過去との決別⑤
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グラミスキャッスルの地下には、監獄が広がっている。
カビ臭い煉瓦造りの細い階段を下りていくと、牢屋が密集した地下にたどり着く。牢屋は、細い通路をはさんで左右均等に並んでおり、その数はざっと見ても二十以上はあるだろう。牢屋と牢屋の間には、明かりのともった松明が整然と壁に掛けられていた。
ショウとシレネは、看守の目を盗んで、こっそりと地下に潜り込んだ。看守は、ほとんどの時間を階段の入り口に一人で過ごす。朝昼晩と深夜の交代時間の一瞬だけ持ち場を離れるのである。
鎧を身にまとい、兵士の格好をしている看守は、近づいてくればすぐにわかった。動きにくそうな金属がこすれ合う音が、辺りに響くからだ。
看守が地下に降りてこないことを確認して、ショウたちは牢屋の並んだ通路を進んだ。
久しぶりにこの場所に足を踏み入れたが、やはり心地いいものではない。牢屋に収容されている生気のない男たちをみると、胸が悪くなるのだった。
通路の奥まで進むと、一際大きな牢屋が見えてきた。広さでいえば、通常の牢屋二つ分の広さだろうか。カビなのかコケなのか、緑がかった石壁や石畳の床に反して、中には簡素なベッドと毛布、そして簡易の机と椅子があった。そんなもの、他の牢屋には置かれていない。この牢屋だからこそ置かれたものなのだ。それは、ここに収容されている人物への最大の配慮なのだろう。
「ルカ!」
自分の名を呼ばれて、ルカは読んでいた本から目を離した。ルカは、獄中で椅子に座って本を読んでいたのだ。目の前の机には、これから読むだろう数冊の本が積んであった。
ホッとしたような呆れたような顔で、ショウは言った。
「おまえさ、よくのんきに本なんか読んでいられるよな。捕まってるんだぞ?」
「そうですね。でも、本を読んでいると、心が休まるのです。ここにあるもの全て、リリィが用意してくれたんですよ」
と、ルカは柔和な笑みを浮かべた。しかし、その笑みはどこか力なかった。
ショウは、リリィの差し入れた本や机に目をやった。これがリリィにできる精一杯のことなのだろう。わかってはいるが、ここまでするならどうしてルカを檻から出してやらないのか。
「ショウ、リリィを責めないであげてください」
ショウの気持ちを察したのか、ルカはなだめるように言った。
「リリィもまたこの国を想って行動しているのですから」
「わかってる」
そう言いつつも、ショウは頷くことができなかった。
ローゼンシュトルツ、やはりこの国は理解できないし、納得できない。いろんなことを目にして、さまざまな悲しみや憎しみにふれたけれど、それでもこの国の体質は納得できない。
今、目の前の鉄柵に捕らわれているのは、己よりも他人の心配ばかりする暴掠とは無縁の男なのだから……。
「ショウ、陛下のご様子はどうですか?」
ほら、また他人の心配をする……と、ショウは、少し呆れつつも笑えてきた。
「おまえ、自分の立場わかってるのか?もっと自分の心配しろよ。処刑されるかもしれないんだぞ」
「ええ。でも……」
と、ルカは伏し目がちになる。
その憂いに帯びた顔があまりにも綺麗で、思わず見とれてしまいそうになって、ショウは慌ててかぶりを振った。
「女王は、ずっと泣いてたよ。てか、たぶん泣くしかできないんだろうな」
「そうですか……」
「大丈夫だって。今、あいつにはリリィがついてるから。あとスミレさんも」
「そうですね……」
そう静かに頷いたものの、ルカの暗鬱な表情が晴れることはなかった。
「ショウ」
ふいに、シレネがショウの服の袖を引っ張った。
ショウは、思い出したようにシレネと目を合わせて頷く。
「ルカ、話は後でゆっくりしようぜ。今は、ここから出ることが先決だ」
「え?」
予想もしなかったショウの言葉に、ルカは心底驚いた様子だった。
「ここから出る?」
「そ。そのためにシレネと来たんだ。リリィや女王は宛になりそうにないしな」
「シレネ……」
ルカは、シレネを見つめた。シレネは、笑顔で頷く。
「私は、今でもルカ様のことを心から信頼しています」
「あなたを騙していたのに……?」
「騙されたなんて、思っていません。まぁ、すごくびっくりしたけど……。でも、ヴォルフかヴィーネかなんて、今の私には関係ありません。私は、一人の人間として、ルカ様が大好きなんです」
「シレネ、ありがとう」
と、ルカは微笑んだ。その笑みは、本当に嬉しそうだった。
「でも……、私はここに残ります」
次に出たルカの言葉に、シレネとショウは顔を見合わせた。
「私がここから消えれば、疑いは真っ先にあなたたちに向けられるでしょう」
「そんなこと……!」
「それに、私はここにいるべきなのです。許されない、大きな罪を犯したのですから」
「何言ってるんだよ!おまえは別に悪いことなんてしてないだろ!男だったって、だけじゃねぇか!」
激高するショウに、ルカは静かに首を振った。
「私は、ミルテという一人の少女を深い悲しみにつき落としたのです。私のことを心から慕ってくれていたあの娘を、無惨にも裏切ったのです。この罪は、何よりも重い……」
そう言うと、ルカはゆっくりと柵の前に近づいた。そして、手が少し伸ばせるほどの隙間から、ルカは一通の手紙を差し出した。黄みがかった一枚の紙が、一巻きにされたものだった。
シレネは、差し出されるままに、それを受け取った。無言のまま目で問いかける。
「ミルテに渡してください」
ルカは静かに言った。
「それから、ミルテに『ありがとう』と伝えてください。私にとって、良き部下であり、妹のような存在であったと」
「ルカ様……」
シレネは手紙を胸に抱くと、目を潤ませた。
ルカのか細く綺麗な手が、シレネの頬に伸びる。
「シレネ、ミルテのそばにいてあげてください。きっとミルテは、折れそうな心を受け止めてくれる友を必要としているはずです。私のことはいいから、ミルテのそばに……」
「……」
シレネは、ゆっくりと頷いた。うつむいた顔からは、涙がこぼれ落ちる。
「ずるいよ……」
そう漏らしたのは、ショウだった。牢屋の前で立ち尽くして、歯を噛みしめている。
「そんなこと言われたら、おまえのこと助けられなくなるじゃんか」
「ショウ、これでいいのです」
「よかねぇよ!どんだけ背負えば気が済むんだよ!もっと自分の感情さらけ出せよ!おまえはもう一人じゃねぇんだぞ!」
ショウの声は、地下に響きわたった。音の振動は、階段を伝って上に行き、看守の耳にまで届いた。
「誰かいるのか!」
看守の声が、上から返ってきた。それからすぐに、鎧のすれる金属音が聞こえてきた。それは、だんだんと近づいてきている。
「ショウ、まずいよ!早く逃げなきゃ!」
慌てふためくシレネをよそに、ショウはその場から動かなかった。
「ショウ!」
ショウは、沈黙したままルカを見つめていた。まだ話は終わっていないとばかりに。
ルカもまた、ショウを見つめていた。今出かかっている言葉を発するべきかどうか、迷うように。
看守の階段を下りてくる足音が、次第に大きくなっていく。
「ルカ、俺はおまえのこと親友だと思ってるよ。だから、俺にはおまえの本当の気持ちを言ってくれよ」
「ショウ……」
看守の影が、通路に伸びてきた。
シレネは、とっさに松明の火を消した。地下はあっと言う間に暗闇に包まれて、いっさい何も見えなくなった。
看守の驚く声が聞こえた。火をくべに行った足音も。
その音に紛れて、ルカは小さく言った。
「そばに……いてほしい」
「わかった」
と、ショウは闇の中で頷いた。
ほどなくして、明かりがともった。看守が松明に灯をともしたのだ。
そして、「あっ」と短い驚嘆の声とともに、看守はやかましく鎧の音を立てて走ってきた。シレネは、天井に張り付いて、それをやり過ごした。
看守は、ショウを羽交い締めにして捕らえた。
それでもショウは手を離さなかった。しっかりと、ルカの手を掴んで離さなかった。ルカもまた離さなかった。看守がどんなに引き離そうと力を加えても、決して離さなかった。硬く握り合った手を決して……。
長らくお待たせしました。毎回時間がかかって申し訳ありません。