歴史は繰り返す①
少し長くなっております。
もう少し短めに分割しようと思ったのですが、切れるところがありませんでした。
読みにくかったら申し訳ありません。
第三章:歴史は繰り返す
1
薔薇の紋章が大きく刻まれたドアの奥に、豪華絢爛な部屋があった。美しい光を部屋中に灯すシャンデリア、薔薇をモチーフに装飾された鏡、月光のような淡くて美しいカーテンに包まれたベッド、壁にかけられた一枚の肖像画さえも美麗である。
しかし、それでも一人の少女にとってはただの箱でしかなかった。いや、檻かもしれなかった。監視された檻。自由に外へ出ることはできない。目の前にそびえるドアは、入り口であっても出口にはならない。
ただ、少女には救いがあった。今夜、大好きな人がやってくる。自分が唯一心を開ける人物が。もうすぐ、ノックの音が聞こえるだろう。そうしたら、侍女がドアを開けてくれる。そして、大好きな人がこの部屋に入ってくる。
「ねぇ、スミレ、時間は?」
「もうすぐ十一時でございます、陛下」
「もうすぐじゃわからないわ。あと何分で十一時なの?」
「あと三分でございます、陛下。」
「あと三分……。じっとなんて待っていられないわ。ねぇ、スミレ、何かおもしろい話をして」
「そう言われましても、陛下」
と、侍女のスミレは困った顔をする。女王陛下のいつものわがままが始まった、といわんばかりに。
スミレは、ひょろりと背の高い三十代の女だった。メガネの下の細い眼は、いつも笑っているように見える都合のいい顔立ちだ。長年、女王のわがままに振り回されているが、そういう意味で笑顔を絶やした事はない。
「ならいいわ。お茶を入れて」
「はい、かしこまりました」
そう言って、スミレは紅茶を入れ始めた。その様子を黙って女王ロゼは眺めている。しかし、すぐに飽きて部屋をうろうろし始めた。それからベッドにダイブしてぴょんぴょん跳ねてみる。
スミレはただ黙々と紅茶を入れた。女王の子供じみた行動はいつものことだ。
「陛下、お紅茶が……」
と、言いかけて、スミレは小さく舌打ちをした。おそらくこの紅茶は飲まれずに放置されることだろう。女王は別に紅茶など飲みたくはなかったのだから。ただの暇つぶしだったのだ、ノックの主が訪れるまでの。
「スミレ、早く開けて」
女王に急かされて、スミレはドアを開けた。そして、深々と頭を下げる。
「ようこそおいでくださいました。女王陛下がお待ちです、ルカ様」
部屋を訪れたのはルカであった。ルカはスミレに微笑みかけると、部屋の奥へと足を進める。
笑みを向けられたスミレは、思わずその美しさに見とれて、数秒間惚けてしまった。我に返ってあわててドアを閉めようとしたとき、ルカに連れ立って入ってきたもう一人と目が合った。
(誰かしら?ルカ様がお一人じゃないなんて、珍しいわね)
ショートカットの黒髪、背は低く華奢で子供のようだった。そして、大きな瞳。この印象的な大きく愛嬌のある瞳をスミレは良く知っている。自分が仕えるその人も大きく愛嬌のある瞳を持っていた。しかし、これほどまでに力強い光は彼女のそれにはない。彼女はただ、愛らしいだけの人形なのだから。
「ルカ!」
女王ロゼは、ルカが入ってくるなり駆け寄って飛びついた。ルカの胸に顔をうずめて、甘えるように言う。
「ルカ、ずっと待っていたのよ」
「陛下」
緩やかなウェーブのかかった淡いピンクの髪が揺れる。包み込みたくなる気持ちを抑えて、ルカはロゼの身体を離した。
「陛下、紹介したい者がいるのですが」
「そう」
ロゼはそっけない返事をした。
かまわずルカは続ける。
「ショウといいます。私のそばに置くことにしました」
「へぇ」
と、ロゼは一瞥する。
「ルカが侍女を置くなんて、どういう風の吹き回し?今まで誰もそばに置こうとしなかったじゃない」
(そりゃ、そうだろうな。そんなことしたら、ルカが男だってことがバレかねない)
ショウは心の中で納得する。
(それにしても、闘技場のときとえらく雰囲気が違うんじゃねぇか、この女王)
闘技場で見た女王の姿、それはもっと凛々しく、女王としての風格を持っていた。しかし、今目の前にいる女王は、どこにでもいそうなわがまま少女である。愛らしい顔が、時にすねた顔になったり時に甘えた顔になったりするごく普通の少女だ。
「ショウと言ったわね」
女王ロゼが声をかけた。そして、ショウをなめるように見ると、
「ブス」
と、一言。
「はぁ?」
(なんで、おまえにそんなこと言われなきゃなんねぇんだよ?)
ショウはこめかみをぴくつかせながら思った。が、下手に口を利くなとルカから口をすっぱくして言われているため、今にも怒鳴りつけたい心情を必死に押し殺す。
「ブスだけど、ルカが選んだのなら仕方がないわ。ルカのためにしっかりと働きなさい」
「陛下、なんという口の利き方ですか!」
と、ルカが嗜めると、ロゼは「ごめんなさい」と、つぶらな瞳をうるうるさせて見せる。しかし、ルカの見ていないところでは、ちゃっかりショウに向かってあかんべいをやってのけるのであった。
(か、かわいくねぇ――!)
「あー、かわいくねぇ!なんだ、あの女!」
と、ショウは自棄酒のように紅茶を一気に飲み干した。
侍女スミレの部屋は、こじんまりとした部屋だった。先ほどの女王の部屋とは、言うまでもないが比べものにならないほど狭い。しかし、一人で暮らすのにはなんの支障もない広さともいえる。小さなテーブルと一人用ベッドが一つずつの簡素な部屋だが、小窓の外から覗く綺麗な月と星空は、見る者の心を癒すには十分だった。
ショウとスミレは、小さなテーブルを囲んで遅いティータイムを興じていた。といっても、ほとんどが女王に対する愚痴合戦だ。
「あいつ、いつもあんなにわがままなのかよ?」
見るからにスミレのほうが二十歳は年上のくせに、紅茶の酔いに任せて平気でため口を利く。最初はひっかかっていたスミレも、もうどうでもよくなるほど気分がのってきていた。
「ルカ様がいらっしゃるときが一番ひどいわ」
「なんでまた?」
「ルカ様に叱ってもらえるのがうれしいのよ、ホントにただの子供よね」
「怒られるのがうれしいって、変わってるな」
「仕方ないわ。誰も女王にかまいやしないんだもの」
「どういうことだ?」
「女王なんていってもね、所詮はただのお飾り。椅子に座ってるだけの人形よ」
「へぇ、意外だな」
「そりゃあ、国民の女王に対する忠誠心はまだまだ厚いわよ。だって、そう教育されてきているし、女王は『薔薇の革命』のシンボルだもの、女王の存在は、ローゼンシュトルツにとってかかせないのよ。だからね、女王と名のつくものがいればそれでいいのよ。あんなどこからかつれてきたような田舎娘だって……あら、いけない、今聞いたことは忘れて」
と、スミレはあわてて口をつぐむ。
だが、ショウは興味津津だ。
「どこからかつれてきたって?どういう意味だよ?」
「それは言えないわ。国家機密だもの」
「いいじゃないっスか、俺とスミレさんの仲でしょ」
と、ショウもこういうときだけ敬語になる。
スミレも国家機密だとか何とか言うわりには、言いたくてたまらないといった顔だ。
「じゃあ、あんただけに教えてあげる。今の女王はね、初代女王ロゼ様がご病気になられたときに、町から後継者と称して連れてこられたのよ。表立っては、初代女王が後継者として選んだことになってるけど、本当は勝手に初代女王の幼少期にそっくりな娘を連れてきただけ。まあ、本当にそっくりだったみたいだから、昔の女王を知る人たちは女王の化身だっていって熱心にあがめてるけど……。事情を知ってるものからすれば、ただの田舎娘よ」
「なるほどね。だから人形なわけだ」
「作法はなってないわ、言葉遣いはなってないわで、あの娘がきたときは大変だったわよ。どうしてこんな簡単なことができないのかってね。とりあえず最低限のことだけ叩き込んで、あとはアイリス様がうまく演出してくださったわ。それはそれは立派な女王陛下としてね。だから、陛下はアイリス様には頭が上がらないのよ」
(アイリス……?って、あいつか)
と、ショウはおぼろげに顔を思い出す。
「女王ってのも大変なんだな」
「まあ、不憫だとは思うけどね。突然つれてこられて、いきなり女王になれって言われてもねぇ。だから夜な夜な一人泣いてたみたいね」
「あいつがねぇ……」
と、ショウはロゼの顔を思い浮かべる。思い浮かべれば浮かべるほど、どうしても憎たらしく思えてしまう。夜な夜な泣いている姿など想像もつかないのであった。
「ルカ様がいなかったら、周りの重圧に押しつぶされていたでしょうね」
スミレはそう言って、窓の外を眺めた。
「ルカ様だって決して陛下にお優しかったわけじゃないのよ。ルカ様も他の四天王の方々同様、大変厳しく陛下に接せられたわ。でもね、ルカ様の言葉にはいつも愛情がこめられていたの。陛下にもそれがわかるんでしょうね。ルカ様には本当によくなついて、ああしてわがままを言ってかまってもらおうとするのよ」
「だからって、ブスはねぇよなぁ」
「あら、まだ気にしてたの?大丈夫、陛下はかわいい娘にしかブスって言わないから」
「あ、そう」
(それもうれしくねぇ……)
と、苦笑するショウ。
「ルカ様といるときの陛下が、一番陛下らしいわ」
ふとスミレはそうつぶやいて微笑んだ。
「さぁ、もう寝ましょう。明日も早いわ。陛下たちを起こすのも私たち侍女の役目なんだから」
「スミレさん、あの女王のこと大切に思ってるんだな」
「そりゃあ、大切よ。あれでもローゼンシュトルツの女王陛下なんだから」
「それだけ?」
「それだけよ」
スミレはそう言って笑った。
2
ベッドに横たわると、ロゼはおもむろに手を伸ばした。その小さな手をルカの温かい両手がそっと優しく包み込む。
ロゼはその温もりに安堵し、満面の笑みを向けた。そこには女王という肩書きなどない、無邪気で純粋な一人の少女の笑顔だった。
「よかった」
と、ロゼはつぶやいた。
「闘技場でのこと、怒ってるんじゃないかと思って」
「なぜです?」
ルカは優しく聞き返した。
「だって、ルカはあの闘いを止めたかったんでしょう?それなのに、私はルカの思い通りにしてあげられなかった。結果的に、アイリスの肩をもつようなことに……」
「陛下……」
「本当は止めたかったの!」
ロゼはそう言って、身体を起こした。そして、ルカの手を握り返す。その手は小刻みに震えていた。何かに怯えるように。
「本当よ。だから、嫌いにならないで……」
ロゼの愛らしく大きな瞳から一滴の涙がこぼれ落ちた。
「陛下……」
「ルカがいなきゃだめなの。ルカだけが私を見てくれるから。ルカの前では、私は私でいられるの。だからお願い、嫌いにならないで」
「嫌いになどなるものですか」
しゃくりあげて泣くロゼの肩をルカはそっと抱き寄せた。ルカの手は、そこで行き場をなくしたかのように固まった。
本当はもっと強く抱きしめたい。しかし、それは許されないことだと、ルカは自分に強く言い聞かせた。踏み越えてはいけないと。
「陛下、私はどういう理由であれ、陛下のくだした決定には従うつもりです。だから、自信をお持ちください。自信を持って、あなたの意思で私に命じてください」
「ルカ、ありがとう。ダメよね、私。女王のくせに、こんなに大泣きしてたら。アイリスにまた怒られるわ」
そう言うと、ロゼは涙を拭いて笑顔を作って見せた。
「女王たる者、むやみに人前で泣いてはならない。堂々と胸をはり、民を見据え、決して弱さを見せてはならない。そうでしょう、ルカ?」
「ええ、そうです。ですが、私の前では泣いてかまわないのですよ。泣くことは、人に与えられた平等な感情です。そこに女王も民もヴォルフもヴィーネもない。辛ければ泣き、楽しければ笑うのです」
月の光が窓から差し込んだ。
「きれい……」
と、ロゼは微笑んだ。
「ねぇ、ルカ。女王でいることって本当に難しい。笑うことも泣くことも自由にできない。いつも言われたとおりにすごして、きちんと作法どおりに振舞わなくちゃいけない。でもね、女王をやめたいと思ったことはないの。私はこの国が、ローゼンシュトルツが大好きだから。私が女王でいることが、この国のためになるなら、私はどんな辛いことだって我慢してみせる。この国に暮らす全てのヴィーネを、私は絶対に裏切ったりしない。全てのヴィーネのために、私は女王であり続けるわ」
「陛下」
ロゼはそっとルカの手を自分の頬に近づけた。そして、安らぐように頬をすり寄せる。
「そして、その傍には必ずルカはいてくれるよね?」
「ええ」
短く頷くと、ルカはロゼの頬から手を離した。そうせずにはいられなかった。自分が自分であるためには。
「さ、もうおやすみください、陛下」
ルカはベッドから離れると、窓のカーテンを閉めた。深紅のカーテンにさえぎられ、差し込んでいた月の光が音もなく消える。
静かな夜の暗さの中で、小さな寝息が聞こえてきた。広いベッドの中央で、安らかな笑みを浮かべながらロゼは気持ちよさそうに眠っている。ルカは、しばらくベッドの傍らでその様子を眺めていた。寝返りを打てば、毛布をかけなおしてやる。
「ルカ……」
ふいにロゼが寝言を言ったので、ルカはその手を止めた。凍ったかのように、毛布に添えたその手が動くことはなかった。いや、動こうとする手を必死にとどめているようにも見える。
ルカは小さく呼吸を整えた。そして、凍りついていた手をおもむろに動かす。手はロゼの長い髪に触れ、とかすようにして毛先を持ち上げた。そこにそっとキスをする。ほのかにローズの香りがした。
それからルカはベッドを離れた。何かから逃れるように。
(少し熱いですね……窓を……)
ルカは窓に視線をやった。
そのときだ。
ガシャァァァンッッ!
激しい音を立てて、窓ガラスが砕け散った。
いったい何が起きたのか。
幸いカーテンがしまっていて、ガラスの破片はそれほど室内に散布しなかった。しかし、カーテンがしまっていたからこそ忍び寄る影に気づかなかったともいえる。
ガラスの割れる衝撃音とともに、二つの黒い影が女王の寝室に入りこんだのだ。
「な、何者です!」
ルカは腰に下げた剣を抜いた。
カーテンがたなびくその陰に、二人の侵入者が悠然と立っている。一人は恰幅の良い長身、もう一人は少し小柄だったが、それでもルカよりは背が高く恰幅も良かった。二人は全身を黒い衣服で覆い、顔がわからぬよう仮面をかぶっている。その仮面は鉄製だろうか、何の装飾もなく、ただ目の部分にだけ細い切込みが入っているだけだ。視界は決していいとはいえないだろう。しかし、侵入者たちはひるむ様子もなくルカに向かってくる。
ルカは剣を構えた。迎え撃つために。だが、侵入者たちの狙いは剣を構えて見据える美麗な剣士ではなかった。その奥にいる眠れる女王だったのである。長身の侵入者がルカに対峙した。その隙に、もう一人が女王に襲い掛かる。
さすがの女王ロゼも、窓が割れたけたたましい音で目を覚ましていた。眠気眼をこすり、ゆっくりと身体を起こす。
「何の音、ルカ?」
そう言って起き上がったロゼの前には、恐ろしき黒い影が、今まさに襲いかからんと短刀を振り上げていた。
「きゃぁぁぁぁぁぁっ!」
甲高い叫び声が、城内にこだまする。
「陛下!」
ルカは目前の敵を素早くなぎ倒すと、すぐさまロゼに覆いかぶさった。
勢いづいた刃物が、ルカの背に向けて振り下ろされる。
肉を突き刺す生々しい音がして、ルカは小さくうめき声を上げた。
「ルカ……」
ロゼは声を絞り出した。震えがとまらない。目じりにたまった涙が、こらえきれずに頬を流れた。
シーツに水滴がたれる音がする。
ロゼは自分の涙だと思った。しかし、シーツはみるみる赤く染まっていく。ポタリポタリと、赤い雫がシーツの上に滴り落ちていたのだった。
ロゼはもう何も言葉にできなかった。目を見開き、身体を震わせ、赤く滲んだルカのわき腹を凝視するだけで精一杯だ。
ルカもまた言葉にならないようだった。腹部から発信される激痛が、ルカの身体を硬直させていた。だが、このままじっとしているわけにはいかない。女王を安全な場所へ逃がし、この侵入者たちを撃退しなければならない。
ルカは言葉を振り絞った。
「陛下……、お逃げください……」
そして、ルカはロゼを背にして向き直ったのである。
侵入者たちはたじろいだ。短刀がルカのわき腹を貫いた感覚を、彼らの一人は感じとっていたからだ。かなりの深手を負わせたはずだった。それなのに、目の前に立つ女は、剣を構えて怯む様子もなく闘志をこちら側に向けているのである。
「陛下、早くお逃げください!」
ルカはもう一度言った。今度は先ほどよりも強く、はっきりとした口調で。
しかし、ロゼは動こうとはしない。腰が抜けて身体が動かないのだ。
(このままでは陛下が……)
ルカは、ロゼを気にしながらも侵入者たちににじり寄った。額から異常なまでの汗が流れ落ちる。神経を尖らせ、精神を集中させて気力で床を踏みしめていたのである。本来なら剣を構えて立っているなど到底できないだろう。
ルカはまた一歩、重い足を敵に近づけた。剣の切っ先は、完全に敵をとらえている。だが、うかつに手を出すことはできなかった。次の攻撃が勝敗を決めることを予期していたからだ。失敗すれば、自分の命はおろか女王の命さえも危うい。分はどう見ても向こうにある。負傷した身体では、二人まとめて相手をするのは無理だ。刺し違える覚悟で望まなければ……。
張り詰めた緊張感が部屋一帯を包み込む。お互いがきっかけを待っていた。攻撃のきっかけを。
そこへ、
「ルカ!」
ドアをこじ開けて、入ってきた者がいた。その強く澄んだ声には覚えがある。ショウだ。大きな物音を聞きつけ、あわてて駆けつけたのである。
この一瞬の出来事をルカは見逃さなかった。予想外の出来事にほんの一瞬気をとられた侵入者の隙を狙い、ルカは剣をもって斬りつけた。敵の一人が悲鳴を上げてその場に崩れるようにして倒れた。だが敵はもう一人残っている。油断はできない。
ルカの剣と敵の剣とが交じり合う金属音が響く。
「ぐ……」
ルカの唇から一筋の血が流れる。
「ルカ!」
ショウは、助けるために近づこうとした。しかし、ルカの言葉に足を止める。
「ショウ、早く陛下を!陛下を安全な場所に!」
ショウの視線は、ルカからベッドの上で震えている女王に移った。
「わかった!」
そう言うと、ショウはすぐさま女王の手を引く。
「逃げるぞ!」
だが、女王の身体はピクリとも動かなかった。強張った顔で何か一点を見つめ、石のように硬直している。ロゼの視線の先には、真っ赤に染まったシーツがあった。
(血……?)
ショウは、はっとしてルカを見た。
(ケガしてるのか?)
それならば、なおさら早くここから退散しなければならない。ショウとロゼを守りながら闘うことは、ルカにとって負担になる。
ショウはもう一度強くロゼの手を引っ張った。それで我に返ったのか、ロゼは強張った形相のままショウを見た。
「逃げるぞ!」
と、ショウはもう一度言った。
しかし、あろうことかロゼは頭を横に振ったのだ。
「いや……ルカを……ルカを助けて……」
「ルカなら大丈夫だ。とにかく行くぞ」
ショウはロゼをベッドから引きずりおろした。抱きかかえるには、ショウの身体は小さすぎる。そのままロゼの手を強く引いて、ドアから外へと出る。バタンという音ともに扉は閉ざされた。
だが、部屋を出た瞬間、ロゼの様子が激変した。扉の閉まる音をきっかけに、気がふれたかのように泣き叫び始めたのだ。
「ルカ!ルカ!」
と、中へ入ろうとする。
ショウはあわててそれを制した。
「おい、待てよ!今、俺たちが行ってもどうにもなんねぇだろ!」
「いや、放して!ルカ!ルカ!」
「落ち着け、おい!」
ショウはロゼを羽交い絞めにして止めた。しかし、ロゼは泣き叫びながら抵抗する。
「いや、いやよ、放して!血を流してたのよ!ルカが死んじゃうわ!」
「あいつがそんなんで死ぬタマかよ!」
「ルカが死んじゃう!ルカが死んじゃうわ!いやよ、いや!ルカが死んじゃう!ルカ、ルカ――!!」
「死なねぇって言ってんだろ!」
「ルカが死んじゃうわ!ルカ!ルカが死んじゃう!ルカ!いやよ、ルカ!ルカが死んじゃう!」
錯乱状態に陥り、這ってでもルカのそばに行こうとする。
見かねたショウは、こともあろうか女王ロゼの胸倉をつかみ怒号した。
「あいつを信じろ!」
ロゼは目を見張った。ショウの強くて真っ直ぐな瞳が飛び込んでくる。
「おまえが信じてやらないで、誰が信じてやるんだよ?」
ショウの言葉に、ロゼはがっくりとうなだれた。そして、今度はすすり泣き始めた。ショウは、そんなロゼの頭をそっとなでてやった。
「ルカは大丈夫だから。絶対に大丈夫だから」
と、優しく言葉をかける。ロゼにかけているはずの言葉は、自分にも言い聞かせているようだった。
ベッドのシーツを赤く染めていた血の量は、軽傷と言えるものではなかった。ルカはかなりの深手を負っていると見て間違いない。もしかしたら……と悪いほうへ向かう思考を、ショウは必死でかき消そうとしていた。
ちょうどそこへスミレが走ってやってきた。後ろに誰か連れている。メガネをかけた小柄な女性だった。胸にバラの紋章が刻まれていることから、四天王の一人であることがわかる。彼女は、必死にここまで走ってきたのだろう。ライトグリーンの短い髪の隙間から無数の汗がたれていた。
「陛下!」
小柄な女性は、すすり泣くロゼの姿を目にするや否や、駆け寄って彼女の震える肩を抱いた。そして、ショウを見て、
「陛下にお怪我は?」
「たぶんないと思う。それより、まだ部屋の中でルカが闘ってるんだ」
「ルカさんが?スミレ、陛下を安全な場所へお願いします。それからアイリスさんとネルケさんにも至急連絡してください」
「はい。リリィ様」
女性に指示され、スミレはロゼの身をかばいながら女王の部屋から離れた場所へと誘導する。
それを見届けたリリィは、ショウを一瞥して言った。
「相手の数は?」
「二人だった」
「わかりました。では、一、二、三でドアを開けます。開けたと同時に飛び掛りますよ。これを持っていなさい」
と、リリィはショウに短刀を渡した。それから、自分の腰にさした剣を抜く。しかし、ルカの持つそれとは違い、戦闘用というより護身用に見える。剣の握り方もあまり手馴れていないようである。
それでも今は行くしかない。リリィはドアノブをつかみ、
「一、二、三!」
と、数えてドアを開けた。そして颯爽と中に飛び込む。
しかし、そこには予期せぬ光景があった。床に倒れた敵と立ち尽くす一人の姿が、ショウとリリィの目に飛び込んできたのである。
倒れていたのは、まぎれもなく黒ずくめの侵入者だった。長身の巨体が仰向けになって倒れていて、かぶっていた仮面が真っ二つに割れていた。
「ルカ!」
「ルカさん!」
ショウとリリィは、すぐさま立ち尽くしていたルカのもとに駆け寄った。二対一で、しかも負傷していたにもかかわらず、ルカはみごと侵入者を倒していた。しかし、あともう一人が見当たらない。
「ルカさん、大丈夫ですか?敵は二人と聞いていましたが……」
「リリィ。一人は逃走しました」
「そうですか。ルカさんが無事で何よりです」
「無事って……」
と、ショウが言いかけたのを、ルカが制した。傷のことは話すなと目で訴えているようだ。
「陛下はご無事ですか?」
ルカは、リリィに尋ねた。
「はい。かなり震えておいででしたが、お怪我はありませんでした」
「そう、良かった……」
そう言って、ルカは安堵の表情を浮かべた。
その横で、安心しきってこのままルカが倒れてしまうのではないかと、ショウは気が気でなかった。なぜ傷の事を隠そうとするのか。かなりの深手を負っているのだから、一刻も早く手当てをしたほうがいいはずなのに。
ショウの不安をよそに、ルカは平然としていた。実際には立っているのがやっとのはずだが、苦痛に顔をゆがめることもなくリリィと普通に話をしている。それゆえに、リリィもルカの傷についてあまり気にとめずに、侵入者が何者なのか吟味し始めたのだった。
仰向けで倒れた巨体の二つに割れた仮面を見て、リリィは息を呑んだ。仮面の下の素顔が露わになっている。
「ヴォルフ……」
ルカもまたうなずいた。
「明らかに陛下のお命を狙っていました。陛下を暗殺し、ローゼンシュトルツの秩序を乱そうと考えたのでしょう」
「まさか、あの国がかかわっているんじゃ……?」
「そこまではわかりません」
(あの国?)
ショウは横で首を捻った。二人の会話の意味がいまひとつ理解できない。
「なぁ、あの国って……?」
と、ショウがルカに尋ねようとした時、新たな人物の登場で遮られてしまった。
「ここからは、私の仕事ですわ、ルカ・クレアローズ」
背後から突然声がして、ルカ、リリィ、ショウの三人は振り返った。ドアの前に、威厳ある二人の美女が立っている。
ショウは悪寒を感じて、あわててルカの陰に隠れた。あの鋭く凍てつくような瞳は忘れもしない。アイリス・ウェンロックだ。そして傍らにいるのは、相変わらず大胆に肌を露出させた服を着ているネルケ・ブレスウィドォーだった。
「まさか、ヴォルフが女王陛下の寝室に忍び込むなんてねぇ」
と、ネルケは倒れた巨漢をまじまじと眺めて言った。その口調はどこかわざとらしい。こういう事態をあらかじめ想定して、四天王が交代で女王と寝食を共にすることになっているのだ。そして、今日はたまたまルカが共をする番だった。
「ちゃんと息の根は止めたんでしょうね、ルカ?」
「いいえ。深手は負っていますが、致命傷には至っていません」
「あらら、また処刑しなきゃいけないやつらが増えたじゃない。そうだ、アイリス、面倒だからここでとどめを刺しちゃえば?」
「それはいい考えですわね」
「待ってください、アイリスさん」
と、リリィが止めに入った。
「このヴォルフからは、事情を聞く必要があります。あともう一人、逃走しているヴォルフもいますし」
「逃走?」
アイリスの顔色が変わる。その瞳には明らかに憎悪の色がうかがえた。
「このローゼンシュトルツに、汚らわしいヴォルフがまだ潜んでいるとおっしゃるんですの?」
「はい」
「まさか、わざと逃がした……なんてことはありませんわよね、ルカ・クレアローズ?」
アイリスはそう言って、ルカをにらみつけた。ルカは首を縦に振ることも横に振ることもしなかった。ただ押し黙っている。代わりにリリィが答えた。
「わざとであるわけありませんよ!二対一で分が悪かったんです。そうですよね、ルカさん?」
ルカは特に返事をしなかった。
「別にいいんじゃない?」
と、ネルケは言った。
「わざとでもそうでなくても、結局は捕まるんだからさ。そうでしょ、アイリス?」
「そうですわね。私がいる限り、ヴォルフにこの地の土をそう長く踏ませることはありませんわ」
そう言って声高々に笑うと、アイリスは自分の指をパチンと鳴らした。すると奥から数人の兵士が現れ、床に倒れた男を担ぎ上げていく。彼の行く先はおそらく牢獄だろう。そこで何日も監禁され、闘技場で見せしめのように殺される。それがローゼンシュトルツでのヴォルフの末路だ。
侵入者の男が担ぎ出されるのを見届けて、アイリスとネルケも部屋を去った。
月明かりに照らされて、床に染みこんだ血の跡が生々しく、そして悲しくきらきらと光っている。男たちの血かそれともルカ自身の血か、床に流れた血はどちらのものかなど見分けがつくはずがない。人間の血が、そこに流れているだけのことなのだから。
リリィは血痕を眺めながら言った。
「なぜ、止めを刺さなかったのですか?ルカさんなら、できたはずです」
「私は誰の死も望みません」
「後悔することになっても……?」
リリィの問いに、ルカは静かにうなずいた。
「わざとなんかじゃ……ないですよね?」
リリィはうつむいたまま、聞こえるか聞こえないかの小さい声でそうつぶやいた。
ルカからの返事はなかった。独り言だと思ったのかもしれない。もしかしたら聞こえていなかったのかもしれない。
沈黙が流れる。この息が詰まるような沈黙を破ったのは、リリィだった。
「明日、緊急会議を開くことになると思います。今後の対策について、じっくり吟味しましょう。それでは、また明日」
それだけ言うと、リリィは部屋を後にした。
重苦しい部屋に、ルカとショウの二人だけが残された。窓ガラスは無残に砕け散り、家具や備品も散乱している。ベッドのシーツには真っ赤なしみが生々しく残り、壁にも数的の血しぶきが飛んでいた。壮絶な戦いが先ほどまで繰り広げられていたことが、この部屋の有様から如実に伝わってくる。
「ルカ、大丈夫か?」
ショウは心配そうに見上げた。
ルカは何も答えなかった。先ほどからずっと押し黙っている。
「おい、ルカ?」
ショウはルカの腕をつかみ、揺すってみた。すると、人形がバランスを崩して倒れるように、ルカは突然崩れるように倒れたのである。
「ルカ!」
ショウはあわてて、倒れたルカを覗き込んだ。雪のように白い肌が、死人のように青白くなっている。唇の色にも生気はなく、短く弱々しい息を吐くだけだった。誰が見ても瀕死の状態であることがわかる。
「ルカ、しっかりしろ!」
ショウは傷口の様子を見るために、急いで服を脱がせた。服は血だらけだった。乾いているのもあれば、ぐっしょりと濡れている箇所もある。特に腹部の部分は、絞れるほど血で濡れていた。明らかに返り血ではない、ルカ自身が流した血だ。
服を脱がせてその分部を見ると、目を背けたくなるほど痛々しい傷口が顔を出した。傷口はぱっくりと縦に裂け、肉がもう見えている。こんな傷を抱えながら、今まで平然と振舞っていたとは、ルカの精神力が並大抵のものでないことが良くわかった。
(やせ我慢しやがって、ルカのバカヤロウ!)
ショウは涙がこみ上げてくるのを必死にこらえながら、ルカの止血に躍起になった。傷口に当てるガーゼがなかったので、シーツを破いて押し当てた。
ルカは小さくうめいた。傷口に触れられると痛みが増すのだろう。しかし、激痛が走っても痛いと声を上げられる気力など全く残っていなかった。
抑えても抑えても、すぐにシーツの切れ端は深紅に染まる。
(血が止まらねぇ……!)
不安と焦りで、ショウの額から冷や汗が流れる。
「どうすりゃいいんだよ……?俺じゃどうにもできねぇよ……」
ショウは知らず知らずのうちに鼻をすすっていた。こらえていたはずの涙が次から次へと溢れ出してくる。だが、すぐさまショウはかぶりを振った。
(俺が弱気になってどうする!)
「ルカ、しっかりしろ!死ぬな!絶対死ぬんじゃねぇぞ、いいな、俺が絶対に助けてやる!」
「ショウ……」
「ルカ?おい、ルカ、しっかりしろ!」
「ショウ……」
かすれた声で、ルカはかすかに残る意識で必死にショウに何かを伝えようとしていた。思うように口が動かなければ、声も出ない。
ショウはルカの口元に自分の耳を押し当てた。ルカの言葉を聞き取るために。
「プラム……プラム・アプリコット……知らせ……て……」
「プラム・アプリコット?」
(誰だ?)
ショウは顔をしかめた。どこかで聞いたことのある名前だが、思い出せない。
(どこだ?どこで聞いたんだ、俺?)
焦る気持ちを抑えながら、ショウは普段使わない頭をフル回転させた。そして、ふいに自分の右腕が視界に入った時、はめているビーズのブレスレットを見てようやく思い出した。
「“おばば”か!」
この世界に来て右も左もわからなかったとき、ローゼンシュトルツについて教えてくれた老婆だ。そして別れる際に、ビーズであしらわれた手作りのブレスレットをくれた。
みんなは彼女のことを“おばば”という愛称で呼んでいたが、ルカは“プラム・アプリコット”という本名で呼んでいた。
「おばばを、おばばを呼べばいいんだな?」
と、ルカにもう一度確認したが、返答する体力はルカにはもう残っていないようだった。
「すぐおばばを呼んでやるから、絶対死ぬんじゃねぇぞ、いいな!」
そう言い残して、ショウは部屋を飛び出した。
ほどなくしておばばが城へ駆けつけ、ルカの傷の手当を行った。おばばをここへ連れてきたのは、ミルテとシレネだった。
おばばを呼ぶにしても、このグラミスキャッスルからおばばの家まで走っていくのでは時間がかかりすぎる。そこでミルテとシレネに馬車で迎えに行ってもらうことにしたのだ。
ルカの緊急事態を聞きつけた二人は、馬車を大急ぎで走らせ、おばばをグラミスキャッスルまで連れてきたのであった。
おばばは横たわったルカを見るなり、担架を持ってくるようミルテとシレネに指示した。二人が担架を用意している間に、おばばはできる限りの応急処置を施して、すばやくルカの身なりを整えた。ショウが脱がせるために無造作にはずしたブラウスのボタンは、上から下まできちんととめた。それから担架に乗せ、ルカの部屋へと運ばせたのだ。
ルカをベッドに横たわらせると、おばばはミルテとシレネを部屋の外で待機させた。ショウにも同じように部屋の外で待つよう指示しようとしたが、ルカがショウの名を呼んだので、傍にいるよう言葉をかけた。
おばばはルカの服を脱がせると、応急処置で施した包帯を解き、再び慎重に傷の具合を診た。そして、持ってきた薬草を煎じて傷口に塗っていく。ルカはすでに意識を失っており、傷口に触れても痛みで目を覚ますことはなかった。
「これで、しばらく安静にしておれば、傷も癒えるじゃろうて」
と、おばばは手ぬぐいで手を拭きながら言った。
「もう大丈夫なんだな?」
ショウが尋ねると、おばばはゆっくりとうなずいた。
それを見て、ショウはほっと胸をなでおろす。
「ったく、どうなることかと思ったぜ。心配かけやがって、ルカのやつ」
「おまえさんがいて本当に良かったよ、ショウ。もしおまえさんが傍にいなかったら、ルカ様は手遅れになっていたやもしれん」
「だよな。だいたいこいつ、やせ我慢しすぎなんだよ。すげぇひどい怪我だったのに、何ともないように振舞って……」
「仕方がないんじゃよ、ルカ様は……」
「仕方ないって、命にかかわるんだぞ?」
そこまで言って、ショウははっとした。
あのとき、なぜルカは自分の怪我を隠そうとしたのか、今ようやく飲み込めたからである。もしもあのとき、リリィがルカの怪我の重さに気づいていたら、すぐ手当てをしようと言い出しただろう。そして、服を脱がせ、傷口を診ようとしたかもしれない。ショウが止血しようとしたときのように。それは、ルカにとってどんなに恐ろしい行為だったか知れない。
「おばばは知ってたのか、ルカの正体を?」
ごく当たり前のようにルカの傷を診ていたおばばだったが、よくよく考えてみればあり得ないことである。ルカの正体を知らなければ、傷がどうのこうのと言ってはいられなくなっただろう。女しか暮らすことを許されない国で、しかもその国を支える四天王の一人であるルカが男だとわかれば、一大事になる。
「知っていたとも」
おばばは静かに答えた。
「アタシはルカ様が赤ん坊の頃から存じ上げていたからねぇ」
「ルカが赤ちゃんだった頃から?ルカって、この国で生まれたのか?」
「いいや」
と、おばばは首を振った。
「ルカ様は、リボルバーへルトでお生まれになったんじゃ」
「リボルバーヘルト?」
「そう、ローゼンシュトルツと川を隔てた隣に位置し、そして、昔はローゼンシュトルツと一つだった国じゃよ」
「それじゃ、その国は男ばっかの国なのか?」
「いいや。そうとは限らんよ。確かに『薔薇の革命』以後、多くのヴィーネたちはこのローゼンシュトルツに移り住んだが、ヴォルフから逃げ切れなかった者、家族や恋人とともに残った者もおったんじゃよ。ルカ様の母君もまた、リボルバーヘルトに残ったお一人じゃった。アタシは、当時ルカ様の母君にお仕えしていてねぇ、ルカ様をとりあげたのもこのアタシなんじゃよ」
「へぇ」
(そういえば、俺はルカのこと何も知らないんだな……)
ふと、ショウはそう思った。
なぜルカは、ヴォルフであるにもかかわらず、このローゼンシュトルツにいるのだろうか。この国で生まれたのではないならば、ヴォルフが暮らす隣国へ移り住んでもよかっただろうに。そうすれば、辛く苦しい思いをせずにすんだかもしれないのだ。
そう思うと、ショウはルカの人生に興味がわいてきた。
「なぁ、おばば、俺に教えてくれ、ルカのこと」
おばばはゆっくりとうなずいた。そして目を細め、懐かしい昔話を思い出すように、虚空を見上げた。おばばが何かを語るときの癖である。
「何から話そうかねぇ……」
ベッドに横たわるルカを前に、ショウとおばばは肩を並べて椅子に座っていた。時折窓から月光が差し込み、ルカを見守るかのように照らす。
おばばはルカを愛しそうに眺めると、ゆっくりと語り始めた。
「ルカ様の母君、ベル・クリザンテーメ様は、リボルバーヘルトの国王の右腕とも名高かった大臣の奥方様であられた。大臣とベル様との間に、玉のような男の子が生まれ、お二人は幸せな日々をお過ごしになられておった。しかし、それも長くは続かなかった。好色家であった国王の目にベル様がとまってしまったのじゃ。ベル様はたいそうお美しい方じゃった。ルカ様はベル様に本当に良く似ておられる。まるで生き写しじゃよ」
そう言って、おばばはしわでくぼんだ目を眠っているルカに向けた。
眠っているルカの姿は、女神のように美しかった。透き通るような白い肌、長いまつげ、艶やかな唇、その全てが美しさを際立たせている。外見からだけでは、男であるなどとうてい信じられない。
おばばは語りを続けた。
「ベル様は国王の魔の手から逃れるため、赤ん坊のルカ様を抱え、ローゼンシュトルツに身を寄せられた。そのとき、アタシも一緒にお供したんじゃよ。ローゼンシュトルツに来てすぐ入った一報は、旦那様の訃報じゃった。反逆者として処刑されたと。ベル様は愛する夫を失い、帰る場所すらも失ってしまわれた。そして、更なる悲劇がベル様を待ち受けていたのじゃ」
「更なる悲劇?」
「そう、ローゼンシュトルツの厳しき法じゃ」
そう言って、おばばは深く息をついた。当時のことを思い出して、胸が痛むのだろう。
「ローゼンシュトルツは、たとえ赤ん坊であっても男という性を許さなかった。兵士たちは無残にもベル様からまだ物も言えぬ子をとりあげてしまったのじゃ」
「でも助かったんだよな、ルカは?じゃないと、今ここにいないわけだし」
「そうじゃ。しかし、当時は助かるなどとは、アタシもベル様も思いもしなかった。ベル様は悲しみに打ちひしがれ、とうとうご病気になられてしまった。明日をも知れぬ身体となってしまわれたベル様に、一人の貴婦人が訪ねてこられた。それが、後にルカ様の育ての母となるローサ・クレアローズ様じゃった」
「育ての母?じゃあ、ルカの本当の母親は……」
ショウの問いに、おばばは静かに首を振った。
「ローサ様は、当時、女王陛下をお守りする四天王の一人で、今のルカ様と同じ立場におられた。ベル様を訪ねられたローサ様は、すやすやと眠る赤ん坊を腕に抱きかかえておられた。まぎれもなくルカ様じゃった。生きておられたと、アタシもベル様も涙を流して喜んだ。しかし、喜んでいられたのもつかの間、ローサ様はアタシたちにこうおっしゃられたのじゃ。
『この子は、女王陛下の情けにより、生かされた。しかし、これ以上の情けはもはやかけることはできない。この子を抱いて即刻ローゼンシュトルツを脱するか、ここでこの子の命を絶ち、ローゼンシュトルツで暮らし続けるか、今この場で決断せよ』と」
「そんな、むちゃくちゃな……」
「そう。ベル様にとってそれは無理難題の何ものでもなかった。ご病気のベル様に、ルカ様を抱いてローゼンシュトルツを出るなど不可能。たとえアタシが抱いてこの国を出たとしても、もはやリボルバーヘルトに居場所などない。ならば、ルカ様の命をここで絶つか。そんなこと、できるわけがなかろうて。アタシは、ローサ様に必死で頭を下げた。どうか、どうかもうしばらくの猶予をください、と」
「ローサは何て答えたんだ?」
「『もう一つ選択肢がある』と、アタシにおっしゃった」
「もう一つの選択肢?」
「うむ。ローサ様は決して非情な方ではない。それは瞳を見ればわかるもんじゃ。腰まで垂れた美しい漆黒の髪同様、漆黒の瞳を持ち、その瞳の強く真っ直ぐな輝きが常に絶えることはなかった。そうじゃ、ショウ、おまえさんの瞳に良く似ている。もしかしたら、アタシもルカ様もローサ様の面影をおまえさんに見たのかもしれないねぇ」
おばばはしわだらけの顔をさらにしわくちゃにして笑った。
ショウは意味がよくわからなかったが、照れくさそうに笑い返した。
「で、もう一つの選択肢って?」
と、ショウが続きをせかした。
おばばはゆっくりとうなずいて続けた。
「ローサ様が、ルカ様を女として育てることじゃよ」
「それでルカはこの城で暮らしてるのか。でも女として育てるなんて、よく言えたな」
「ローサ様にはローサ様のお考えがあったのじゃ」
「考え?」
「ローサ様は、ローゼンシュトルツの滅びを予言された。この国に繁栄などあり得ないと」
「どういうことだ?」
「ローサ様はアタシにおっしゃった。
『女にとって、確かにこの国は自由であり平等であろう。この国から出ることも入ることも自由。外で子を成して帰ってくる者、ひと時の自由を楽しみ旅立っていく者、女たちにとってここはまさに砂漠のオアシス。しかし、その影で、心に深い傷を負い何もかも閉ざしてしまった者たちがいる。ヴォルフを憎み傷つけることで自分の心を癒し、愛することを忘れてしまった者たちが。その数は、年々増え続け、いずれこの国から出ようとする者はいなくなるだろう。その時、オアシスは枯れる……』」
「オアシスが……枯れて……砂漠になる……?」
「そう、悲しみだけが残る何もない砂漠へと……」
おばばはそう言うと、ルカの手をそっと握った。
「ローサ様は、ローゼンシュトルツの栄華は仮初めであることを見抜いておられた。そして、この国に真の平和と自由と平等をもたらすのは、ルカ様であるとおっしゃられたのじゃ」
「ルカが?」
ショウは眠るルカを見つめた。
「ルカはこの国の運命を背負ってるっていうのか……?」
「そう。男と女、互いに切っても切れぬ宿命の中で、相手を憎むのではなく、相手の痛みを理解し、相手を愛することのできる人間をローサ様は育てたいとおっしゃったのじゃ。そして、ルカ様ならそのような人間になれるとおっしゃられた。しかし、それは想像以上の茨の道をルカ様に歩ませることになる……。アタシはローサ様にお願いした。せめて、ベル様の命があるうちは、ルカ様をベル様のおそばに、と。ローサ様は、ただ『わかった』と一言おっしゃられて、そのときはひきあげてくださった」
「それで、結局ルカはローサに引き取られたんだな」
「うむ。ルカ様が一歳になるのを見届けずして、ベル様はこの世を去られた。それからルカ様はローサ様に引き取られ、このように立派に成長なされた」
「けど、ルカはそれに納得してんのか?だって、自分の知らないところで、勝手に女として育てられて、ローゼンシュトルツの未来を背負わされるなんて……」
「さぞお辛かったじゃろうて。それはもうアタシたちにははかり知れないくらいに。それでもルカ様がここにいらっしゃるのは、自分の運命を受け入れたからじゃろうとアタシは信じておる。だからショウ、おまえさんはルカ様の傍にいてさしあげておくれ」
おばばの声は、今にもかれそうだった。そしてしわだらけの手で、ショウの手を硬く握る。その手は少し震えていた。
「ルカ様の心情を心からわかってさしあげられるのは、ショウ、おまえさんだけなのじゃ。アタシもミルテもシレネも、結局は何もわかってさしあげられないのじゃよ。だから……」
「おばば……」
おばばのくぼんだ目から一筋の涙が流れ落ちた。
ショウはそれを見て、少しうつむいた。直視ことができない。
「俺、ルカのために何ができる?」
ショウは不安だった。何不自由なく育った自分に、与えられた性の上を当たり前のように歩いてきた自分に何ができるのだろうと。
「友として、ルカ様のお傍に……」
と、おばばは静かに、そして優しく言った。
「それだけで、ルカ様は救われるじゃろう」
「うん、傍にいるよ。ルカは俺の親友だから」
ショウはそっとルカの手を握った。ルカの手は、温かくて大きかった。そして、力強くてたくましかったのである。