ヴォルフであること①
第一章を読んでくださり、ありがとうございます。
第二章も二回に分けてアップしたいと思います。長いので…。
なるべく読み返してアップしていますが、誤字脱字などありましたらご指摘ください。
第二章:ヴォルフであること
1
またこの日がやってきた。
ルカ・クレアローズは、愁いを帯びた顔で窓の外を眺めた。
(また一人、傷つき命を落とす者が現れる……)
皮肉にも青空が広がっていた。しかし、その美しい青など目に入っては来ない。今瞳に映るのは、あの残虐な行為。
ルカは思わず目を閉じた。
通例のごとく繰り返されるあの惨劇を思い浮かべたくなどなかった。
(私には、どうすることもできない……)
ルカはカーテンを閉めた。陽の光が遮断され、部屋は瞬く間に薄暗くなった。
そして、ルカは部屋を後にした。
ルカは、ある一室の扉を開けた。
扉の奥には、会議用の広い長テーブルがあり、上座に一席、そこから左右に二席ずつ椅子が置かれている。
全ての椅子に、きめ細かな花柄の装飾が施されており、高貴な者が座るであろうことが一目でわかる。
中央から見て右側には、サクラをモチーフにした椅子とユリをモチーフにした椅子の二席。左側には、アヤメとカーネーションをそれぞれにモチーフにした椅子があった。そして、中央の女王が鎮座する席には、見るも美しい薔薇をモチーフに全てが飾り付けられていた。
こうした絢爛豪華な椅子に、すでに三人の女性が座っていた。
「これで四天王が全てそろいましたね」
そう言ったのは、小柄でメガネをかけた女だった。名をリリィ・オールゴールドといい、ユリの装飾の椅子に座っていた。美しいというより愛嬌のある顔立ちの彼女は、他の三人の女たちよりずいぶん幼く見えた。ライトグリーンのボブヘアと小柄な身体をすっぽりと覆う丈の長い制服が、余計に幼さを際立たせているのかもしれない。
「女王陛下は?」
と、ルカは部屋を見回した。もうすでに待機しているはずの女王の姿が見当たらない。
「陛下は、着替えをなさっている最中ですわ」
そう答えたのは、アイリス・ウェンロックだ。アヤメ柄の椅子に、凛として座っている。
「今日は“薔薇の決闘”が行われる日。陛下には、民の士気を高めるにふさわしいお召し物を着ていただかなければなりませんわ。それですのに、こちらに御出でになったときの御姿がまるで舞踏会に行くようなものでしたから、少し助言させていただきましたの」
「しかし、もう時間が……」
「待たせときゃいいんじゃない?」
と、ネルケ・ブレスウィドォーが口を挟んだ。カーネーションの装飾がなされた椅子に腰かけて、長く整えられた手の爪にやすりをかけている。
色濃く凛々しい眉と艶やかで分厚い唇が印象的な彼女は、ワインレッドの髪を高い位置で一つに束ね、肩や腹部を露出させた軍用服を身に纏っていた。
「女王の到着が遅いなんて、誰も文句言わないでしょ。逆に焦らしたほうが、ありがたみが増すんじゃない?」
「ネルケ、あなたは民を愚弄する気ですか?」
「おお、恐い。温厚なアンタも、民衆と陛下のこととなると感情的になるのねぇ」
と、ネルケはからかうように笑った。
「仕方ありませんわ、ネルケ。民に愛され、陛下の寵を受けることがルカ・クレアローズの務めなんですもの。ねぇ、ルカ?」
アイリスの言葉には、いつも皮肉と嫌みが交っている。
「私はただ、陛下や民のことを想って行動しているにすぎません」
「あら、そう。では陛下のために、あなたが直々にお迎えに行って差し上げればよろしいのでは?きっと陛下もお喜びになりますわ」
「ええ、そうします」
ルカはそれだけ言うと、その部屋を出た。
後からリリィが追いかける。
「ルカさん」
「どうしました?リリィ」
「あまり気にしないほうが良いですよ。アイリスさんとネルケさんは、あなたが陛下の寵を受けていることにひがんでいるんです」
「気になどしていませんよ」
と、ルカは笑顔で答えた。
「それならいいんですけど。今日はなんだか過敏になっていらっしゃるような気がして……」
「あなたに気を使わせてしまったようですね」
「いいえ、そんな。“薔薇の決闘”がある日は、私もどこか落ち着かなくなります。ルカさんは“薔薇の決闘”をどうお考えですか?」
リリィの問いかけに、ルカは別段答えようとはしなかった。
リリィは続ける。
「私は“薔薇の決闘”には反対です。見ていて気持ちのいいものではないですし、単に民の不満をそらしているだけのような気がしてなりません。これで本当にこの国がよくなるのか……」
「それは私も懸念するところです」
「だけど、抗議しようにも相手が悪いですよ。“薔薇の決闘”の一切を取り仕切っているのは、アイリスさんです。あの人を敵に回すのはよくありません。政治の実権を握っているのも、実質アイリスさんですしね。今や女王陛下はただのお飾り……」
そこまで言って、しまったとリリィは口をつぐんだ。そしてルカの表情を伺うように見上げる。
ルカの表情に変わりはなかった。しかし、そういう時こそ怒っているようにも思えた。
「すみません、出過ぎたことを……」
「リリィ、私はローゼンシュトルツを愛しています。だからこそ、この国をこのままにしておけないのです。今こそ希望の光が必要な時でしょう。そうは思いませんか?」
「希望の光……」
と、リリィは小さく繰り返した。そして思い切ったように、口を開いた。
「私は、それがルカさんだと思っています。ルカさんなら、きっとこの国を良い方向へ導いていけます」
「ありがとう、リリィ。しかし、私では希望の光になることはできません」
「どうしてですか?ルカさんは民衆の支持も厚いですし、なにより女王陛下の信頼が厚い。民にとって、女王陛下はまだまだこの国の中核をなす象徴です。陛下の一言は、民に大きな影響を与えます。ルカさんが陛下のお側で政治の指揮をとることこそ、ローゼンシュトルツの未来発展に繋がると、私は思います」
しかし、ルカは静かに首を横に振った。
「では、いったい誰が希望の光になるというのですか?ルカさん以外に考えられません。アイリスさんは独裁色が強すぎますし、ネルケさんは政務について無頓着すぎます。私はまだ若輩者ですから、やはりルカさんが適任だと思います」
「四天王とは限りませんよ」
「どういうことですか?この国の未来を託すことのできる人物が、四天王以外にいるというのですか?」
「私の考える希望の光とは、真っ直ぐな瞳でこの国を見据え、純な心を持って過ちを諌められる者。残念ながら、私たちの中にはこれに相応しい人物はいません」
「そんなのは理想にすぎませんよ」
「ええ、そうでしょうね。ですが、私はその理想に賭けてみようと思っています」
そう言って、ルカは足を止めた。目の前には、巨大な薔薇が描かれた扉がそびえ立っている。この奥に女王がいるのだ。
「陛下、ルカ・クレアローズでございます」
「入れ」
扉の奥からそう声が聞こえた。
ルカは謹んでその扉を開けた。
2
「ルカ様はいったい何をお考えなの!」
馬車に繋がれた馬の毛並みを整えてやりながら、ミルテは不満を漏らした。
「あんな奴、無理にでもここから追い出せばいいのに、宮殿にかくまうなんて」
「ルカ様はお優しいから、放っておけないんだよ」
と、シレネが馬に餌をやりながらなだめるように言った。
二人は今、グラミスキャッスル付近に馬車を止め、ある人物が来るのを待っているところである。
そのある人物とはショウのことだ。ショウに街を案内することが、今回の任務である。この至れり尽くせりの待遇に、ミルテは全くといっていいほど納得がいかなかった。
「冗談じゃないわ!」
ミルテは声を荒げた。
「アタシはヴォルフを見ると吐き気がするのよ」
「いつもヴォルフを助けているのに?」
「それは、ルカ様がそうおっしゃるからよ!そうでなかったら、誰がヴォルフなんて助けるものですか」
「そんなに邪険にしなくても……」
シレネは、ミルテの憤慨ぶりに肩をすくめた。
正直、シレネはそれほどヴォルフを悪くは思っていなかったのである。確かに、過去の歴史の中で、彼らはヴィーネに対して残虐な行為をしたかもしれない。しかし、現在もそうなのだろうか。鎖国状態にある現状では、それを知るすべはほとんどない。学校で習ったことと、自分が実際に見聞きしたことで判断するしかないのだ。
シレネが今までに助けたヴォルフたちからは、それほど邪悪な印象を受けなかった。彼らは貧弱に見えた。もちろん、身体はヴィーネよりもがっしりと大きく、野生的であった。しかし、彼らから醜さや怖さはあまり感じなかったのだ。哀れだと思うことはあっても。
「ショウはなんだか違う気がしない?私たちが見てきたヴォルフとは」
と、シレネは言った。
「ショウを初めて見たとき、いつもとは違う、変な感じがしたの。ショウって、色白だし細くて小さいし、瞳は猫のように大きくて、私が知ってるヴォルフとは全然違う。ショウと話しているとね、自分と何が違うんだろうって思うの。ヴィーネと何が違うんだろうって。そりゃ、同じじゃないのは明らかだけど……。だけど、たいした違いはないような気がするの」
「シレネはもともと感覚変わってるからね」
ミルテは冷たい口調で言った。
「でも一つだけ忠告しておいてあげる。あいつは野蛮なヴォルフなんだから、隙を見せたら何をされるかわからないわよ」
「う、うん、わかってる。隙なんて見せないよ」
シレネは深く頷いた。ミルテの主張に押されたこともあるが、それよりもこれ以上の口論は避けたかったからだ。ミルテがヴォルフを嫌うのは仕方がない。むしろこの国ではそれが普通なのだ。
(私って、やっぱり変わってるのかな……)
シレネはそう思ってから頭を横に振った。
(もうやめよう、こんなこと考えるの)
ちょうどそこへショウがやってきた。時間に遅れていたせいで、小走りで近づいてくる。
「悪りぃ、悪りぃ、待たせたな」
ショウは、裾に細かい花の刺繍が施された薄い黄色のワンピースを着ていた。この国では一般的に着られている服で、軽くて通気性もよく歩き回るには便がいい。
「ショウ、似合ってるね、その服」
と、シレネが笑って声をかけた。
「そうか?あんまり嬉しくねぇな」
「どうして?」
「どうしてって、スカートはいて喜ぶ男がどこにいるんだよ」
「ヴォルフはスカートをはかないの?」
「はかないだろ、普通」
「へぇ」
と、シレネは感心して、同意を求めるようにミルテを見た。しかし、ミルテは無関心とばかりにそっぽを向くと、御者の席に乗り込んだ。
「とっとと行くわよ」
と、馬にひと鳴きさせる。
ショウとシレネは馬車に乗り込んだ。
三人がやってきたのは、ローゼンシュトルツ一の食材が所狭しと並ぶ市場。野菜、果物、肉、魚。ここに来れば一通りのものは全てそろうだろう。
大通りに無数のテントが軒を連ね、あちらこちらで呼び込み合戦が繰り広げられている。こうした女たちの呼び込みは、ここのちょっとした名物だ。
「今日は、うちんとこの野菜が安いよ!」
「お嬢ちゃん、焼きたてのパンだよ、どうだい?」
「お、うまそう!」
「そうだろ?これはあたしが作ったんだよ。よかったら一つ食べるかい?」
ショウが目を輝かせて見ていたのは、パンだった。サンドイッチのように、中に野菜やら肉やらが溢れんばかりに詰まっている。焼き立ての香ばしい匂いが漂って、思わずよだれが垂れそうだ。
テントに並ぶ食べ物はどれもこれもおいしそうだ。思わずあれもこれもと買ってしまう。
ミルテが気づいたときには、ショウはパンを口にくわえて、右手にバナナの房と左手に櫛にささった分厚い肉を持ったなんとも滑稽な格好になっていた。
「あんた、何やってんの?」
「いや、ついつい」
と、ショウは、食べ物で口をもごもごさせながら笑って見せた。その後ろで、シレネもクスクスと笑う。
「何がおかしいのよ、シレネ」
「ごめん」
ミルテに睨まれて、シレネは肩をすぼめた。
ふん、と鼻息を荒くして、ミルテはまた歩き出した。
「あいつって、いつもあんなにカリカリしてるのか?」
と、ショウはシレネに耳打ちする。
「ううん、そうじゃないの。ミルテはヴォルフが嫌いなのよ。だから、ショウにもきつくあたってしまうの。あまり気にしないで」
「ふーん」
と、ショウは前を行くミルテの背中を眺めた。
(ヴォルフ嫌いねぇ……)
「そういうシレネは、俺のこと平気なのか?」
「え?」
唐突な質問に、シレネは少し戸惑いを見せる。
「へ、平気だよ。だって、ショウは私の知ってるヴォルフとは違うもの」
「シレネの知ってるヴォルフって?」
「えっと、血の気が多くて、目は据わっていて、身体がごつごつしてて、色が黒くて、毛むくじゃらで……それから油っぽくて、汗臭くて、暑苦しくて……」
思いつくイメージにあまりいいものはない。
「なんか、すげぇステレオタイプだな」
「そうかな?」
「そうだよ。だって、そんなやつばっかりじゃないぜ」
「うん。ショウは違うね」
「どうせ俺には筋肉がありませんよ」
と、ショウは口を尖らせた。
「今のままじゃダメなの?」
「ダメに決まってるだろ、これじゃ弱っちい女みたいじゃん」
そう言った直後に、ショウはばつの悪そうな顔をした。シレネの顔つきが変わったからである。
(やべっ。俺、マズイこと言った)
「あー、えーっと、別に女がみんな弱いっていうわけじゃなくて……」
と、必死で取り繕うとしたが、ほとんどフォローになっていない。ショウはずっと「あー」だの「うー」だの唸っていた。
そのときだ。
ドォン、ドォン
弁解に困って四苦八苦しているところへ、運よく大きな花火が二発、晴天の中で花開いた。
「なんだ?」
「今日は、闘技場で“薔薇の決闘”があるのよ」
と、シレネは思い出したように言った。
「へぇ、面白そうじゃん。行こうぜ」
「やめたほうが良いと思うよ」
「なんでだよ?」
「けっこう刺激的だし、ショウはあまり好きじゃないと思う」
「平気、平気。俺、けっこうK-1とかプロレスとか好きだし。な、行こうぜ」
ショウがあまりにも目を輝かせて言うので、シレネも連れて行かざるを得なくなった。
こうして、三人は闘技場へと向かうことに。
闘技場内は、入った瞬間から大勢の観客でにぎわっていた。それだけ多くの人が、この決闘を楽しみにしていたのだろう。
ショウは胸を躍らせた。これだけ多くの人間が待ち望む“薔薇の決闘”とはいったいどんなものなのかと。
人の波をかきわけて、ショウたち三人は一番良い席を陣取った。最前列の席で、戦いが繰り広げられる土俵が目と鼻の先にある。
この闘技場は円形を成していた。ちょうど向こう側とこちら側に重厚な門があり、そこから選手が登場することになっている。
ショウは落ち着きなく辺りを見回していた。このような巨大な闘技場を目の当たりにしたことも初めてだったが、何より観客の多さと熱気に圧倒された。後ろを振り向くと、奥の方まで人でびっしり埋め尽くされている。
ショウはそれを見上げるようにして眺めた。それから、視線をゆっくり横へとずらしていく。女、女、女。当たり前のことだが、改めて見ると奇妙な感じがした。闘技場に沸く女たちの姿は、ショウにとって見たこともない光景だったからだ。
「凄い人でしょう。ここは、ヴィーネの憩いの場でもあるの」
と、シレネは言った。
「ここで、人々は日々のストレスを発散させたりするの。しかも、この“薔薇の決闘”は、女王陛下もご覧になられるから、陛下のお姿を一目見ようとやって来る人もいるわ」
「女王陛下か、そういやまだお目にかかったことなかったな」
と、ショウは楽しみがもう一つ増えたとでもいうように、顎をなでた。
それを見て、ミルテが釘を刺す。
「陛下の前でくれぐれも変な真似しないでよね」
「どういう意味だよ」
「出しゃばるなってこと」
「出しゃばったことなんて、今までにないだろ」
「これだから、自覚のない奴は……」
「なんだよ、俺が何したって言うんだよ」
「しっ。静かに、始まるよ」
シレネが二人を制するのと同時に、ドラムロールが闘技場に鳴り響いた。
ドゥルルルルルルッ
そして軽快で豪快な音楽が流れ、闘技場は歓声のるつぼと化した。
3
全ての観客を見渡して、女王ロゼ二世は悠然と腰をおろした。まだ少女という年齢にしては、実に落ち着きがあり気品に満ち溢れている。
ティアラを身につけ、戦場の女神のような衣装を纏った彼女に、民衆は大きく沸いた。
もちろん、これはアイリスが考えた演出によるものである。
ルカは、末端の席に着いた。その隣にリリィが座り、中央の女王はさんで、アイリス、ネルケという順に座った。いついかなる場合にも、すぐに女王の身を保護できるよう、配慮しての席順である。
そして、女王の鎮座するその席は、闘技場の全体がよく見渡せるようになっていた。左右に見える選手入場用の門の鉄格子はもちろん、観客席全体も確認することができる。
女王は観客たちを見渡し、そして颯爽と立ち上がった。それと同時に、この闘技場全体を覆っていた歓声がぴたりとやんだ。全ての民衆が女王に注目した瞬間であった。
「みなさん、誇りある“薔薇の決闘”に足を運んでいただいこと、誠に感謝しております。我々ヴィーネの大いなる力は、何者にも劣ることはありません。美しくも華麗に舞うヴィーネたちの素晴らしき武闘を存分に楽しんでいってください」
そして、女王は声高々に宣言する。
「ローゼンシュトルツの名において、ここに“薔薇の決闘”の開会を宣言する」
女王の言葉に続いて、再び歓声が沸き起こった。
そして、いよいよ硬く閉じられていた門が開く。
ゴゴゴゴッ
轟々たる音とともに門は開き、選手が入場する。右からは鎧を身に纏った女剣士が、左からは足に鉄球をつながれて金棒を携えた男が登場した。
男はぼろ衣を身を包み、防御するための鎧ひとつすら身につけていない。その様相は、明らかに囚人を思わせた。
女剣士は、男と対峙するなり斬りかかった。男はかろうじてかわしたが、鉄球の重みで思うように体を動かせずにいた。構わず女剣士は攻撃を繰り返す。
女剣士が剣を振りかざすたびに、観客席からは歓声が起こった。男の身体に傷が入ると、さらに拍手が巻き起こった。
男の身体は徐々に血に染まっていった。それでも闘うことを放棄することはできない。女剣士がいたぶるように彼の身体に傷を負わせていたからだ。闘いを放棄しても、楽には死ねないということだ。それならば、一太刀でも女剣士に浴びせるか。それもうまくはいかなかった。両足に取り付けられた鉄球は、反撃しようとする彼をことごとく邪魔したのである。
男が弱れば弱るほど、歓声は大きくなった。
もがきながらも反撃しようとすると野次が飛び、女剣士に斬りつけられると拍手喝采が起きた。
観客の誰もがわかりきった試合の行く末に夢中になっていた。
「やめろ――っ!!」
観客の一人が突如として叫んだ。
その瞬間、周りが騒然となる。
声の主は、観客席から土俵へと飛び降りると、一目散に駆けていく。対峙する男と女剣士の方へ。
それにいち早く気づいたルカだった。飛び出した者の姿を見て、思わず立ち上がった。
(ショウ!)
この闘技場の土俵に武骨にも水を差したのは、ショウだったのだ。
ショウは男から金棒を取り上げると、何を思ったか女剣士に向けた。棒を両手で握り、切っ先を女剣士の額へ向ける。その姿勢は剣道を思わせた。
「もうやめろ!勝負はついてるだろ!つーか、こんなの勝負じゃねぇよ!」
ショウの声が闘技場にこだました。
女剣士も観客も、この闘技場にいる誰もが驚愕のあまり声も出せずにいた。
彼女たちにとって、ショウのとった行動は理解の範疇を超えていたのである。ヴォルフをかばい、女剣士に自ら立ち向かうなど信じられない行いなのだ。
ショウはさらに叫んだ。
「おまえら、自分たちが何やってんのかわかってんのか!なんで、平気で笑っていられるんだ!人が殺されようとしてるんだぞ!」
「おまえこそ、自分が何をやっているのかわかっているのか!」
女剣士が言い返した。
「貴様がやっているのは、ヴォルフをかばう行為。おまえも一緒に死にたいのか!」
「ヴォルフ、ヴォルフって、うるせぇよ!ヴォルフだからなんだって言うんだ!ヴォルフだからって、殺されていい理由はどこにもねぇだろ!」
ショウの言葉は、闘技場全域に響き渡った。
しかし、彼の言葉が観客たちに届いたわけではなかった。ただ音として響き、そして自分に還ってきただけである。
「なんですの、あの小娘は?」
女王とともに中央の席で黙って見ていたアイリスが、怪訝そうに口を開いた。
「あのヴォルフをかばってるみたいねぇ」
と、ネルケが言った。その表情は、どこか面白がっているようにも見える。
「試合に支障をきたしますわね。すぐに排除いたしましょう」
「だったら、ついでにあの剣士に捕らえさせればいいんじゃない?」
「そうですわね。陛下、それでよろしいでしょうか?」
と、アイリスは女王に伺う。
「待ってください、アイリス!」
女王の言葉を待たずに、ルカが叫んだ。
「陛下、この試合を中止させましょう」
ショウの行動には戸惑いを隠せなかったが、これを機にこの無意味な催しを止められるかもしれない。ルカの脳裏にそんな考えがよぎった。
「何をおっしゃいますの、ルカ・クレアローズ。試合を中止すれば、それこそ民衆の不満を買いますわよ」
と、アイリスは眉をひそめた。
「民衆はこの聖なる“薔薇の決闘”で、ヴォルフが血祭りにあげられることを楽しみにしているのですわよ。それを中止するなどと……。現段階で取るべき措置は、あの小娘を退去させ、つつがなく試合を続行させることではございませんこと?」
「しかし、彼女はまだ幼い子供です。手荒なまねは……!」
「子供だからこそ、ヴォルフをかばえばどうなるか、きっちり教育して差し上げるべきでしょう。リリィ、ヴォルフをかばった者はどのようになるのでしたかしら」
「“ヴォルフをかばいし者は、いかなる場合であっても、この国に住まう権利を剥奪される”です」
と、リリィはうつむきがちに答えた。彼女はローゼンシュトルツの法律を管理している。少女を救いたい気持ちはあるが、法律上はどうすることもできない。
アイリスは、そのことを十分把握したうえでわざとリリィに答えさせたのだ。
「おわかりかしら、ルカ・クレアローズ」
「確かに、ヴォルフをかばうことは重罪です。しかし、彼女は“ヴォルフ”ではなく一人の命を守ろうと……」
「いい加減になさい、ルカ・クレアローズ。あなた、ご自分の立場をわかっていらっしゃるのかしら。今の発言、四天王にはあるまじきものではございませんこと?」
「私はただ……!」
「くどいですわよ、ルカ・クレアローズ!」
「……ならば、せめて陛下の口からご指示を」
ショウに危害を加えさせるわけにはいかない。
ルカは必死の思いで女王を見つめた。
ショウがとった行動は、ルカには痛いほど良くわかっていた。ここに座っていなければ、自分もきっと同じように飛び出して行っただろう。
彼はただ、不条理な血をこれ以上流させたくなかっただけだ。その想いが、素直に行動となって現れただけなのだ。だからこそ、皆に彼の想いを聞いて欲しかった。一人でもいい、この争いの無意味さに気づいてくれれば。
「陛下」
ルカはもう一度、女王を促した。
四人は固唾を呑んで待っていた。この小さな女王から発せられる言葉を。
女王は、女剣士に立ち向かうショウの姿をじっと見据えていた。
彼女が何を考え、どんな言葉を発するのか、ルカには予想がつかなかった。それでも、女王を信じてその言葉に従うと決めていた。それが忠誠を誓うということなら……。
女王は目を閉じて、しばらく沈黙を続けていた。耳を澄まし、民衆が何を望み、何を欲しているか聞き入れるかのように。
静まり返っていたはずの観客の声が次第に一つになって、女王の耳に届く。
彼女は立ち上がった。
すると、観客は示し合わせたかのように声を発するのをやめた。静寂に包まれた闘技場で、女王の声が響く。
「皆の者、よくお聞きなさい。ここに見えるのは、愚かな道化です。ヴォルフをかばい、神聖な“薔薇の決闘”を汚すなどもってのほか。即刻退去を命じます!」
女王の威厳ある言葉に、観客はいっせいに沸きあがった。ずっとこの言葉を待っていたといわんばかりに。
女王はその歓声を聞き届けると、静かに頷いて腰をおろした。
「すばらしいお言葉ですわ、陛下」
と、腰をおろす女王に、アイリスが勝ち誇ったかのような笑顔で声をかけた。
しかし、女王はアイリスの顔を見なかった。誰の顔も見ようとはしなかった。
「陛下……」
ルカは、女王に進言しようかと思ったが、言葉にならなかった。
握った拳に力を込めて、ルカは女王に背を向けた。
「どこへ?」
と、ルカに声をかけたのはアイリスだった。
ルカは振り向かなかった。
勝ち誇ったアイリスの顔が目に浮かぶ。
「ヴォルフをかばえば、あなたとて同罪ですわよ?」
「私は……」
ルカは、唇をかんだ。
「ヴォルフのもとへ行くのではありません」
そう言って、ルカは足早にこの場を離れた。
その足音は、すぐに観客たちの歓声でかき消されてしまった。