合わない加賀爪は、桜田にまんまと乗せられ、声を荒げる。
「長州の守禦は誰だ !? 傍らであろう! 騒ぎを知らぬなどの戯れ言は通らぬぞ!」
加賀爪の大声が座敷内を乱す中。――徒爾に終わると予想する一同を裏切って、手を挙げる者が現れた。
©️2025 嵬動新九
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