心の蕾④
「もう一回!」
と、ショウは意気込んで右腕を差し出した。ひじをついて、手を強く握りかわし、せえので力を加える。
「ぐぬぬぬぬ……」
渾身の力を右腕に注ぎこむ。
ショウの右手の甲が、地面に勢いよくついた。かかった時間、数秒。
「あー、もう、強すぎるぜ、クロス」
「当たり前だ。子供のおまえに負けるわけがない」
と、クロスは歯をむき出して笑うと、ショウの頭を軽く叩いた。
「おやおや、にぎやかだねぇ」
ショウとクロスが腕相撲をしていると、別の部屋から老婆が顔を出した。
「おばば」
グラミスキャッスルから遠く離れた小さな一軒家、そこがおばばの住む家だった。
街の視察をするというルカに付いてきたショウは、ルカのもとを離れて一人おばばの家へやってきた。ルカと一緒にいても、ルカは瞬く間に街の人々に囲まれて、自分の入る隙などなくなってしまうのだ。すぐに手持ち無沙汰になって、おばばの家へ寄ったのだった。
そこで、クロスという男に出会った。栗色の髪と右頬を縦断する傷跡が印象的な若い男だった。なぜ彼がここにいるのかというと、シレネに助けられたのだという。
左肩に深い傷を負い瀕死の状態であった彼を、シレネがここまで運んできたというのだ。それから怪我が回復するまで世話になっているのだという。
「どれ、怪我の具合でも診ようかね」
と、おばばが入ってきた。
クロスは上半身の衣服を脱ぎ、問題の肩を見せる。おばばは彼の包帯をゆっくりとほどいていった。
傷はかなり深いものだった。まだふさぎきっていない傷口は、目を背けたくなるほど痛々しい。
おばばは包帯を取り去ると、傷口におばば特性の薬を丁寧に塗りこんでいく。時々薬が傷に沁みて、クロスは小さくうめいた。
「まだ治りきるには時間がかかりそうだねぇ」
おばばはクロスの肩に包帯を巻きながら言った。
「すまない」
「おまえさんが謝ることはないよ」
「だけど、“男”の俺がここにいると、あんたたちに迷惑が……」
「今に始まったことじゃないさ。のう、ショウ?」
と、おばばは笑った。
「まぁな」
「そういえば、ショウも“男”だったな」
「そういえばってなんだよ、クロス?」
ショウは口を尖らせた。
「いや、その服があまりにも似合っているからつい……」
そう言って苦笑しながら、クロスはショウの服を指差した。
ショウは、ローゼンシュトルツの典型的な女装束を着ていた。袖に細かい花の刺繍が施されたワンピースである。
クロスの言葉に、ショウはふくれ面をして見せた。
「どうせ、違和感ないですよ」
「そうふてくされるなよ。そのうち男らしくなるさ」
「クロスみたいに?」
「ああ。今よりも筋肉が付いて、声が太くなる。身長だって、もっと伸びるさ」
ショウは想像してみた。男らしくなった自分の姿を。クロスのようにがっしりとした体格、身長は180センチメートルくらいあるとうれしい。
(おお、なんか俺ってかっけぇ……)
と、想像上の自分を自画自賛する。そしてそのまま妄想の世界へ。
「ショウ!」
「うわっ」
突然の大声に、ショウは現実に引き戻された。筋肉質のたくましい身体から華奢なもとの身体に戻ってしまったのだった。
大声の主は、シレネだった。買い物から帰ってきたのか、買い物かごを手に提げている。しかし、中身は何も入っていなかった。
「どうしたんだい、シレネ?そんなに慌てて」
息を切らして立っているシレネに、おばばが声をかけた。
「あ、あの……ミルテが……」
「ミルテ?ミルテがどうかしたのか?」
と、今度はショウが首を傾げた。
「うん……ちょっと……」
そう言って、シレネはクロスに視線をやった。しかし、目が合うとすぐに視線をそらしてしまう。
「それより、どうしてショウがここにいるの?」
と、シレネは驚いて言った。
「ああ、ルカと近くまで来たからさ」
「ルカ様と?じゃあ、近くに?」
ルカの名を聞いて、急にシレネの挙動が落ち着きのないものになった。きょろきょろと辺りを見回したかと思うと、押し黙ったようにうつむく。そうかと思うと、今度はおろおろとし始めた。
「案ずるでない、シレネ」
見兼ねたおばばが声をかけた。どうやらおばばは、シレネが挙動不審になった理由をわかっているらしい。
「ルカ様は、これまで何人もの“ヴォルフ”を救ってこられたお人じゃ」
「でも……」
シレネは不安げにクロスを一瞥した。
「なんだ、そんなこと心配してんのか、シレネ」
と、能天気な声を上げたのは、ショウだった。
「クロスを匿ってることを知ったって、ルカがクロスをどうこうするわけねぇじゃん。そんなこと、長年ルカに仕えてきたシレネならわかってることだろ?」
「でも……」
「大丈夫だって。逆にルカならクロスのためにいろいろ手を貸してくれるんじゃねぇの?」
「でも……」
それでもシレネは浮かない顔のままうつむいていた。
「もういい、シレネ」
そう言ったのは、クロスだった。
「やはり、俺がここにいるとおまえたちに迷惑がかかる。早急に出て行く」
「そんな必要ねぇって。ルカは“ヴォルフ”だからって、あんたをひでぇ目にあわせたりしねぇよ。あいつはそんな腐ったやつじゃねぇ」
「女王をねらった刺客でもか?」
クロスの一言に、ショウは耳を疑った。
「え、それって……」
「俺は女王を暗殺しようとした」
「じゃ、あんたはあのときの?」
「やはり、そうか。“ショウ”という名、どこかで聞いたと思ったら……。おまえがあの場にいた子供だったのか。まさかおまえが男とはな」
「そんな……。じゃ、あんたがルカを刺したのか?」
「俺と対峙していたあの銀髪の女だな?そうだ、俺が刺した」
「なんで……」
ショウは困惑を隠せなかった。先ほどまで親しく話していた相手が、女王の命を狙った男だったとは。
「なんでそんなこと?なんで、女王暗殺なんて……?」
「俺はこの国に……ローゼンシュトルツに家族を奪われた」
「え……?」
「十年前、母は突然妹を連れて家を出ていった。もともとろくな父親じゃなかったが、二人が出て行ってからの荒みようはなかった。二人がローゼンシュトルツで暮らしていることを知った父は、単身ローゼンジュトルツに乗り込んだ。そこで、行方が知れなくなった」
ショウはクロスの話を聞いて、ある事件を思い出した。娘に会いに来た父親が、無残にも罪人として捕らえられてしまったあの一件を。あの後、あの男がどうなったかはわからない。ただ言えることは、無事では済まされないということだ。
「女王を暗殺することは、一つの希望を見出すためだった」
クロスはそう言って、拳を握った。
「国王は言った。リボルバーヘルトがローゼンシュトルツとの統一を成し遂げたとき、家族と平穏に暮らせる日々がくるのだと。そのためには、冷酷無情な女王の首を獲らねばならないと」
「ちょっと待てよ。そんな言葉、本気で信じたのかよ?」
「信じたからこそ、俺はここにいる」
ショウは唇をかんだ。
「違うだろ……」
「ああ、違った。この国の女王はただの飾りだった。本当に倒すべきは四天王と呼ばれる……」
「そうじゃねぇ!」
ショウは声を荒げた。
「あんた、根本的に間違ってるよ!あんただけじゃねぇ、この国のやつらもリボルバーヘルトのやつらも」
「おまえのような子供に、何がわかる?」
「わかるよ。俺はこの目で見たんだ。リボルバーヘルトで、俺は一人の女に出会った。そいつは、望んでもないのに麻薬漬けにされてモノのように扱われてた。ひでぇことするなって、すっげぇムカついた。なんの罪もない女たちを恐怖で縛り付けて、自由を奪う男たちを見て、同じ男として無性にやるせなくなった」
「だから何だ?確かに、リボルバーヘルトでは女たちを軽視する風習がある。だが、そんな男たちばかりじゃないさ。女たちへの俗悪な行為を忌み嫌い、女たちに救いの手を差し伸べてきた男たちもいる。それなのに、ローゼンシュトルツはどうだ?ローゼンシュトルツこそ、同じようになんの罪もない男たちの命を奪っているじゃないか!」
「そうだ。同じなんだ。同じなんだよ、クロス。これじゃ、同じことを繰り返してるだけなんだ!誰かを傷つければ、悲しんだり憎んだりしたりするやつが出てくる。そうしてまた誰かを傷つける……。これじゃいつまでたっても平穏な暮らしなんてやってこねぇだろ!」
ショウのその言葉に、クロスはフッと口元を緩めた。
「あの女と同じことを言うんだな」
「え?」
「憎しみからは憎しみしか生まれない……」
クロスは虚空を眺めた。
(確かにそうかもしれないな……)
クロスは十分に手当てされた左肩に触れた。
血を流して倒れているところを発見されたとき、自分の最期を覚悟した。しかし、思いもかけずその命は助かった。一人の少女によって救われたのだ。
クロスは命の恩人であるその少女に視線をやった。不安そうな顔でこちらを見つめている。
あのときのシレネが自分に向けた瞳には、憎しみの色などなかった。そして今のクロスにも、彼女に対する憎しみなどない。
「そういうことだったのね」
突然のその一言に、不安そうにクロスを見つめていたシレネの顔が強張った。彼女の表情と呼応するように、その場に緊張が走る。恐る恐るシレネは、振り返った。
「ミルテ……」
「シレネ、これはどういうこと?」
ミルテの声が、鋭くシレネの胸に突き刺さる。
「あんたの様子がおかしかったら、後をつけて正解だったわね」
そう言うと、ミルテは硬直しているシレネを押しのけて、傷を負った男に近づいた。
「話は全て聞いたわ。ヴォルフを匿うだけでも重罪なのに、よりにもよって暗殺者を匿うなんて……。シレネ、あんた、自分のしていることがどれだけ罪深いことかわかっているの?」
「それは……」
「おい、ちょっと待てよ!シレネは何も間違ったことなんてしてねぇだろ!」
と、口を挟んだのはショウだった。
ミルテは鋭くショウを睨む。
「あんたは黙ってて」
「いいや、黙らねぇ。シレネは怪我したクロスを放っておけなかっただけだ」
「そう思うこと事態、間違ってるのよ!怪我をしているからなんだっていうの?ヴォルフはヴォルフよ!そうでしょう、シレネ?」
ミルテの言葉に、シレネはただうつむくしかなかった。
「ルカ様に報告するわ」
「ルカはなにもしないぜ?」
去ろうとするミルテに、ショウが言った。
「だったらアイリス様に報告するまでだわ」
「や、やめて!」
アイリスの名前を聞いて、うつむいていたシレネがミルテの腕を掴んだ。今にも泣き出しそうな顔で、必死にミルテの腕を掴んでいる。ミルテはそれを力任せに振りほどいた。その拍子に、シレネはバランスを崩してしまう。
「シレネ!」
床にぶつかりそうになるところを、運よくクロスが受け止めたのだった。
「大丈夫か、シレネ?」
「う、うん」
シレネは、クロスの胸に顔をうずめるような格好になっていた。
その光景を目にしたとたん、ミルテの中で何かがはじけたのである。ミルテは短剣を抜いて、クロスに向けた。
「シレネから離れて!」
「ミルテ!」
シレネが気づいたときには、ミルテはすでにクロスに斬りかかろうとしていた。クロスはとっさにシレネを押しのけ、自分の身体を差し出した。だが、斬りつけられることはなかった。その直前に、ショウが横からミルテの短剣を持った手を押さえていたからである。
「何するんだ、ミルテ!」
「放してよ!」
ショウに手首をつかまれたミルテは、それを振りほどくとそのまま走り去った。その後をショウが追う。二人は瞬く間に見えなくなってしまった。
「クロス、大丈夫?」
シレネがクロスに駆け寄った。自分を庇おうとしたがために、傷が開いてしまったようだ。包帯が薄っすらと赤く滲んでいた。
「ごめんなさい……」
「どうして、おまえが謝るんだ?」
シレネは何も答えなかった。ただ、涙が雫となってポタリポタリと床に零れ落ちる。クロスは自然と彼女の頬に手を伸ばしていた。そして、シレネもまた自然と彼の胸で声を忍ばせて泣いていた。