誇りの薔薇を胸に①
第一章:誇りの薔薇を胸に
1
まさか寝坊するとは思っていなかった。
柊 ショウは、パンを口にくわえたまま、自転車にまたがった。
このまま休まずペダルをフル回転させれば、五分で駅に着くはずだ。途中で信号に引っかかってしまったら時間が狂う。そのときは、無視してしまおう。なりふりは構っていられない。
危惧していたとおり、信号は急いでいる人間ほど阻むつもりだ。
ショウは、点滅する歩行者マークに突っ込んだ。ブレーキは、このときの彼にとっては邪魔なものでしかない。
今にも発進しそうな車の前を疾風のごとく駆け抜けて、ショウは駅前に自転車を慌ただしく止めた。鍵もかけずに、急いで改札に入っていく。
今日は剣道の試合がある。中学1年生にしていきなりのレギャラー入りとあって、緊張して眠れない夜を過ごすのかと思いきや、案外熟睡してしまった。
(この試合に遅れたら、せっかくのレギュラーがパァだ!)
電車の発信する合図が、ホームに鳴り響いた。ショウは、二段飛ばし、いや三段飛ばしで階段を駆け上る。学生服を着ているにもかかわらず、柔軟な動きだ。そしてドアが閉まりかけるその瞬間に、身体ごとダイブした。
「駆け込み乗車はおやめください」のアナウンスが、背中に突き刺さる。
(駆け込まなきゃ、やってられねぇんだよ)
アナウンスににらみをきかせて、ショウは重たい鞄と竹刀の袋をドスンと床に置いた。ドア側の手すりを背もたれに、つかの間の休息を満喫する。
(このままいけば、ぎりぎり間に合うな)
腕時計で時間を確かめて、これからの作戦を練る。
とりあえず、駅についたらすぐに階段を下りて、まっすぐ走れば会場に着く。幸いこの車両は階段の正面につくはずだ。
それにしても、さっきから奇妙な視線を感じる。
なんとなく乗客の視線を感じて仕方がない。駆け込み乗車が、それほど注目を浴びたのだろうか。いや、それとは少し違う。
ショウははっとして、鞄を持ち上げた。そして一番近くの連結口から車両を移動する。視線はすぐに感じなくなった。
女性専用車両。
(ち。余計なものを作りやがって)
ショウはつり革を持って、ため息をついた。
階段から遠くなってしまった。
目的の駅に着くと、時間と再戦だ。電車を下りて階段まで走り、一目散に駆け下りる……はずだった。ところが、上る場合と違って下りる場合は、バランス感覚を保つのが案外難しい。重たい荷物を持っていては、バランスなんて簡単にとれるものではない。
ショウは、真っ逆さまに階段から転げ落ちた。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
2
ドボォォォォンッ
爆音と共に水柱があがった。何かがこの広大な大河に落ちてきたらしい。
落下したそれは幸い波に運ばれ、川のほとりに打ち上げられた。
打ち上げられたそれを、拾い上げた者がいた。若い女だった。
(死んでるのかしら。それとも……)
ずぶ濡れになったそれの胸に耳を当てようとして、女は躊躇した。
女の手はわなわなと震え、顔はだんだんと青ざめていく。この女は、明らかに恐怖を感じていた。
(な、なんてこと……!)
恐ろしさのあまり、女は転がるように逃げ去った。それを置き去りにして。
しばらくして、馬に乗った兵士たちが川辺にやってきた。先ほどの女が呼び寄せたらしかった。
兵士たちは何やら話して、倒れていたそれをどこかへ連れて行ってしまった。
ショウは、ゆっくりと目を開けた。
全身が痛いのは、階段から落ちたせいか。
ひやりと冷たい床。
誰も助けてはくれなかったようだ。
「はっくしゅん!」
大きなくしゃみをして、ショウは鼻をかこうとした。しかし、手が上がらない。すぐに奇妙な違和感を感じて、視線を手に向けた。
「なんだ、これ?」
自分の手を見て、ショウは驚愕した。手首を黒くて分厚い鉄が覆っていたのである。そこから太い鎖が伸びていて、先にはサッカーボールほどの黒い鉄球が一つ繋がっている。
一瞬、ショウの思考が停止したのも無理はない。
階段から転がり落ちただけで、こんな仕打ちはあり得ないだろう。
しかもよく見れば、自分はなぜかずぶ濡れである。階段の下に水溜りでもあったのか。
「なんなんだ?なんで、鎖につながれてるんだよ?ってか、よく見たら牢屋じゃねぇか」
ショウの目の前には、鉄格子が覆っていた。いかにも牢屋ですと言わんばかりに。
(俺、なんかしたっけ?警察……だよな?事故?階段から落ちて、誰か下敷きにして殺したとか?そんなコントみたいな話あるかよ)
自分なりにこの状況を飲み込もうとしても、思いつくことはどれも合点がいかないことばかりである。
「ちょっと、誰か!誰かいないんスか?」
自分で考えても埒があかない。ここの関係者に事情を説明してもらうほかないようである。
ショウは、できる限りの大声で叫んだ。
いくらか叫んで、ようやく一人やってきた。しかし、それはショウをさらに混乱させることとなったのである。
やってきた人物は、映画のスクリーンから飛び出してきたのではないかと思うほど、非日常的な格好をしていた。警官のような人物を思い描いていたのに、目の前に現れた人物の服装は、まるで中世の騎士のようだ。まさに映画や歴史の教科書などで目にしたことのあるような銀の鎧と兜を身につけた騎士だったのである。
なぜこんなやつが登場したのか、さっぱり理解できない。ショウは、当初の目的も忘れて見入ってしまっていた。
「何の用だ?」
騎士は言った。高い声だった。女のようだ。
「あ、いや、俺、なんでこんな状態になってんの?階段から落ちたとこまでは覚えてて、そこから記憶がないっていうか、階段落ちたくらいで捕まってる意味がわかんねぇ」
「階段?頭でも打っておかしくなったか?おまえは、川辺に打ち上げられたところを我らによって捕らえられたのだ」
「川辺?川辺って、あれだよな、川のそば……」
「馬鹿か。当たり前だ。おまえは、川で溺れていたんだ」
「川で……?」
(だから服が濡れてるのか。って、何納得してるんだ!今まで俺は駅にいたんだぞ!)
「安心しろ」
「え?」
「おまえは、明日にでも処刑される。すぐに楽になれるんだ。それまで最期の言葉を考えておくんだな。あははははっ!」
騎士は高らかに笑うと、ショウの前から去っていった。
(は?処刑?意味わかんねぇよ)
全く事態が飲み込めない。あの騎士が登場したことで、さらに意味がわからなくなった。
(処刑……って、殺されるってことか?何で?俺が何をした?試合に遅刻しそうで、急いでて、階段から落ちただけだろ?川に入った覚えもねぇし、死刑にされるような罪を犯した記憶もねぇよ。その前に、ここはどこだ?日本か?日本じゃねぇよな、絶対!)
「あー、わかんねぇ、意味がわかんねぇ!」
事態を把握できないジレンマで、頭がどうにかなりそうだ。
あれからどれくらい時間がたったのだろうか。
寒さと空腹で、叫ぶ気力すら失ってしまったショウは、ひどい眠気に襲われていた。
おそらくこのまま眠ってしまうと死んでしまうのだろう。しかし、もうどうでもいい気分だ。
(結局、試合に出られなかったな……)
今更、そんなことを思ってみる。
もう考えることも疲れた。
(腹が減った。眠い。もういい……)
そんなときだ。ショウは力なく顔を上げた。牢の前に人の気配を感じたのだ。
さっきの騎士だろうか。
「ずいぶん、へばってるわね」
騎士ではなかった。深紅の髪色が印象的なショートヘアの少女だった。ショウより少し年上のように見える。彼女は、ショウが見た騎士とは全く違った格好をしていた。分厚い鎧を着てはおらず、シャツにキュロットという軽装で、動きやすそうなブーツを履いていた。
少女はいとも簡単に鉄格子の鍵を開けると、なんのためらいもなく中に入ってきた。
「さ、出るわよ」
「出る?こっから出られるのか?」
「しっ。大声出さないで。奴らに気づかれる」
「は?俺は無罪放免になったわけじゃねぇのか?」
「説明は後。今は黙ってアタシについてきて」
少女はショウの鎖もあっさりとはずしてみせた。そして辺りを確認して牢を出ると、ショウを手招きする。
(よくわかんねぇけど、ここはついていったほうが良さそうだな)
とりあえずこの状況から脱出したい一心で、ショウはこの少女の後をついて牢を出た。
牢屋の外に一歩出ると、愕然となる光景が広がっていた。
(なんだよ、これ……)
牢屋は一つだけではなかった。いくつもの牢が通路を挟んで左右にずらりと並んでおり、どれも中に人が収容されていた。痩せこけた男、筋肉質で髪を乱した男、怪我をして血を流している男、さまざまな姿の男たちが、先ほどのショウのように拘束されていたのである。
男たちは皆、こちらを恨めしそうに見ている。その瞳には、力はなかった。生きようとする力が感じられなかったのである。まさに、今しがたのショウのように。
「なぁ、あいつらはいったい?」
ショウは、男たちの前を通り過ぎながら少女に尋ねた。
「あんたと同じ」
「俺と同じ?どういう意味だ?あいつら、これからどうなるんだ?」
「さぁ?火あぶりになるか、斬首されるか、闘技場に送られるか……そんなとこじゃない?」
「そんなとこって……。あいつらは助けてやんねぇのかよ?」
「知らないわ。アタシは、あんたを助けろって言われただけだから」
「俺を?誰に?あ、もしかして、父さんと母さんが掛け合ってくれたとか?」
「さぁね。アタシはただ、あるお方の言うとおりに動いてるだけ。詳しいことは知らないわ」
「あるお方って、誰だよ?」
ショウの質問に、少女は答えなかった。代わりに、黙れとばかりにショウをにらみつける。
ショウは口をつぐむしかなかった。このわけのわからない状況では、目の前にいる少女だけが頼りなのだ。
牢がひしめき合う回廊を抜け、裏口らしきところから外に出た。外はすでに真っ暗だった。灯りもないところを、薄っすらと輝く月明かりだけを頼りに少女は難なく進んでいく。しかし、ショウは同じようにはいかない。いくら月明かりがあるとはいえ、この暗闇の中で少女についていくことは至難の業だ。しかも、どうやら自分たちの進んでいる道は草木の生い茂ったところのようである。足場も悪く、進むたびに葉のこすれる音がした。
そのような状態だからこそ、時に何かにつまずくこともあった。
「うわっ」
と、ついに転倒する。
「なに、やってるのよ!」
「あのな、こんな足場の悪いところ……」
「しっ」
と、少女はショウの声を制した。
さすがのショウにもこの状況は把握できた。追っ手が来ているようである。
近くもないが遠くもないところから、人の足音がせわしなく聞こえてくる。
気づかずにやり過ごしてくれればいいが。
二人は固唾を飲んだ。
そして。
「ミルテ!」
突然、耳元で声がして、ショウは飛び上がりそうになった。
「やつらがこの道に気づいたよ。だから、こっち」
その声は、明らかに先ほどの少女のものではなかった。彼女よりも高くて、幼い感じがする。
「わかったわ。ありがとう、シレネ」
この声は、先ほどの少女のもの。つまり、いつの間にか人数が増えていたらしい。
「ちょっと、いつまで倒れてるのよ」
「いや、なんか増えた?」
「はぁ?」
「仕方ないよ、ミルテ。暗闇に慣れてないんだもん。私たちと同じようにはいかないよ」
と、シレネはクスクス笑う。
うっすらと月明かりに浮かんできた姿は、ショウを助け出したミルテという少女とは別の少女だった。
金髪の長い髪を左右に高い位置で結び、その毛先は内側にカールしている。ミルテと同じく軽装だが、パンツではなくミニスカートをはいていた。そこからすらりと長い脚が伸び、ショートブーツにうまく納まっている。
垂れ目で愛らしい顔立ちは、ミルテの精悍な顔立ちとは対照的だった。
「ミルテ、手をひいてあげなよ」
「冗談じゃない!シレネ、あんたが手をつないであげれば?」
「えぇ?ヤダよ」
と、シレネ。
「おい、そこに誰かいるのか?!」
たわいのないやり取りで、ずいぶん時間を浪費してしまったようだ。追っ手はすぐそこまで来ている。
ミルテはショウをたたき起こすと、ついてくるよう指示した。その後で、シレネがわざと音を立てて森の中を駆ける。
追っ手は音のする方へといっせいに足をやった。
ひとまず追っ手を撒くことはできたが、いったいどこまで進んでいくのだろうか。先の見えない闇の中を、ショウはただ走っていくしかなかった。
次第に草木の感触が消えた。代わりに、今度は足の裏にごつごつと硬い感触が芽生える。どうやら砂利道のようなところを進んでいるようである。
頼りの月明かりは、すっかり雲に隠れて効力を失っているが、暗闇に長時間いたせいで、ずいぶん目は慣れてきた。
それでも見えるものは、石造りの壁のようなものばかりである。
ここがどこなのか、どこへ向かっているのか、ショウには見当もつかなかった。
道を真っ直ぐ進んだかと思うと、次は何度もうねるように道を曲がり、また真っ直ぐ進んでいく。まるで迷路を行くように、壁に沿って走り続けた。
しばらくして、小さな家が見えてきた。白壁の木組みの家だった。
ミルテはその家に着くなり、
「おばば」
と、ドア越しに小声で呼びかけた。
しばらくして、ドアがキィとさびた音を立てて開いた。ドアを開けたのは、腰を曲げた小柄の老婆だった。白髪の長く細い髪を後ろで一つに束ね、その上から花の刺繍の入った頭巾をかぶっていた。
着ている服は、質素で簡易なワンピースのスカートだが、ところどころに施された刺繍がこの老婆に華を持たせている。
「ご苦労だったね。さぁ、お入り」
と、老婆はしゃがれた声でゆっくりと言った。
「おばば、例のルートで頼むわね」
「はいよ。おや、まだ坊やじゃないか。こんな国に迷い込むとはねぇ、気の毒に」
「こんな国?」
ショウは顔をしかめた。
「やっぱりここは日本じゃねぇのか?」
「ニホン?はて、聞いたことがないね。おまえさんの故郷かい?」
「日本を聞いたことがない?ちょっと待ってくれ。ここはいったいどこなんだ?俺はこれからどうなるんだよ?」
今まで溜まっていた疑問が、再び湧き上がってきた。牢獄からやっと出られて、次は別のどこかに送り込まれることになったらたまったものではない。
そんなショウの気持ちをよそに、ミルテは急かした。
「いいから、早くおばばの後についていきなさいよ!」
「ついていって、俺はどうなるんだ?ちゃんと説明してくれねぇと、俺には訳がわかんねぇんだよ!」
「おばばは、この国から出るための裏ゲートの管理人よ。通常は市門から出入りするんだけど、あんたみたいな訳ありは裏のルートから出るしかないの。わかったら、さっさと行くのね」
「ちょっと待てよ!この国から出るって言ったって、俺はここがどこだかもわかってねぇんだぞ?これじゃ、帰るにも帰れねぇよ」
「だから、ここは……!」
「“ローゼンシュトルツ”じゃよ」
苛立つミルテを制するように、おばばと呼ばれる老婆が静かに答えた。
「ミルテ、どうやらこの坊やは“異界”から来たようじゃ。このまま外へ出してやっても、迎えるのは死だけじゃよ。それは、あのお方も望んではおらん」
「じゃぁ、どうすればいいのよ?」
「今日のところは、アタシがこの坊やの面倒を見るよ」
「でも、おばば!」
「ミルテ、おまえさんはあのお方のところへこのことを報告に行くんじゃ。その後のことは、あのお方が指示してくださるじゃろうて」
ミルテはしぶしぶ頷いた。このおばばには、絶対の信頼を寄せているようである。
後ろ髪を引かれながらも、ミルテは家を出ると再び駆けて行った。
「さて……」
と、老婆は家のドアを閉めた。この狭く小さな空間の中に、老婆とショウの二人きりである。
家の中はきれいに整頓されていた。入って右手に、テーブルと椅子が二つ。テーブルには作りかけのビーズ細工が置いてあった。ミルテたちがやってくるまで、これを作りながら暇をつぶしていたのだろう。
「そこに、おかけ」
老婆は、ショウに椅子に座るよう促した。ショウは言われるがまま座る。それから、老婆は彼の正面に腰をおろして、ビーズを細い針金に通し始めた。見えにくそうに瞬きをしながら、ひとつひとつ細かい作業を行っていく。
「なかなかこれが見えにくくてねぇ。だけど、ボケの防止になるよ。まだまだもうろくしてられないからね。最近、アタシを尋ねてくる客が多くなったからよけいにね。困ったものじゃよ。この国にヴォルフが入ってきても、血を見るだけなんだがねぇ。皆、この国を楽園か何かと勘違いしてやってくる……」
「どういう意味だ?ヴォルフって?」
「“ヴォルフ”ってのはね、おまえさんみたいなのを言うんじゃよ」
「俺みたいなやつ?」
ショウは首を捻った。話の内容が全くつかめない。
「そう、おまえさんのような……」
そう言いかけて、老婆は手を止めた。そして目を細め、何かを思い出すように虚空を見つめた。
「何から話せばいいかねぇ……」
老婆はしばらく黙って考えていた。それからゆっくりと語り始めた。
ここはどこなのか。ショウの身に何が起こったのか。その全てを。
しかし、それはこれからショウが目にする衝撃的な出来事の序章にすぎなかったのである。
読んでいただきありがとうございます。
少しでも読みやすくするため、スペースを多くとっています。
読みにくければ、また考えますので、ご一報くださいませ。