2.
「知り合い、って……」
「言葉の通りだよ。だけど、春那が覚えているかどうかはまだ分からない」
真っ先に浮かんだのはおばあちゃん、そして母親。それから近所のおばさま方に、畑を手伝ってくれるおじいさん。寿命、という括りだけで見たらきっとあたしよりも短かったはずだ。まあ、あたしの方が先にここに来ることになったのだけれど。
覚えていないかもしれない、そう言われて知らずに詰めていた息がゆるゆると吐き出されていった。だって、言われた瞬間に頭に浮かんだ人達ではないのだと、分かったから。
だからと言って、関わりのあっただろう人がここに来るような事態になっていることに安心してもいい理由にはならない。
「今まで、ここに来た人達にはいなかった、よね?」
「ああ、軽くだけど調べてから連れて来ていたからね」
もしかして、あたしが覚えていなかっただけで、今までもどこかで関わった事のあった人が来ていたのかもしれない。そう考えたら思わず質問が口から飛び出したけれど、どうやらそんな状況は避けられるようにしていてくれたらしい。たぶん担当さんと、神様もだろう。あたしが必要以上に気を病まないでいいように、見えないところでいろいろとやってくれていたようだ。
「あいつが担当するようになって、その辺りを今まで以上に調べるようになったから。
……今までが適当だったのかもしれないけれど」
最後、吐き捨てるような言葉は神様にしてはかなり珍しくて、声の低さも相まって反射的に体がビクッと動いてしまった。気づいた神様が途端に申し訳なさそうな表情に変わる。
「大丈夫、びっくりしただけだから」
そんな声も出るんだね、と張りつめた空気に気づかなかったように明るく告げれば、ようやく神様が表情を緩めてくれた。
それにしても、担当さんには知らなかったとはいえ、かけなくてもいい苦労をかけてしまっていたみたいだから、どこかでお礼をしないといけないなあ。
「それで、その人誰なの?」
「悪いけど、これ以上は教えられない」
ふにゃりと気の抜けた顔でも、さっきみたいに申し訳なさそうな顔でもなく、すっと変わった表情は、ぞっとするほどに整っていて。見慣れているはずのその顔が、どうしてだかとても遠く感じて、自分の意識しないところで、ぎゅっと手に力がこもっていく。
「知り合いかも、っていうだけでもギリギリなんだ。それだって、さっきの春那を見てからじゃないと決められなかった」
そっと優しく触れる神様の手が、固く握って動かなくなったあたしの手をゆっくりと解いていく。ゆるゆると開いた手のひらには、握った時についたのだろう。赤く短い線が何個もついていた。これくらいだったら少し冷やせばすぐにおさまるだろう。自分のことながらぼんやりそう考えたあたしよりも、慌てたのは神様で。おろおろと手当てを、なんて言いながらどこからともなく包帯を取り出したものだから、今度はあたしが慌ててその行動を止める。
「今まで、春那がここの人達と一緒に行きたいと言わなかったから。自分のいる場所の意味を弁えているから教えてもいいと判断した」
だけど、しばらくの間はモヤモヤさせると思うと言いながら頭を下げた神様を見て、もしかしてという思いが膨らんでいく。
そんな思いを見透かされたかのように、絶妙なタイミングで名前を呼ばれた。
「春那」
どうして、あたしよりも傷ついたような苦しいのを我慢しているような表情をしているのだろうか。それなのに、あたしの名前を呼ぶ声は酷く優しい。
「覚えておいて。春那がここに来ることになった理由も、ここで料理を作ってもらう事も、全部俺たちの都合だって。
春那は、嫌だと言えるしもっとわがままになっていいんだよ」
ああ、やっぱり。さっきもしかして、と膨らんだ考えが自分の頭の中でどんどんとクリアな想像として浮かび上がっていく。
例えば、あたしがここに来る人について行ってこの空間の外に出たら。
おそらく、神様はあたしの事を引き留めることなくその行動を見逃すだろう。そして、どうしようもないところに向かわない限りは、手も口も、何も出さずにただ見ているだけ。そう望めば、次の世界が待っている人達と同じような扱いだって、してもらえたかもしれない。
傷ついた魂を癒し、準備の整っているあの人達と違って、あたしがどうなるかは分からないけれど。
「あいつは、調べた事を春那に告げるかどうかは悩んでいた。だから、これを春那に話したのは俺の独断。
あいつのこと、責めないでやってくれないか」
「神様にだって、もうあれ以上は言えないよ。……取り乱して、八つ当たりしてごめんなさい」
言ってなかったよね、と下げた頭の上に、ぽんと優しい手の温もりがやってくる。気恥ずかしかったのが嘘のように、今ではその温もりが戸惑いなく触れてくれることを嬉しく感じるくらいに慣れた、感触。
もしかして、なんて考えてもしょうがない。あたしはそうしなかったし、優しく触れてくれる神様にだって、答えてくれるかどうかは別として、聞かなかった。
それを、あたしが選んだ。
「春那が謝る理由になるのは、ただひとつだけだよ」
「ひとつ?」
「……俺にもっと早く、この甘い卵焼きを教えてくれなかったことだ」
思っても見なかったことを言われたので、がばりと顔を上げたら耳を真っ赤にしている神様と目が合った。
ばっちり合った視線は直後、想いっきり逸らされてしまったけれど。
照れているのだと分かるその仕草に、笑って目尻を拭った。
「何か、お腹空いたね。神様リクエストある?」
「うーん……今の俺は、甘い物が食べたい口、かな」
「あはは! それはいつもでしょ!」
パン、と手を合わせて叩き、気持ちと空気を入れ替えるように声を上げる。意識して張った声は、思っていた以上によく響いた。
そんなことをしなくても、あたしの気持ちは神様にしっかり伝わってしまっているのだけれど。にやりと笑った神様は、もちろんその意図を汲んでくれている。
「前に作った、だいがくいも? が食べたいな」
「ああ、それなら今度はおかずじゃなくておやつとして食べようか。バニラアイス添えると、めちゃくちゃ美味しいよ」
「春那、そういう事は隠してはいけないと思うんだけど?」
冗談でもなんでもなく、本気で口を尖らせ始めた神様を宥めるために、考えていた量の倍で大学芋を作るはめになった。神様の甘い物に関しての熱量を見誤っていたみたいだ。
うん、大丈夫。
知り合いが誰であろうともこの人たちが一緒だったら、あたしは受け入れられるし笑って見送ることが出来るだろう。




