星降る家族
駅に下りた青年は星空に魅せられる。故郷の街を歩きながら、幼い頃の思い出や家族の様子を回想する。嫁ぐ妹や懐かしい母の手料理、仕事に忙しい父の思い出が胸に去来する。
家族と星空を見上げる幸せなひととき……
5分で読める短編小説です。
駅の改札を抜けると雨は上がっていた。
車窓から見えた夕まぐれの風景は、篠突く雨によって視界を邪魔していたが、今はからっと乾いた風が吹き渡り、暮れかかる駅前広場は墨絵の画布となって広がっている。
街路樹の枝垂れ柳は、洗いたての枝葉を優雅に泳がせている。さっぱりとしていて気持ちが良さそうだ。
駅の正面をバスロータリーやタクシー乗り場が占め、そこから車は南に伸びた大通りへと掃けていく。
西側は再開発区域として立派なシティホテルがあり、東側は旧市街と呼ばれ、大小不揃いなビルが建ち並び、食料品や日用品を扱う店から洋品店に飲み屋が展開し、今でも下町風情が残っている。小規模だが市井の息吹きがはっきりと感じ取れる区域だ。そのビルの屋上を陣取る広告看板とて、騒々しくも活気があっていい。
僕が生まれ育った街。感慨もひとしおだ。
鈍色の雨雲はどこかに行ってしまった。かわりに落ちてきそうな満天の星がある。あたかも星降る夜である。無数の天体が織りなす壮大なロマンを感じる。僕はこの星明かりに誘われ、夜道を歩きたい気分だった。バスロータリーは帰宅ラッシュの乗客で鈴なりの列をつくっている。こんな夜は気ままな徒歩の旅もいいかもしれない。すでに市街地のなか歩き出していた。
長尺の傘はこうなると無用以外のなにものでもないが、傘を無くして帰り母さんに叱られた子ども時代を思い出し、大人になった今でも大切に持ち帰ろうと妙な使命感に駆られたりするものだ。
暮れの気配はすぐに来て、繁華街は色とりどりの明かりで夜を照らしている。雨に濡れたアスファルトはネオンを映し、街は二重に見えた。
人混みの激しい往来の前を通りかかると、蕎麦屋の鰹出汁やフライドチキンのスパイスの匂い、洋食屋のブイヨンとトマトソースの渾然一体の香りが鼻を打擲してくる。
夕げの懐かしい匂いは、腹を空かせた野球帰りの少年に僕を戻した。
食卓の湯気を囲む家族の笑顔が胸に去来してくる。当時はよく最後に残った大皿の料理を、妹の香菜と争ったものだ。そんな二人を見て、母さんはまた作ってあげるからと嬉しそうにたしなめるのだった。
僕には帰る家がある。寄り道はしていられない。確固たる行先に向け帰路を急いだ。
目抜き通りから町筋を抜け、一旦人家の灯は途絶えた。さらにガード下をくぐり川べりの堤防まで来ると、街灯もまばらで暗がりは濃さを増した。だがかえってそれが夜空を身近に星は一層迫ってみえる。
河川敷は街の風景とは対照的に手つかずの自然を残し、見渡しても高い建物はなく、星空は大パノラマを形勢し僕を包囲した。
静かに、そしてゆっくりと時間が流れていく。僕は心休まるこのひとときが好きだ。
宇宙のふところに抱かれ、懐かしい思い出に浸ったり、思いの丈をぶつけたり、人生について語るのもいい。話しかければ星は瞬き相槌をしてくれる。星のエールに寂しいなんて思いは感じない。
川の流れは雨後のわりに穏やかだった。僕は橋のへりからたんたんとスクロールする川面を眺めた。
子どもの頃、よく友達と水切りをして遊んだ。その緩流の溜りは面影を失っていない。過って足を滑らせ、びしょ濡れになったこともあったっけ。それでポケットに入れていたゲーム機をダメにしてしまいひどく落ち込んだものだ。
橋を渡りきると河岸段丘に造成されたニュータウンがぼんやりしてきた。笑顔の絶えないあたたかい我が家まであと一息だ。
道すがら、父の仕事場が入るテナントが見えた。
思った通り明かりが漏れている。洋服の仕立て屋を切り盛りする父にからだが休まる暇はない。婦人服やスーツや礼服に七五三の着物だって扱う。シーズン通してどんな年中行事であろうと父は客を拒まない。補修や仕立て直しだってお手の物だから、評判を聞きつけ注文は途切れたことがないと聞く。働きもので責任感が強い僕の自慢の父だ。
──でも父さん、たまには早く帰って香菜の話も聞いてやって欲しい。もうまもなく妹は嫁に行ってしまう。
住宅街に入りぼちぼち近所のコーナーにさしかかると、マリオが出迎えてくれる光景が目に浮かんだ。
どうやら犬には人の気配を遠くからでも感知できる能力が備わっているらしい。
予想通り玄関に入ると、喜びいっぱい僕に飛びついてきた。長い間ひとりぼっちで寂しい思いをさせてしまった。特にゴールデンレトリバーは家族のそばが好きな犬種だ。
もう僕はどこへも行かない。ずっと一緒だ。さあ、おいでマリオ、ボール遊びをしよう。
◇
「ふぅー、さっぱりした。ねえ母さん、晩御飯なあーに?」
風呂から上がった香菜は濡れた頭にタオルを被りキッチンに入ってきた。
「その長い髪なんとかなさい。式の前には切るんでしょ。主婦を甘くみてはダメよ。家事にも邪魔になるだけなんだから」
「えー、彼も似合ってるって……あっ! 今日は、から揚げか。ラッキー」
こんがり揚がるご馳走を前に、香菜の顔から明るい笑みがこぼれた。
「そんな予感がしたんだ。じつは今日ね、仕事帰りに駅近くのケンタに寄ろうとしたんだけど、どうも足が家に帰れって。虫の知らせかな」
そーっと香菜は摘まみ食いをしようとして、こらっ、と手を叩かれた。「いいじゃん、一つぐらい」香菜は肩をすくめ「もうお腹ペコペコなんだもん」とむくれた。
はしたない真似はやめなさいと、それから母お得意の行儀作法についての講義が始まった。こうなるとお喋り好きの母につかまってしまった香菜に少し同情する。
主婦としての心構えに始まり、香菜も手伝いをしながら、引き続き料理の手ほどきを受けている。
「揚げ物はとくに温度が大事よ。低くても高くてもダメ。から揚げの場合は百六十度から百八十度、二度揚げするのもポイントよ」
神妙に聞いている香菜が微笑ましい。兄の欲目から見ても香菜は見違えるほど綺麗になった。嫁ぐ妹になんだか胸が熱くなってきてしまった。
「そう言えば私、よくお兄ちゃんと最後のから揚げめぐって喧嘩したよね」
香菜の言葉に応じるように、母は料理を取り分けた。
「じゃあこれいつものね。お兄ちゃんとマリオの分」そう告げ香菜にお皿を渡した。
ふとリビングの窓から外を見上げ香菜は言った。
「わあー、すごい。ねえ母さん来て来て、今夜は星がすっごく綺麗」
そうして庭のベンチに腰かけ、二人はしばらく頭を並べ、物欲しそうに見惚れていた。
「そんなとこで何してるんだい?」
庭の生け垣の向こうから、父が声をかけた。
「あら、お父さんお帰りなさい。でもこんなに早く珍しい」
「ああ。急に家に帰らないといけない気がしてね」
「変なのお」
香菜はクスクス笑った。
「夕食の支度をしていたんだけど、香菜が庭に呼ぶものだから」
「ああ、この星か……」
それから三人は黙りこくり、満天の星空を眺めていた。
「あっ! いけない」
急に母が思い出したように叫んだ。
「今日デパート行って、帰りの電車に傘忘れて来ちゃった」
そういって苦笑すると、あーあ、昔のお兄ちゃん思い出すね、と香菜はしみじみ言った。
はっとした父は不思議そうに雨傘を手に取った。そうして二人に訊ねた。
「いやだけど、ここの生け垣にかかってたのは母さんのだろ」
草木は息を静め音もなく風が舞った。庭に落ちているテニスボールが風に揺れている。
「きっとこの星の下のどこかで、私たちのことを見守ってくれているんだよ……マリオと一緒に」
少し目を潤ませ香菜は言った。でもすぐに目の端を指で拭った。
──そうだ、香菜。星降る夜に悲しみは似合わない。
僕の魂はこの地上をさまよい、みんなの側にいるから。そしてこれからもずっと家族の幸せを祈っているよ。
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