心の蕾⑤
「ミルテ、待てよ!」
ショウはミルテを追いかけた。おばばの家を飛び出して、街の中を中心部とは反対方向へ一目散に駆け抜ける。このまま行けば、市壁にぶつかる。いったいどこまで行くつもりなのか。
ミルテの足は思った以上に速かった。ショウは、追いつけそうで追いつけないでいた。
(くそ、俺の運動神経なめんな!)
ショウは速度を上げた。そして、手を伸ばす。あともう少し、手が触れるか触れないかのところで、ミルテは急に向き直った。ショウは慌てて足を止めようとしたが、ブレーキをかけて急に止まれるわけがない。前のめりになる身体を必死で制御しようとして、逆に後ろにひっくり返ってしまった。
「おまえな、急に止まんな!」
と、ショウはしりもちをついた状態で叫んだ。
しかし、どうやらミルテの耳にはショウの声は届いてないらしい。ショウはしりもちをついたまま、ごくりと喉を鳴らした。ミルテの様子がおかしい。ショウの額から一筋の汗が垂れた。
ミルテはショウに短剣を向けていた。その手は小刻みに震えている。彼女の額からは滝のように汗が流れ出ていた。走ったからだけではない、異様な量の汗だ。
(ミルテ……?)
ミルテの顔は青ざめていた。目には涙が溜まっている。ショウを追い詰めているはずのミルテが、蛇ににらまれた蛙のようになっていた。
(怯えてる……?)
ミルテの瞳は、恐怖の色に染まっていた。彼女には、ショウの姿など見えていなかった。もっと別の黒い影が、彼女を恐怖に陥れていたのである。二度と思い出したくない忌まわしい記憶が、幻影となってミルテに襲い掛かろうとしているのだった。
「いや……来ないで……!来ないでよ……!やめて……!」
震える手で短剣を構えながら、ミルテはうわ言のように繰り返した。
「おい、ミルテ?」
ショウはゆっくりと立ち上がり、ミルテに近づこうと手を伸ばす。だが、それは彼女の恐怖心をあおる行為でしかなかった。
近づいてくる。悪魔の手が。薄笑いを浮かべて、近づいてくる。
ミルテは恐怖のあまり短刀をとうとう振りかざした。
「痛っ!」
ショウの手から赤い雫が垂れた。
その赤い雫がミルテの心を呼び戻した。我に返ったミルテは、思わず短剣から手を離した。短剣がカランッという音を立てて地面に落ちる。
ミルテは後ずさった。実際にその短剣で人を傷つけたことなどなかったのだろう。ショウの手から流れ落ちる血を見るやいないや、彼女は逃げるように走り去ってしまった。
ショウはただ呆然と立ち尽くしていた。後を追おうと思えばできたかもしれない。だが、ミルテが先ほど垣間見せた表情が、ショウの動きを止めていた。何かに怯えたあの表情が。それが、ミルテが見せた本当の心の叫びだったのかもしれない。
ふいに強い風がショウに吹き付けた。手の傷が痛み始めた。
ミルテは、当てもなく無我夢中で走った。蘇る恐ろしい記憶を追い払うように。
脚もおぼつかなくなるほど走ったミルテは、そこで膝をついて倒れた。ぜえぜえと肩で息をしながら、呼吸を整える。額から滴り落ちる汗は、いつの間にか地面を湿らせていた。
そんなとき、ふとミルテの視界が暗くなった。走りすぎて、いよいよ酸欠にでもなってしまったかと思ったが、それは違った。誰かがミルテの前に立ったことで、その影がミルテの身体に重なったせいであった。
ミルテは、おもむろに顔を上げた。そこに立っていたのは、懐かしい人物だった。小柄で丸顔でおさげ髪……。
「ピオニー?」
ミルテは、目をこすった。夢を見ているのではないか。リボルバーヘルトの国王の城で侍女をしているはずの彼女が、ここにいるはずなどないと。
「ミルテ、大丈夫?」
ピオニーは、ミルテにそっと手を差し出した。ミルテは、その手を掴む。その時、初めて夢でないと実感できた。生身の人の温かさが、そのことを教えてくれたのだ。
「ピオニー!」
ミルテはピオニーに飛び付いた。
ピオニーは、黒い布で全身を覆っていた。顔の部分はさすがにとっていたが、その服装が意味するものは、リボルバーヘルトで暮らしたことのある者ならすぐにわかる。
「ピオニー、どうしてローゼンシュトルツに?」
「急に国王からお暇を言い渡されて……。ちょうど今、ローゼンシュトルツに着いたところよ」
ピオニーの後ろには、仰々しい音を立てて閉まっていく門があった。ミルテは、いつの間にか市門のところまで走ってきていたのだった。
「ミルテこそ、どうしてここに?私が来るのがわかったみたい」
「そうね。もしかしたら、神様のお導きかもね」
と、ミルテは、はにかんだ。
ミルテの中の不安は、懐かしい旧友の姿を見て、どこかへ飛んで行ってしまったようだ。
「でも、よくリボルバーヘルトから出られたわね。国王が、国から出ようとするヴィーネたちを処罰してるって聞いたけど」
「そうなの。だから、私も捕まる覚悟をしていたんだけど、なぜか不思議なくらい簡単に出られたの。きっと日ごろの行いがいいからだわ……」
と、ピオニーは目をキラキラさせて、空に輝く太陽を見つめた。
いつもの妄想が始まったとばかりに、ミルテは肩をすくめる。
「これからどうするの?住むところもないでしょ?」
「そうなの。だからミルテに会えて本当によかったわ。これも日ごろの行いが……」
「はいはい、そうね」
と、ミルテは、呆れたように返した。
「これから住むところは、ルカ様に一度お願いしてみるわ。ルカ様なら、きっとお力になってくれる。もしかしたら、お城で働けるかもしれないわよ」
「ルカ様……」
ルカの名前を聞いて、ピオニーの顔つきが変わった。先ほどのまでの笑顔は消え、表情が青ざめる。
「どうしたの?」
ミルテは、怪訝な顔をした。
「ミルテ、ルカ様は危険よ。今すぐ離れて」
「は?」
ミルテは、ますます顔をしかめた。
「危険?何言ってるの?ルカ様ほど、お優しくて情に溢れている方はいないわ。あんたもお見かけしたことぐらいあるでしょ?」
「騙されちゃダメ!」
「ピオニー?」
「私、知っちゃったのよ……。あの人の正体を」
「ルカ様の正体?」
首を傾げるミルテを前に、ピオニーは押し黙った。そして、何かに怯えるように肩を震わせる。
国王の寝室で聞いたことを思い出すと、今でも恐怖で身体が縮む。
「いい、気をしっかり持って聞いて」
ピオニーは、真剣な眼差しでミルテを見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「ルカ様は、ヴォルフなの……!」
ミルテの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
いったんはここまで。ミルテは、衝撃の事実を知ることとなります。そして、急速に近づいていくシレネとクロスの心…。それはまた次回の更新まで。