餓狼の企み⑥
ノックの音がした。ショウとダリアの二人は、顔を見合わせてうなずきあった。作戦通りに、と。
「ダリアさん、親方がお呼びです、はい」
ドアの向こう側から、頼りない声が聞こえてきた。マックスの声だ。
ダリアはショウの背後に隠れた。隠れたといっても、ショウより背の高い彼女は、頭ひとつ出ている。その顔は黒いベールで覆われていた。ショウが身に纏っていた布を彼女がもらいうけたからだ。外に出るのに、彼女の服装は刺激的過ぎるという理由で。
二、三回のノック音の後、ガチャガチャと鍵を開ける音がした。そして、ドアが開く。開いたと同時に、待ち構えていたショウがマックスの顔面を力いっぱい殴る。
「ぎゃっ!」
蛙がつぶれたような声を出して、マックスは白目をむいた。
大きな物音を立てないように、倒れかけるマックスの身体をショウはうまくキャッチすると、そっと寝かした。そして、部屋の中へと引きずる。
「よし」
と、ショウは一仕事終えたとばかりに手をはたいた。そして、ダリアに手を差し伸べる。
「行くぞ」
だが、ダリアは素直にその手をとることができなかった。
「ダリア?」
「あたし……」
ダリアは伏し目がちに言った。
「やっぱりあたし、信じられない……」
「ダリア……」
「本当に、ローゼンシュトルツへ行けるの……?」
「それは、ちゃんと説明したろ?」
ダリアと一緒にここから脱出すると決めたとき、ショウはダリアに全てを語った。
自分がローゼンシュトルツに来たあの日のことから、ルカとの出会い、そして今に至るまでを全て。その上で、ショウはダリアをローゼンシュトルツに連れて行くことを約束した。
彼女が求める自由は、今のところあの国にしかない。ルカに頼めばきっとどうにかして助けてくれるはずだと、ショウはダリアを納得させたのだった。
「本当にあたしを助けてくれるの?」
「そう言っただろ」
「あたしだけじゃなくて、ここにいるみんなも?」
「ああ、約束する」
「……嘘よ」
ダリアはつぶやいた。
「そんなこと言って、あたしを騙そうとしてるんでしょ!」
「ダリア?」
「だって、だってあんたは……」
「“ヴォルフ”だから?」
ショウの一言に、ダリアは口をつぐんだ。
「そう言われると、どうしようもねぇんだよな」
と、ショウは人差し指で頬をかきながら困った顔をする。
「俺がヴォルフであることはゆるぎない事実だから」
ショウはそう言うと、もう一度彼女に手を差し伸べた。
「あんたがこの手を取るかどうかは自由だ。もし、あんたが俺を信じてくれるなら、俺はあんたを絶対に裏切らない」
ダリアを見つめるショウの瞳は、真っ直ぐなものだった。嘘偽りのない、心からの想いが彼の大きな瞳から伝わってくる。
「ショウ……」
ダリアの心は葛藤に揺れていた。“ヴォルフ”だから信じられない、信じたくない。それなのに“ヴォルフ”である彼を信じてみたくなる。
自然とダリアの手はショウの手を握っていた。しかし、彼女の向けた瞳はまだ不安げだった。本当にこれでいいのか。本当に自由になれるのか。明確な答えなど出すことはできない。
ショウはダリアの手を握り返した。そして、軽くうなずいてみせる。
明確な答えを彼は出そうとしてくれている。“ヴォルフ”である彼が。
ショウとダリアは部屋を飛び出した。廊下を抜け、例のリビングルームへと差し掛かる。案の定、そこには“親方”と呼ばれるあの男がいた。ソファに巨体を沈め、ブランデーを片手にくつろいでいる。
男はダリアに気づくと、ブランデーを飲み干して薄笑いを浮かべながら近づいてきた。
「ダリア、待っていたぞ」
と、男はダリアのあごに手をかける。
「喜べ、おまえの買い手が見つかった。これからは……わかっているな?」
そう言って、男はダリアの身体に手を触れようとした。
そこへ、ダリアの背後に隠れていたショウが渾身の力をこめた拳で、男の腹に一撃をくらわす。
ショウの拳が男の分厚い腹にめり込んだ。不意打ちともあって、男は腹を抱えてダリアの前に沈み込む。
「汚ねぇ手でダリアに触ってんじゃねぇよ」
ショウはダリアの手をとり、男が倒れこんでいる隙に出口へと急いだ。しかし。
「きゃっ!」
「ダリア!」
ショウは目を疑った。なんと男は腹を抱えながらもダリアの手を掴んでいたのである。
「くそっ」
ショウは舌打ちした。わずかな好機を逃してしまったと。
男はおもむろに立ち上がった。痛みが徐々に取れていく。
「俺に一発くらわせるとは、いい度胸だな。だが、そこまでだ」
男はダリアの手を力任せに引っ張った。その反動で、ショウの手からダリアの手が離れる。そして彼女はそのままソファへと突き飛ばされた。
「ダリア!」
ショウはダリアを助けようとした。だが、男に胸倉を掴まれ、そのまま壁に叩きつけられてしまった。
痛々しい音が部屋に響いた。声にならないほどの激痛が、ショウの身体を襲う。
「俺からそう簡単に逃げられると思っていたのか、ああ?」
「ぐっ……!」
「このクソガキが!」
男は毒づいてショウの顔を殴った。その衝撃は、顔がゆがむのではないかと思うほどの激しさだった。
「おまえにゃ商品価値がねぇから、この際だ、見せしめにでもなってもらうか。逃げるとどうなるかってな!」
そう言って、再びショウを殴る。いたぶるように、何度も何度も。
ついにショウは自力で立つことができなくなった。ズルズルと崩れるように地面に倒れこむ。
「ショウ!」
ダリアは怯えきった声で叫んだ。助けたくとも身体が動かない。
次に、男はダリアのほうを向いた。そして、薄笑いを浮かべてにじり寄ってくる。
「い、いや……」
「ダリア、おまえも同罪だが、おまえにゃ商品価値がある。クライアントもおまえを手にするのを心待ちにしてるんだ。だがな、お灸はちゃんとすえとかねぇとな」
そう言うと、男はダリアが纏っていた黒布を剥ぎ取った。そして、その布でダリアの両手を縛りつける。恐怖に悶えるダリアを悦楽に浸った目で眺めていた男は、彼女の身体にその巨体を乗せて煙草をふかし始めた。優越感に浸りながら一服を終わらせると、まだ火のついた煙草をダリアのむき出しになった肌に近づけていく。
「い、いや……!いやぁぁぁぁっ!!」
身悶えるダリアに、男は容赦なく煙草の火を近づける。そのときだ。強い衝撃とともに、男はダリアの身体から引き離された。
「ぐわっ!」
男は、床になぎ倒された。
原因は、ショウによる体当たりだった。ショウはアザだらけになった身体を奮い立たせ、全身で男に突進したのであった。
しかし、男を衝撃でなぎ倒すことはできたものの、ショウ自身のダメージも相当なものだった。痛みで脚がふらつく。それでもショウは、その細い脚をしっかりと地につけて身体を起こした。
「さっきから聞いてりゃ……人をモノみたいに言いやがって……」
「モノだろうがよ、おまえたちは」
と、男はのっそりと起き上がった。
「黙って言うとおりにしてりゃいいんだ。おまえたちに逆らう権利なんてねぇんだからな」
「なんだと?」
「女は男に飼われているくらいが調度いい……」
男が言い終わるか言い終わらないかのところで、ショウによる右ストレートのパンチが驚くほどうまい具合に男の顔面に入った。流れ出た鼻血が、男の醜い顔を更に醜くした。
「ふざけんなよ!」
と、ショウの怒声がリビングルームを震わせた。
「てめぇは何様だ!ダリアの自由を、女たちの自由を奪う権利は誰にもねぇんだよ!」
ショウの拳は震えていた。恐怖からではない、殴った痛みからでもない、心の底から沸き立つ激しい怒りから来るものだ。
「この……クソガキがぁ!」
男の怒りもまた頂点に達した。鼻血をこすり取ると、なりふり構わずにショウの首を掴みにかかったのである。ショウの細い首は、瞬く間に男の毒牙にかかってしまった。男の分厚く太い手に、ショウの首が締め付けられる。
「ぐ……」
首が圧迫され、息ができない。
ショウはその手をほどこうともがいたが、さらに強く締めつけられてどうすることもできなかった。
意識がだんだん遠のいていきそうだ。力も入らなくなってきた。
「ショウ……!や、やめて!」
ダリアが男の足にすがりついた。縛られた手を必死にもたげて、懇願する。
「やめて、お願い!もうやめて!ショウが死んじゃうわ!お願い、やめて!!」
「うるさい!おまえはひっこんでろ!女のくせに……男に逆らうとどうなるか、目に物見せてくれる……!」
男は血走った目をショウに向けて、その手の力を強めた。
必死の抵抗を続けていたショウの手が、男の手首を離れ、ゆっくりと下へ垂れていく。
「や、やめてぇ!」
ダリアの泣き叫ぶ声がとどろいた。
「ショウは女じゃないわ!男なの!だからこんなことしても何にもならないわ!ねぇ、殺さないで!殺さないでよ!」
「男?」
男の手が一瞬緩んだ。ダリアはとっさに男に体当たりをくらわす。その拍子に、男の手からショウが離れた。
止まっていた空気の流れが、いっきにショウの気管を通り抜ける。ショウは激しくむせ返った。だが、一命は取り留めたようだ。
男は激しくむせて悶えるショウを、黙って眺めていた。そして、何を思ったか声を上げて笑い始めたではないか。
「男……男だったのか……。そうか、小娘にしては威勢が良すぎると思ったんだ」
男はショウの胸倉を掴んだ。そして、ヤニで黄ばんだ歯をむき出して言った。
「おまえ、ダリアに惚れでもしたか?ん?そんなにダリアが欲しかったのか?」
「……」
「欲しいなら金を持って来い。ガキの小遣い程度のはした金でも……くらいさせてやる」
そう言って、男はショウの耳元で何やらささやいた。
ショウの中で、プツッと糸が切れる音がした。
「……じゃねぇ……だろ……」
「あ?」
「モノじゃねぇって言ってんだろ!!」
ガツンッと激しい音がこだました。その次には、男は両手で額を押さえて這いずり回っていた。
激しい怒りのこもったショウの頭突きは、男を地に伏して悶えさせた。
「いってぇ!」
と、ショウもまた叫んだ。
痛かったのは男だけではない。頭突きをくらわせたショウ本人も痛い思いをしていた。だが、男に与えた痛みよりはマシだったようである。
男は絶えずもがき苦しんでいた。苦痛に顔をゆがめて狂気じみた叫び声を上げあげながら、転がるように悶えている。じっとこらえることができないほどの激痛が、そうさせたのだった。
その隙に、ショウはダリアの両手を縛りつけていた布をほどいてやった。布がほどけると同時に、ダリアはショウに抱きついた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ショウの名前を何度も繰り返し呼んだ。
ショウはダリアを抱きしめた。彼女の身体は、小刻みに震えていた。
「ごめんな、怖い思いさせて」
ダリアは何も言わずにただ首を横に振った。
二人は手を取り合って館を飛び出した。振り返ると、それは横長の二階建ての建物だった。まるで箱だ。手足すら自由に動かせない狭くて暗い箱の中に、彼女たちはずっと閉じ込められていたのだ。
(くそ)
はらわたが煮えくり返るとは、こういうことを言うのだろう。ショウの怒りが収まることはなかった。