一章 蠱獄 九丁
――坂田の体に痛みが走る。
だがそれは、喉元に喰らい付かれ生じた痛みではなく。頬を何かで強打された痛みである。
視界が大きく左に傾き、体は宙に浮かび。背後を襲った老人共々、自分は吹き飛ばされたのだと、己を殴った人物――鬼面の男が宙を舞う一瞬間 視界に入った事で、我が身に何が起こったのか、坂田は判然と理解出来た。
牙を剥いた鬼の面に、漆黒の合羽をはためかせる眼前の男は、万雷の薙刀を華麗に使い熟し、坂田の喉に老人の歯牙が触れる寸前に、老人の頭部を打ち付け坂田の命を救った。
だが手元が狂ったのだろう。
誰よりも早く老人の正体に勘付き、穂で怪我をしないよう刃の無い石突を坂田へ向けて振りかぶり、老人の頭を強烈な一撃で打ち付けたまでは良かったのだが。少し軌道のずれた薙刀の柄は坂田の頬にも接触し、結果頬を強打した坂田は、受け身も取れず地面を滑り派手に吹き飛んだ。
「若ァ !!」
打撃の衝撃で軽い脳震盪を起こしたのか、地面に上向きに倒れて、直ぐに起き上がる事の出来ない坂田へ万雷は叫び駆け寄った。
「貴様よくも !!」
主を傷付けられた怒りを露わに、少数の配下達は鬼面の男へと刃を向け、残りの配下達は豹変した老人へと、問答無用で刀を振り下ろした。
坂田と同様に、地面に倒れ伏していた老人は迫る刀を難なく躱すと、人間とは思えぬ動きで関節を撓わせ、四つん這いで人の間を掻い潜った。
足下をすり抜け逃げる老人へと、男達は次々と刀を突き刺したが、老人は蜥蜴の様にしなやかな動きでそれらを避け、狙いを外れた男達の刀は地へ深々と突き刺さった。
一同から逃れた老人は、年老いて黄ばんだ爪を銀杏の木に乱暴に突き立てると、獣が這う動態ですいすいと木を這い登り。やがて木登りが、一行の手の届かぬ高さに到達した老人は、顔を背中に据えたかの様に、首を人間の脊髄では不可能な真後ろまで回し、不気味な笑みを浮かべて坂田一行を見下ろした。
木にしがみ付き老人の姿に為り変った怪物と、未だ得体は知れぬが主である坂田を救った鬼面の男。この二者の登場に坂田一同は混乱を隠せず、男達は鬼面男へ刀を向け、頭上から此方を見下ろす老人と鬼面男を交互に見詰めている。
刀を向けられようと鬼面の男は、打撲で赤く腫れる頬を押さえて蹌踉めき立つ坂田の様子を、ただ黙って静観している。
状況が呑み込めず動揺する一同へ、老人は嘲笑うかの様な乾いた笑い声を発し、場の全員が首を揃えて声の主を見上げた。
「くく…そのまま殺し合えば、手間が省けたのだがなぁ…!」
そう明かした老人の皮膚はぼろぼろと剥がれ落ち、皮膚を失った肌からは錆色の剛毛が姿を現し、腕には蝙蝠に酷似した翼が飛び出した。
長時間翼を仕舞い込んで窮屈だったのか、妖怪は翼を目一杯広げ数回上下に扇ぐと、満足そうに翼を折り畳み。全身の皮膚が剥がれ落ちたその様は、一見すると鼯鼠のような姿をしているが、顔には猪に似寄る巨大な鼻が中心にあり、下顎から伸びる鋭い牙が二つ、笑みを浮かべる口からはみ出している。
人の姿は霧が見せた幻だったのか。人の生き血を吸う野衾という妖怪の出現に一同は身構えた。
「見破ったのは…貴様が初めてだ…。 たかが人間如きに見破れるものか、貴様は一体何だ?」
未だ銀杏の木に張り付きながら野衾は、巨大な目で鬼面の男を矯めつ眇めつ観察している。
「下郎の妖に名乗る名はない」
野衾に一瞥もくれずに鬼面の男は吐き捨てると、左手に持つ薙刀を本来の持ち主である万雷へ投越した。
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