心の蕾③
3
太陽の光がさんさんと降り注ぐ午後、シレネは街に買い物に来ていた。露店が数多く並ぶ道筋を、あれやこれやと品物を吟味しながら歩いていく。シレネの一番のお目当ては、パンだ。ひいきにしているパン屋が、この道沿いにある。
晴れ渡った空の下、市場は賑わいを見せていた。シレネと同じように買い物かごを手に提げた女たちが、井戸端会議をそこここで開いている。これもこの市場では、威勢のいい呼び込みとともに名物になっていた。買い物に来た女たちは、二、三人で集まって、あそこの店はどうだとか何が安いだとか、情報交換を行っているのである。
シレネは積極的に参加こそしないが、時々この会話を盗み聞きする。どこの店が安いかなどは、有力な情報になるからだ。
「あそこのリンゴ、今日安かったわよ」
「あら、でも少し青かったんじゃない?」
今日の売れ筋はリンゴらしい。
(リンゴかぁ……)
と、思ってシレネはかぶりを振った。頭によぎった映像が、そうさせたのである。リンゴをおいしそうにかじるある人の姿……。
(どうして、あの人のことばかり浮かぶんだろ?私、やっぱり変なのかなぁ?)
シレネは唸りながら考えた。考えれば考えるほど、なんともいえない気持ちになる。温かいような切ないような……。
「ねぇ、聞いた?あの話」
「ええ、女王陛下のお命をヴォルフが狙ったんですってね」
そんな女たちの会話が、シレネの耳に入ってきた。シレネの鼓動がなぜか速くなる。
「しかも、そのヴォルフがまだこの国に潜伏しているらしいのよ」
「物騒になったわね、ローゼンシュトルツも」
「ヴォルフがどこかで私たちを見ているのかと思うと、ぞっとするわ」
「大丈夫よ、アイリス様が必ず捕まえてくださるもの」
「そうね」
と、女たちは笑い合った。さほど深刻には捉えていないようである。この国の治安を守る指揮官としてのアイリスに、民衆が絶大な信頼をおいている証拠であった。
(ヴォルフ……)
シレネの心がチクリと痛む。最近、ヴォルフの悪い噂を聞くとなぜか胸が痛んだ。
(やっぱり変だよね、私……)
「シレネ?」
突然声をかけられて、シレネは飛び上がるほど驚いた。恐る恐る振り返ると、そこにはミルテが立っていた。普段と変わらない格好だったが、珍しく腰に短剣をさげていた。
「ミ、ミルテ。どうしてここに?」
「警備を兼ねてちょっとブラブラ」
「警備?」
「ほら、例の女王陛下のお命を狙ったヴォルフ、まだどこかに潜んでいるらしいから」
「ルカ様のご命令で?」
「ううん、自主的にね。あんたは?買い物?」
と、ミルテはシレネの買い物かごをのぞいた。
「う、うん。あのさ、ミルテ」
「何?」
「もし、そのヴォルフを見つけたらどうするの?」
「決まってるじゃない。アイリス様に突き出すのよ」
「そう……だよね……」
そう言うと、シレネは笑った。顔が引きつっているのが自分でもわかる。
「シレネ?」
「あ、私、買い物の途中だった。じゃぁね、ミルテ!」
訝しむミルテの横をすり抜けるように、シレネは走り去った。つまり、とっさに逃げてしまったのである。
ミルテに隠し事をするのは生まれて初めてだった。ミルテは、いつだって互いに協力し合い、支えあってきたパートナーである。そんな彼女を裏切るような行為をしているのではないか。
シレネは走った。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
シレネは買い物も忘れておばばの家へと走っていった。