四章 十六丁 残夜を越ゆる
龍が雲散霧散した大空は、緩やかに 暁日 を迎え、死物と化した寺院だけが時を止めたかの様な静穏に包まれていた。
院内の端まで埋め尽くしていた炎光は、龍が姿を晦ませたと同時に立ち消え。
一筋の煙すら生じぬ焼け跡には、風化し抉れた様な損傷が刻み込まれ、 焼痕 を残すものは一つも見掛けない。
証跡 も残さず、あれほどの大火災が瞬時に消失した現状は、龍の顕現を 夢幻 のように思い直させるが。食い荒らされ、打ち壊された建造物の類々が、強大な存在がいた事の確かな証左となるだろう。
嘗て善美を尽くした伽藍を、坂田一行はあんぐりと見詰めていたが、森閑に身を浸すうちに己を取り戻し、漸く声を発する気が起きた。
「…炎が鎮まった……? 一体、中で何が…」
雲の裏まで確かめるように空を眺める鳥什丸の側を離れ、坂田は気が荒ぶる愛馬へ器用に跨った。
「番人が戻る兆しがない。 乗り込むぞ」
一同へ伝えると、坂田は乗り手を振り落とそうとする鴉玖瑠を手綱で上手く操り、表門へ歩かせた。
心柱を折った塔は講堂の上へ倒れ込み、表門を半分ほど押し潰したところで崩壊を止めており、これから土塀と講堂を巻き添えに全壊してしまう危険があった。
だが坂田は馬を足場にして、門外へ突き出た塔の笠を登り、内部へ侵入するつもりである。
「いいえ若!なりません! 退きましょう!」
しかし、鳥什丸は馬の指縄を掴み、坂田の行く手を阻んだ。
「微かだが鬼の悲鳴が聞こえた! 奴等の企みを見定めねば…」
馬を宥めながら必死に引き留める鳥什丸を見下ろし、理解を得るように決意を口にする坂田を、万雷が遮った。
「わっ若 !! 上ぇえッ!!!」
「!?」
万雷は坂田の頭上を指差し、咄嗟に見上げた坂田の顔面を――何かが直撃した。
講堂から塔身へよじ登り、門外へ一思いに飛び降りたネイは、真下に位置する坂田が見えず。気が付いた時には右足が、坂田の顔面を蹴り飛ばしていた。
面に強烈な一撃を受けた坂田は馬から弾き落とされ、ネイの身体は図らずも乗り手を失った馬の背に、入れ替わる形で跨った。
突如背に加わった重量で馬体は大きく傾き、驚いた黒馬は嘶き声を上げ、周囲を激しく蹴り跳ねた。
馬具を引く鳥什丸の伸び盛りな短身は、暴れ馬の動きに合わせて引き回され――。激動に耐えかねた少年が指縄を解き放つのを見計らい、馬首に取り縋るネイは手綱を打った。
動揺した黒馬は棹立ち、前足を掻いて抵抗したが、しっかり鐙を履き、強く手綱を引くと、馬は嘶き。坂田一行を置き去りに、森へと駆け出した。
「若ーーっ!!!」
大の字に失神した坂田へ駆け寄る万雷の声が、背後から木霊する。が、ネイは心の内で詫び、視線を前方へ戻した。
進行方向に手綱を取り、足で馬腹を挟み込んで圧迫すれば、馬は更に加速し、整えられた参道をぐんぐん下る。
段々と走る快感を思い出したのか、馬は自発的に疾駆し、気流と一体になった様に尾を靡かせ、 流麗 に風を切った。
寸刻が経過した頃、馬に疲れが見え始め、速度を緩めさせたネイは、漸く己の首元に縋る御鈴姫を気に掛ける事が出来た。
恐ろしい体験をして間もない御鈴姫は、ネイの首元にがっちり獅噛みつき。
気を静めるには、啜り泣く背を優しく撫でてやらねばならず。穏やかに馬に揺られ、追手が迫らぬであろう山腹まで行けば漸く首元を離れたが、今度は隠れるようにネイの胸元に顔を埋めた。
御鈴姫の額の出血は凝固してみえるが、髪に隠れた傷の程度を確認せねば心が安まらず、ネイは指先で銀色の前髪を除けた。
左角 は根元から切り落され、皮膚の一部もを削ぎ落とし、額にはくっきりと刀傷が残されている。その痛ましい傷跡に、ネイは思わず顔を顰めた。
「……どうして……助けて…っくれるの…?」
御鈴姫は噎びながら言い、泣き腫らした顔を怖々と上げる。
「私…っ…こんな……」
大粒の涙を溢す御鈴姫の瞳は、黒曜から金色へ変じ、瞳孔の収縮は人とは異なり、 長菱形 を描いている。瞳孔は角度によって色彩と輝きを変化させ、虹彩の中心に宝石を浮べたような瞳は、人にはあらざる 珠玉 の美しさがあった。
しかし、御鈴姫は己の姿を嫌い、拒絶への恐れから顔を伏せる。
その様子を憐れんだネイは、言葉を用いず御鈴姫を抱き寄せた。
熱涙する御鈴姫は身を預けて抱き締め返し、――二人は互いの無事を緊と感じ入った。
やがて少女を胸に包み込んだまま、ネイはぽつりと己の名を明かした。
「…ネイ」
御鈴姫が戸惑う声を発して顔を上げると、ネイは少女へ笑みを向け、返事を待っていた。
その穏やかな表情に励まされた少女は涙を拭い、少し口元を綻ばせる。
「わたし…御鈴です…。ネイ様」
二人は暫し微笑み合い、親愛の情をもって見つめ合うその時は、犬神によって締め括られる。鞍からやっとの思いで這い上がった狛和丸はネイの肩口に登り、御鈴姫を叱り付けた。
「こらぁ!! 鈴!お前かぁ!! ワシを冷たい土の中に埋めたのはっ!!!」
犬神の怒声に御鈴姫は跳ね上がり、目を丸くして子犬を凝視すると次第に瞳を潤ませる。
「お犬さまぁ!よかった !! 死んじゃったのかと思ったぁ!!」
大声で泣き噦る御鈴姫の一言で、犬神の瞳は見開かれた。
「やはりお前かぁああ !! 気高い犬神が !! 破魔矢なんぞで死んでたまるかーー!!」
「きゃああーっ!!」
犬神は御鈴姫の肩に噛み付き。
朝焼けに染まる黎明の空へ御鈴姫の悲鳴を響き渡らせながら、坂田の愛馬 鴉玖瑠 に乗って、一同は大地を駆け抜けた。
©️2025 嵬動新九
切りが良いのでここで四章を終えたかったのですが、あと一話だけお付き合いください…!明日に次話を投稿致します。
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