餓狼の企み⑤
5
気がつくと真っ暗な場所に寝かされていた。まだ意識がはっきりしない。混濁した意識のまま、ショウは起き上がろうとした。しかし、何かに額を思いっきりぶつけてしまう。
「いてっ」
突然のアクシデントに、額を押さえようとして、今度は右ひじを打ってしまった。間接に見事決まり、しびれてしばらく動かせなかったほどだ。
(なんなんだよ、ったく)
どうやらここはとてつもなく狭いところらしい。真っ暗でそれがどういうものかはわからないが、動かせる肢体が限られていることから長方形の箱だということがわかった。ひざは曲げられるが、起き上がることはできない。両腕は少し上げられるが、寝返りは無理だった。
(しかし、なんで俺はこんなところにいるんだ?)
気を失う前の記憶を辿ってみるが、どうもおぼろげである。確かピオニーと街に繰り出していて、屋台を見て、肉を食べたような……と、このあたりで曖昧になる。
(そういや、ピオニーは?)
そう思ったときだった。急に光が飛び込んできて、ショウは目を細めた。どうやら箱のふたが開けられたようである。だんだん目が慣れてくるにつれて、周りが見えるようになってくる。
「やぁ、目が覚めましたね、はい」
「ん?……うわっ」
完全に目が慣れて真っ先に飛び込んできたのは、ひょろ長く青白い顔だった。さらに長い前髪が垂れ、幽霊のように見える。ショウは、驚いて飛び上がった。
「驚かせてしまいましたね、はい」
「な、なんだよ、おまえ?」
「僕ですか?僕は、その……」
と、言いかけてこのひょろ長い男は、口をつぐんだ。奥の部屋から怒声が聞こえてきたからだ。
「マックス、マックス!」
「は、はい、親方。ただいま」
そう返事をすると、マックスは慌てて、しかしなぜかフラフラと出て行った。
ショウは唖然として彼を見送った。自分のおかれている状況が全く把握できない。とりあえず自分の身の周りを確認してみた。あいかわらず黒いベールを身に纏っていることから、自分の身体にどうこうされたということはなさそうである。さらに、自分が寝かされていたのは、やはり箱の中だった。簡素な木箱で、力をこめて殴れば突き破れたかもしれなかった。
ショウは木箱から出ると、出口に向かった。何もない単なる部屋で、ドアもひとつしかない。幸い、あのもやし男は今いないので、うまくすれば逃げ出せるかもしれない。
ショウはドアノブに手をかけた。そして開けようと思ったが、先に開けられた。あのもやし男に。
(やべっ)
「あ、えーっと、トイレはどこかな~……なんちって」
と、とっさにごまかす。
そして、隙を見てもやし男を突き飛ばした。案の定、ひょろ長いだけのこの男は、あっけなくよろよろと倒れこむ。ショウはその隙に部屋を飛び出した。部屋を出るとすぐに長い廊下があった。その廊下に沿って、いくつものドアが並んでいる。まるでアパートのようだ。
ショウはそれにはかまわずに、ひたすらこの建物の出口目指して走った。廊下の突き当りを曲がると、リビングルームのようなスペースがあった。贅沢なソファやテーブルがあり、そこで小太りの中年男が気持ちよさそうに煙草をふかしていた。
男はショウに気づくと、なめるような目つきで見た。
「なんだ、おまえ?」
ショウは、男を前に後ずさった。本能がささやきかける。この男は危ないと。だが、後ろからはあのもやし男が追いかけてきている。あの男なら倒せる自信はあったが、出口はこのリビングルームを抜けたところにあるようだ。どの道、ここは通らなければならない。
そうこうしているうちに、マックスがショウに追いついた。ここまでさほど距離がなかったはずなのに、肩でぜぇぜぇと息をしてフラフラになっていた。
「マックス、なんだ、こいつは?」
と、男が煙草の火を消しながら言った。
マックスは呼吸を整えながらなんとか答える。
「親方に見ていただきたいと言っていた娘です、はい」
「ほぉ」
男は割れたあごをなでながら、ソファから重い腰をあげてショウの前までやってきた。顔を近づけて、ショウをまじまじと眺める。
近づけられた顔はひどく醜かった。肌はシミだらけで、歯は煙草のヤニで黄ばんでいる。吐く息は、煙草と酒のにおいでかなり鼻についた。
ショウは思わず顔を背けた。すると、男は手で無理やり向きなおさせた。
「フン、まだガキじゃねぇか。マックス、どうもおまえの好みに任せるとガキばかり連れてくる。これじゃ売り物にならねぇだろ」
(売り物……?)
嫌な予感がショウの脳裏によぎる。
「す、すみません……。でも、顔はけっこういけると……」
と、マックスがおずおずと答える。だが男は一喝した。
「顔じゃねぇんだよ、いつも言ってるだろうが!身体で見極めろってな」
そう言うと男はショウの尻をなでた。
背筋に寒気が走って、ショウはとっさに拳を振りかざしていた。
「なにしやがる、エロおやじ!」
しかし、ショウの拳はあっけなく往なされた。代わりに男の平手がショウの頬を打つ。
バチィンッ
痺れるような音が部屋に響いたのと同時に、ショウは反動で床に張り倒されていた。
「痛っ!」
あまりの痛さと衝撃に、悲鳴が悲鳴にならなかった。
男は冷笑した。
「威勢だけはいいな。おい、マックス、2007番の部屋に入れとけ。あの部屋はもうすぐ空くからな」
「は、はい」
マックスはのろのろとショウを起こすと、ひきずりつつも言われたとおり2007番の部屋へとショウを運んだ。
2007番の部屋は、リビングルームからほとんど目と鼻の先のところにあった。2007番というのは、どうやら部屋の順番を示す番号ではないらしい。
ショウはおとなしくマックスに従った。この男相手ならいつでも逃げ出せるが、その先にいるあの男には歯が立たないと判断したからだ。今は出口までの間に、必ずあの男と接触する。別の機会を見て逃げ出したほうが得策だ。
(それまで情報収集でもするか)
「おい、ここはどこなんだ?」
部屋の前まできてショウはマックスに聞いた。
「家です、はい」
と、マックスは即答する。
「んなこと、見りゃわかるんだよ!」
「だ、大丈夫です。親方はああ言ってたけど、僕は君のこと……か……か……」
「か?」
「かわいい……と思います、はい」
と、マックスはぼそっとつぶやいて、血の気のない顔を赤らめた。その瞬間、ショウの全身に鳥肌が立つ。
(うげっ。なんだ、こいつ。気持ち悪りぃ……)
さほど有力な情報も得られずに、ショウは部屋の中に押し込められた。ドアが大きい音を立てて閉まる。案の定、中から開けようとしても開かなかった。
(ちっ。それにしても……)
ショウが入れられた部屋は、異様な空気に包まれていた。香をたいているのか、煙たくて、何のにおいか識別できない甘いような酸いようなにおいが充満している。息を吸うとそれが鼻に入ってきて、思わずむせる。気持ち悪くて吐きそうにもなるので、なるべく吸わないように手で口と鼻を押さえることにした。
部屋は至ってシンプルだった。必要最低限の家具とベッドがあるだけだ。そしてベッドには、誰か眠っている。どうやらこの部屋の持ち主らしい。
ショウが充満したにおいに四苦八苦しながら部屋の様子を伺っていると、ベッドで寝ていた人物がのっそりと起きだしてきた。眠気眼をこすりながら上半身を起こすと、呆然と立ち尽くすショウに目をやる。
「誰ぇ?」
ピンクの長いうねった髪をした、妙にスタイルのいい女だった。
胸と腰を覆うだけの服は、下着のようにレースやラインストーンがあしらわれている。腰にはパレオを巻いていたが、透けるような薄い素材で、隠すというよりも艶めかしさをさらに強調する役割を持っていた。
女は、豊満な胸を両腕で挟み込み、まるで猫が動く物に興味を示した時のように、うつろな目でショウをじっと眺める。
「新入りぃ?名前はぁ?」
「俺は、ショウ」
「ふぅん。ショウっていうんだぁ。あたしは、ダリア。よろしくぅ」
と、ダリアは猫なで声で言った。眠いからこんな声を出しているのではなく、もとからこいう口調のようだ。さっきから開ききる様子のないうつろな目ももとかららしい。
「ねぇ、何歳ぃ?」
「十三歳」
「まだ子どもじゃなぁい。あたし、十六歳ぃ。お姉さんだねぇ」
そう言って、ダリアはクスクス笑った。何がそんなにおかしいのか、ショウには全くわからなかった。それでもつられて笑ってしまう。彼女の異様な雰囲気に呑み込まれそうで怖い。
「ねぇ、それ取ったらぁ?」
と、ふいにダリアはショウの身体に巻きつく黒い布を指して言った。
「部屋の中じゃいらないわよぉ?」
「あ、ああ」
ショウもうっかり忘れていたようだ。黒いベールを脱ぎ去ると、ふうと一息ついた。そして、しまったとばかりに咳き込む。これもうっかり忘れていたが、この部屋にはなんとも言いがたいにおいが充満していたのだった。
「あらあらぁ、大丈夫ぅ?」
そう言って、ダリアはベッドから抜け出て、咳き込むショウの前に立った。
「ごほっごほっ、だいじょ……」
異様な香りにむせていたショウだったが、あるショックから息が止まるほど空気を吸い込んでしまった。
咳き込むショウに、何を思ったかダリアは抱きついてきたのだ。そして優しく背中をさする。その行為に、ショウは心臓が止まる思いがした。人肌の温かさが身体を包み込む。
しかも、彼女は薄く肌の露出した衣装を身に纏っていた。それはつまり、彼女の肌の感触が直に伝わってきているということだ。
ショウは石のように硬直していた。自分でも驚くほどに鼓動が激しく高鳴っている。呼吸も乱れていくのがわかる。それを悟られるのが嫌で、ショウは大きく深呼吸した。空気をめいっぱい肺にためてゆっくりと吐き出す。すると驚くほどに気持ちが楽になったのと同時に、妙な高揚感に襲われた。固まっていた身体がだんだんほぐれていくのがわかった。
ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。部屋に充満するあのにおいとは違う、もっと近いところから放たれたいい香りだ。それがダリアの身体からだとわかったときには、ショウは顔をうずめて香りに浸っていた。そう、自然とダリアを抱きしめる格好になっていたのだ。
「大丈夫ぅ?」
と、ダリアの甘い声が子守唄のように聞こえた。
ショウはダリアを抱きしめた腕に力をこめた。ぐっと彼女の身体を引き寄せる。二人の間に隙間ができないほど強く。
ショウの異変に気づいたダリアは、抱きしめられながらも小さくもがいた。彼女が動こうとすると、ショウの腕の力によってきつく引き寄せられる。さすがに痛みを感じた彼女は、全身を使ってショウの身体を引き離した。そのことによって、ショウはダリアに突き飛ばされる形になった。
ダリアに突き飛ばされて、ショウは我に返った。
(俺、何を……?)
自分の身体に柔らかい肌の感触と温もりが残っている。
「あの、ご、ごめん……」
と、ショウは恐る恐る彼女を見た。彼女を不快にさせたのではないかと不安になりながら。
ダリアは目を細めてショウを注意深く眺めると、不快な顔をするどころか妖艶な笑みを浮かべてささやくように言ったのだ。
「あんた、男でしょう?」
ショウは全身の血が沸くのではないかと思った。それほど熱く身体が火照っていくのを感じたのだ。
自分が男であることを別に隠しているわけでもなかったはずなのに、鼓動がやけに速くなる。正体がバレたからという理由ではない、もっと別の理由の動揺が彼を襲っていた。
ダリアは口元をゆるめてクスッと笑った。動揺するショウをおもしろがるように。
「やっぱり。においでわかった」
「におい?」
唐突にそう言われて、ショウは自分のにおいを嗅いでみる。しかし、当たり前だが自分の放つにおいなどわかるわけがない。
ダリアはそんなショウの様子を見て、ますますおもしろそうに笑った。
「ねぇ、なんでそんな格好してるのぉ?男のくせに……」
まるで何もなかったかのように笑うダリアに、ショウは狼狽気味に答えた。
「まあ、これは、その、いろいろとわけが……」
ショウは相変わらずローゼンシュトルツでの典型的な女装束を身に着けていた。もうあまりにも慣れすぎて、どうとも思わなくなっていただけに、改めて問われるとどう説明していいかわからなかった。
だいたい説明しようとなると、ローゼンシュトルツにやってきた経緯から話さなければならなくなる。それははっきりいって面倒だった。
「とにかく、説明には時間がかかるから」
「ここにいたら、時間なんていっぱいあるじゃなぁい」
と、ダリアはショウに顔を近づけた。唇が触れるかと思うほど近い。
「お、俺にはねぇんだよ」
ショウは赤面しながら顔を背けた。そして、ドアを開けようとノブを無造作に回し始める。しかし、当然ながら開く気配はない。ドアを叩いてもみた。誰かが気づいて開けてくれるかもしれない。しかし、これも何の反応もなかった。
初めからわかっていたことだった。外から鍵がかけられていることも、たとえドアを叩いたところで誰も来るはずがないことも。ただ、早くここから出たかった。でないと、自分が自分でなくなるという不安に刈られたのだ。この部屋の煙たさと、ダリアのなでるような甘い声が、自我を失わせていくような気がする。
「無駄よぉ、そんなことしたってぇ」
ダリアの猫なで声がショウの耳をくすぐる。再び言いようのない感覚がぞくぞくと背筋を通り抜けて、ショウはかぶりを振った。
「ここから出られるわけないんだからぁ。私もあんたもクモの巣にかかちゃったんだから……」
「クモの巣……?」
「そ。あ、でもあんたはクモのほうかな」
そう言ってダリアはベッドに腰掛けた。妖艶な笑みを浮かべながら、細くて長い足を組みかえる。ショウは彼女を直視することはできなかった。常に目をそらしながら会話する。
「ここ、やばいところなんだろ?あんた、こんなところにいて平気なのかよ?」
「平気だと……思うの?」
そう口にしたダリアの目つきが変わった。うつろな目から冷徹な目へと。
「誰も好きでここにいないわ。でも一度かかってしまったクモの巣からは逃れられない。どんなにもがいても無駄。あたしたちはただ喰われるのを待つだけ」
「そんな……。諦めんなよ。逃げ出すチャンスなんて、きっといくらでもある!」
「なにそれ、同情?」
そう言うと、ダリアはお腹を抱えて笑い出した。むき出した足を上下にバタバタさせて、大声で笑う。しかしなぜかちっともおかしそうではなかった。
ひとしきり笑うと、何事もなかったかのように静かになった。そして、冷ややかに言う。
「喰う側のやつに言われたくない」
彼女の痛烈な一言に、ショウは言葉を続けることができなかった。唇をかみしめ、拳を握り締める。自分に何も言う権利はないと、思い知らされた気がした。
押し黙ったままうつむくショウに、ダリアは微笑を送った。ベッドから立ち上がり、ゆっくりとショウに近づく。歩くたびに、彼女の豊満な胸が揺れた。その胸元には“2007”のタトゥーが刻まれていた。
「ねぇ、あんたにわかるぅ?」
うつろな目つきに戻ったダリアは、甘い声でショウの耳元にささやく。
「クモに喰われていくエサの気持ちがさぁ?一枚二枚と羽をもがれていく蝶の気持ちがさぁ?もがいてももがいても、自由になれないの。叫んでも叫んでも、救われないの」
ダリアはショウのあごに細くてしなやかな指をかけると、うつむく彼の顔を押し上げた。
「ねぇ、あんたにわかるぅ?絶対、わかりっこないわよねぇ。あんたは醜いクモだものぉ」
そう言ってダリアは冷ややかに笑う。ショウは小さく首を横に振った。
「あんたもマックスも親方も……みんなみんな同じ……。あたしたちの自由を奪って楽しんでるんでしょぉ?ねぇ?」
ダリアの瞳がショウの瞳の中に入り込んでくる。その色は、深い悲しみと憎しみの色だった。ショウの顔をつかんだ指に力がこもる。
「“ヴォルフ”のくせに……!」
ダリアは吐き捨てるように言った。そのとき、ショウは気づいた。この憎悪の色に染まった瞳を、自分が今まで何度も目にしてきていたことを。ミルテの瞳、アイリスの瞳、街で遭った娘の瞳、女剣士の瞳、闘技場での民衆の瞳……。彼女たちはみんな同じ瞳を向けていた。それに気づいたとき、ショウは彼女たちの瞳にこめられた真の叫びを聞いたような気がした。
なぜ『薔薇の革命』が起きたのか、なぜローゼンシュトルツという国が生まれたのか、このときショウはようやく理解することができた。全てはクモの巣から逃れるための、彼女たちの必死の抵抗だったのだ。
ショウは唇を強くかんだ。ただ一方的に、彼女たちを責めていた自分の愚かさに腹が立つ。心のどこかで、彼女たちに向けていた傲慢な心を恥ずかしく思った。
自分に向けられたこの悲しみや憎しみは、決して忘れてはならないものだろう。決して否定してはならないものだろう。
「それでも……」
と、ショウはつぶやいた。
「それでも俺は、あんたに信じてほしい。みんながみんな、クモじゃないってことを」
ショウはダリアの瞳をしっかりととらえた。もう目を背けたりはしない。
真っ直ぐ強く見つめたショウの瞳には、願いが込められていた。純粋な彼の望みが。
ダリアの手が、ショウの顔から離れていく。今度は彼女が目を背けようとした。しかし、ショウは彼女の瞳を逃がしはしなかった。
「俺が言っても説得力ないかもしんねぇけど、でも、信じてほしい。あんたが思ってるようなやつばっかりじゃないってことを」
「信じるなんて……そんなこと……できるわけ……」
「だったら、俺が信じさせてやる!」
ショウの瞳に、迷いはなかった。
「あんたの悲痛な叫びを、俺は無視したりなんかしない!俺は、ちゃんと受け止める!クモの巣なんかくそくらえだ!俺がそんなのぶっ壊してやる!羽がもがれたからってなんだ?!俺がくっつけて、もう一回自由に飛ばせてやる!」
「ショウ……」
ダリアはショウの力強い眼差しから目を離さなかった。いや、離せなかった。逆に、不思議なくらいその大きな瞳に惹かれていく。
「ここから出よう、ダリア」
ショウは彼女に手を差し伸べた。ダリアは躊躇した。そしてショウの瞳をじっとみつめる。そこに一転の曇りもなかった。垣間見えたのは、一筋の光。
ダリアはその手をとった。まだ幼く小さい手だった。しかし、これほどたくましく熱い手に触れたことはない。これが男の人の手なんだと、彼女は自然とそう思った。