心の蕾⑥
お待たせしました。更新の期間があいてしまって、申し訳ありません。仕事の関係上、またあくかもしれませんが、できるだけ期間をあけないよう頑張ります。
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「本当に行ってしまうのね……」
暗がりの中で、シレネは悲しげにうつむいた。
持っていたロウソクの明かりが小さく揺れる。いつの間にか、シレネは鼻をすすっていた。
なぜ、涙が出るのかわからない。なぜ、その人と別れることがこんなにも辛いのか。目の前にいるのは、憎むべきはずのヴォルフなのに。
ここは、狭い通路だった。おばばの家の床下には、隠し通路がある。捕らわれたヴォルフをローゼンシュトルツから秘密裏に脱出させる際、この隠し通路を使用するのだ。
人が一人通れるほどの幅で、木を組んで造られたトンネルのようなものだった。もちろん、明かりなどない。案内人であるシレネがもつロウソクが、唯一の明かりだ。
「泣くな、シレネ」
そう言って、シレネの涙をぬぐってやる手は、逞しい男の手だった。
「クロス……」
シレネは、そっとその手に自分の手を重ねた。
自分でも不思議なほど、自然な行為だった。今までなら、ヴォルフに触れられるだけで身体が強張ってしまっただろう。だが、今は違う。むしろ、自分から触れたいと思う。その人の温もりに、少しでも触れていたいと思うのだ。
「どうしても行ってしまうの?」
「ああ。俺の居場所が知られてしまった以上、ここにいればおまえにも迷惑をかけてしまう。それに、俺にはまだやらなければならないことがあるからな」
クロスの言葉に、シレネは心配そうな目を向けた。それを察したのか、クロスは笑って見せた。
「心配するな。もう女王を襲ったりはしないさ。俺がやらなければならないのは、リボルバーヘルトの改革だ。もう二度と悲しみが生まれないように、家族が散り散りにならないように、俺にできる最善を尽くす」
「だったら、私も連れて行って」
「それはダメだ」
「どうして?」
「リボルバーヘルトは、女にとって決していい国とは言えない。おまえを危険な目には遭わせたくないんだ、わかってくれ」
「でも、私……」
シレネは、燭台を持つ手に力を込めた。
今すぐこれを投げ捨てて、彼の胸にとびつきたい。そして、最後となるかもしれない彼の温もりを肌に刻み込みたいと思った。しかし、それができないのは、溢れ出るこの感情が何なのか理解できずにいたからだ。
ヴォルフに抱きつきたいと思うなど、頭がどうかしているとしか思えない。何かの病気だろうか。自分はどこかおかしくなったのだろうか。
シレネは、クロスを見つめた。答えを求めるかのように。
「俺は、必ずあの国を変えて見せる。そして、男と女が共に手を取り合える国になったら、一緒に暮らそう」
クロスの一言が、シレネに燭台を投げ捨てさせた。
燭台は、カランカランと音を立てて床に転がり、ロウソクの火が消えた。
何も見えない暗い空間で、二人は固く抱き合った。目で見えなくとも肌の温もりで感じ合うことはできる。自然と二人の唇は重なり合っていた。
唇が離れると、クロスの身体も離れていく。
別れの時が来たのだ。
「クロス……」
「必ず迎えに来る。信じて待っていてくれ」
シレネは、ゆっくりと頷いた。
「信じてる。あなたのこと」
クロスの唇が、再びシレネの唇に触れた。短い驚きの後で、駆けていく足音が聞こえた。それはだんだん遠くなり、次第に消えた。
シレネは、自分の唇にそっと触れてみた。まだ最後のキスの感触が残っている。
彼の顔、彼の声、彼の全てを思い出すたび、胸が熱くなる。そして、満たされた気持ちになるのだ。
この感情が何なのか、シレネはまだよくわからなかった。ただ、クロスという一人の“ヴォルフ”がくれた温かい感情であることは確かであった。
シレネは、通路の先を見つめた。
今はまだ光のない世界かもしれない。けれどもきっといつか、明かりがともる。その明かりをともすのは、人の心。
(ルカ様が私たちに伝えたかったことは、このことだったんだ……)
シレネは走り出した。元来た道を。一つの希望を持って。
(変わらなければいけないのは、リボルバーヘルトだけじゃない。この国だって、変わらなきゃ。ローゼンシュトルツだって……!)