5.
かつ丼も、苺大福も、お味噌汁まで綺麗にはらってくれた。最後の方に口を動かしていたのは神様だけだったけど。その分、あたしと実羽さんはあれこれ話せたし、その中から出て来たことを実行できるだけの時間があった。
「春那ちゃん、本当にありがとう」
「それくらいならお安い御用です」
「ところで、実羽さん。嬉しそうに抱えてますけど、それ、持って行けるんですか?」
大事そうに、ぎゅっと抱え込むようにして持っているけれど、それはただの紙なので、あんまり力を入れるとしわになったり、破れたりすると思うんだよね。その辺は実羽さんも分かっていると思いたい。別に書くのは苦じゃないけど、破ったら実羽さん落ち込むだろうし。
あたしが指摘したら、まるで今思いつきましたといった様子で目を丸くしているけど、実羽さん。これから旅立つ先は、異世界なんですよ。あたしたちの常識が通用、するのか?
「え、持って行けないの?」
実羽さんは持って行けると信じて疑わなかったんだろう、明らかに表情を変えて悲しそうに神様を見つめている。その視線に気づいているはずなのに、神様はお茶をすすっているだけで実羽さんと目を合わせようともしない。
もちろん、それで諦める実羽さんではないので、徐々に距離を詰めながら笑顔の圧をかけていっている、ように見える。
巻き込まれたくないあたしは、後片付けがあると理由をつけてキッチンへと逃げ込んだ。二人とも、あたしと話している時は良いお兄さんお姉さんなのに、どうして二人が揃うとあんな軽口が飛び交うのだろうか。
カチャカチャとあたしが食器を洗う音だけが響く中、呆れたようなため息が聞こえて来た。あれ、たぶんわざと大きな音を立ててるんだろうなあ。
「……服にポケットとか、ないの?」
「あるけど、そんな事でいいの?」
「まあ、そのくらいなら担当が見落としたって言えるだろ」
神様から事前に聞いていた異世界転生の例だと、その時に持っていた物は一緒に異世界にあったりするし、それを使って知識を披露するような事もあるみたいだから、何も持って行けなくて、体だけで行きなさい、になる事はないんだと思っていたんだけど、どうやらそうではないようだ。
実羽さんのケースがどういう状況になるのか、なんてあたしに知らされる事じゃないから何も言えなかったけど、こっそり神様が教えてくれたのは逃げ道、というか抜け道。
何とも思っていなかったらきっとそれだって教えてくれないだろうから、神様なりに実羽さんの事を心配とか応援しているのかもしれない。
「神様、ありがとう! 実羽さん、これで旅立ってもかつ丼作れますよ」
「そうね、材料があるかどうかだけど」
「そこは向こうで頑張りなよ。ないはずはないんだから」
異世界から呼び出す人が生活に困るような事がないように、ある程度は基盤が整っているから心配することはないと聞いてはいても、やっぱり不安はあるだろう。
実羽さんだって、神様とのやり取りをしながらも今までのような笑顔ではなくて少しだけ、影のようなものが見える。そう感じたら、さっきまでの会話とかも全部、不安になっていることを隠すようにしているように思えて来た。
だから、堪えきれなかったようにこぼれたものに、あたしが何かを言う事もないし、それは神様も同じだった。ただ、食器を洗う音と、お茶を啜る音が少し大きくなっただけ。
「出来るかどうかはわたし次第って事ね。……ありがとう」
洗い物も終わって、流しや作業台も綺麗に片付けてから戻ると、二人は向かい合って静かにお茶を飲んでいた。
あたしが戻ってきたことを確認してから、神様が静かに告げた。
「いいかい、案内を呼ぶよ」
ご飯を食べて、いつまでもここにいるはずはないと分かっていたけれども、改めてそう言われると、とたんに寂しさがやってくる。大袈裟に体を揺らしたあたしの反応を見て、実羽さんが苦笑いをしている。実際に行くのは実羽さんで、あたしが反応したってしょうがないのに。
「実羽さん」
「春那ちゃん」
ちらりと神様の方を見れば、小さく頷いてから席を立った。基本的にこの部屋にいる神様は、案内を呼ぶのに、わざわざ自分が動かなくてもいいはずだ。あたしと実羽さんだけで話す時間を作ってくれるために、動いてくれた。言うと否定されるけど、やっぱり神様は優しい人だ。
「わたしね、彼氏とご飯を食べていたの」
最初に口を開いたのは、実羽さん。静かな部屋だからお互いの息遣いだってよく聞こえるのに、一言だって聞き洩らさないように、口をきゅっと結んでしまう。
聞くことのなかった、ここに来るまでの状況。それは神様は知っているだろうけど、あたしのところには教えてくれなかったこと。ぽつり、ぽつりとその時を思い出すように、かみしめるように話し始めた実羽さんの手は、少し震えている。
「良い雰囲気のレストランでね、話があるって呼ばれて。プロポーズされると幸せになるってジンクスがついている席に案内されたの。
肝心な話は、聞けなかったけどね」
彼氏とご飯を食べていただけでもショックなのに、そんなジンクスがある席に案内されていたのだったらそりゃあその後の展開を期待するだろう。来た時の実羽さんのあの様子、そんな状況だったのだったら納得だ。
もしかしたら、彼氏とその後の人生を共にするかもしれない。そんなタイミングで呼び出されてしまったのだったなら、いきなり知らない世界に旅立ってほしいなんて言われたって頷けないし、帰りたいと思うだろう。
「自分から話をすれば良かったんじゃないか、って今では思うのよ」
ふふ、と静かに笑っている実羽さんは、今ではもう自分の状況を受け入れているようで。だけどもしあの時に戻れるなら、なんて思っているのかもしれない。だから、と続けられた言葉には、力強い響きがあった。
「だから異世界? に行ったら自分の思ったこと、ちゃんとに伝えるわ」
「……実羽さんだったら、できますよ」
あの神様とのやり取りを見ていたら、思っていたことを黙っている事なんてしていないと感じたけど、それは言わないでおく。
むしろ、そう思っていたから神様とのあの軽口の応酬だったのかもしれないけれど。それなら、実羽さん行動力あり過ぎじゃないだろうか。
「かつ丼、美味しかった。苺大福も。
だから、行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
最後にギュッと抱き合ってから、神様が呼んできた担当に着いて行った実羽さん。最後にクルリと振り向いて、あたしに笑ってくれたその表情は、とても綺麗だった。
だから。
「神様、ノートとペンをください」
「春那」
実羽さんが部屋から出て、扉が閉まりきるまでずっと隣に立ってくれていた神様の服の裾を掴んで、震えそうになる声を、どうにか絞り出した。あたしの思い描いているものは神様に伝わっているのに、それを使う目的がいまいち分かっていないんだろう。ちょっとだけ首を傾げながらも思った通りのノートとペンを差し出してくれた。
「ここに来た人が忘れちゃうんだったら、あたしが覚えておく。そこまで記憶力が良い訳じゃないから、忘れないように書き留めておくの」
実羽さんだって、ここの事を覚えているのか分からない。確認だって出来ない。かつ丼のレシピは渡したけど、それを見たって、あたしの事は何も書いていない。
「その人が、感じた気持ち。いつかあたしが料理を出すことが無くなったとしても、忘れないように」
「……そうだね、それがいい」
「うんっ……! 最初が、実羽さんで良かった」
そうして神様のふんわりとした服を借りて、あたしはしばらく泣いた。来たときみたいに声を上げることはなかったけど、しばらく、涙は止められそうになかった。
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次回、後日談です。