2.
「実羽、今日気合入ってない?」
始業前の化粧室、同僚から声をかけられた女性が顔を上げる。目の前の鏡に映るのは、会社の規定に引っかからない程度に明るくした茶色の髪を緩く巻いた自分の顔。編み込みを入れてハーフアップにしているが、ゴムはいつもとなるべく変わらないものを選んできたというのに。
わずかに動揺した内心を隠すように、目を伏せてから返事をするために振り向いた。
「え、いつも通りだけど?」
「いやいやー、髪の巻き方がいつもより丁寧だし、艶もあるじゃないですかー」
冗談を告げるような雰囲気ながら、自分の考えが間違っていないと分かっているかのように自信に溢れた声と笑顔を向けて来るのだ。これは、この場で話してしまった方が後々楽になる、そう学ぶくらいの付き合いはあるつもりだ。
降参、と示すように両手を軽く上げて薄く笑う。
「紗季には敵わないわ」
「それで?」
先を促す言葉と、興味に輝く表情。そこまで期待されるような事ではない、と思っている気持ちを前面に出しながらも実羽は言葉を続けた。
「あ、うん。今日の夜、峻也とご飯行くから」
「おお? ついにかい?」
「そんな感じじゃなかったけど、そうだったらいいなとは思う」
高校卒業の少し前から付き合って、もう十年が経つ。最近では恋人らしいことはあまりしていないが、それでも休みが合えば一緒に出掛けたりはしている。しばらく仕事が忙しいから、と連絡が素っ気なかった彼氏からの、お誘い。それも、記念日でもなんでもない日に。
実羽の友人は、実羽が結婚に憧れを持っていることを知っているし、叶うなら相手が峻也であればいいと願っている。
だからこそ、紗季の言葉は本心だったし、そうなるならお祝いしなければ、というところまですぐに頭は動いていた。
そして、その考えは夕方、終業時刻間際に大いに発揮されることになる。
「うわ、ギリギリ。紗季が変わってくれなかったらやばかったな」
パタパタと、大股にならないように気を配りながら小刻みに足を動かしながらも、気になるのは待ち合わせの時間。
終業時間に会社を出れれば余裕をもって着けると考えていたのに、先方からの急な依頼が舞い込んできたのだ。終業十五分前に。
依頼を持ってきた顧客は、実羽の持ち回りだったので必然的に割り振られることに対しては文句はない。ただ、どうしてこのタイミングだったのだろうと表情に出してしまうくらいには、峻也との食事を楽しみにしていたのだ。
それを、さっと変わってくれたのが今朝話して事情を知っていた紗季だった。急いで会社のすぐ近くにあるコンビニでチョコを買って差し入れ、癖のある顧客なので注意しないといけないところだけを簡単に伝えてからあとは任せたとばかりに飛び出してきた。
余裕のある到着だったはずなのに、さっと手櫛で髪を整える程度にしかならなかったが、それでも遅刻するよりはいいはずだ。
弾んだ息を落ち着かせるように深呼吸をしてから、待ち合わせに指定されたレストランの扉を開く。
「いらっしゃいませ」
「あ、すいません。待ち合わせなんですけど」
「ご案内いたします」
心得たように頷いたウェイターが、さっと翻した背中を追いながらも、視線はあちこちを彷徨う。
無理もない、ここは恋人たちに人気の高いレストランなのだから。夜景が綺麗に見えるテラス席は特に人気で、その席で結婚を申し込まれた、なんて話も数知れず。
自分の彼氏はあまりそういうものに詳しくなかったけれど、このレストランを指定されて、案内されているのはおそらく例のテラス席。
ここまで揃っていて、期待しないはずがないだろう。さっきよりも違う理由で高まる鼓動を静めるように、実羽は胸にそっと手を当てた。
「峻也、お待たせ」
「お疲れさま」
先に席についていた峻也は、いつもなら軽く片手をあげて返してくるのに、少し目尻を下げるだけ。僅かに緊張した面持ちが見えるその様子に、実羽の緊張も高まっていく。
頭の中では、ついにプロポーズされるのか、という期待と、そんなはずはないという否定がグルグルと巡っている。
が、そんな気持ちは見せずに席に座って峻也に問いかける。
「話があるって、どうしたの?」
「うん、まあ、ちょっと。これからの事で」
返事にもなっていない返事だったし、明らかに歯切れは悪かったが、そこを追求しようとする前にメニューを差し出されてしまった。
「先にご飯頼むか」
あ、いつもと変わらない笑顔だ。そう思って安心した実羽はメニューに目を通す。
プロポーズに選ぶ人が多いだけあって、料理は記念になりそうなお洒落なものもあったが、そうとは決まってないと自分に言い聞かせて無難なものを選んだ。案内をしてくれたウェイターが注文を取りに来た時に、峻也がほっといたように胸を撫で下ろしていたのは、疑問に思ったけれど。
「少しだけ、席外すな」
先に運ばれてきたドリンクで唇を湿らせた程度だというのに、考え込んだような難しい表情で告げて来た言葉には、頷いて返す。
何を計画しているかは知らないが、おそらく今日も記念日になるのだろう。そう思ったらこうやって待つ時間も悪くはない。
そう思ってドリンクに手を伸ばした瞬間、視界が真っ白に塗りつぶされた。
*
「ようこそ」
神様から、お金を取るお店ってわけでもないし迎えるならようこそじゃないか、と言われたので
そうやって出迎えようと、笑顔と共に待っていたのに。
「ようこそ、じゃないわよ!」
「え?」
あまりの剣幕にそのまま固まってしまったけれど、やってきた女性はそんなのお構いなしと詰め寄って来たので、あたしが服の端に隠れられるようにさっと立ち位置を変える。
「説明、されなかった?」
「聞いたけど、信じられるわけないじゃない! さっさと帰してよ!」
説明というのはあたしがここで目覚めた時のような事で、それは異世界転生をする前に必ず必要だそうだ。ただし、ここの事を覚えていられるかどうかは本人次第らしいけど。大体半分くらいは傷が癒えるのと一緒に、ここで過ごしたことを忘れてしまうとも。
ここの事を忘れる代わりに、前世の事をよく覚えているからどっちがいいとも決められず、転生する本人に任せるとなったそうだ。
とにかく、あたしが今気にしないといけない事はそっちじゃない。
「神様、どうしたらいいの?」
「どうするも、僕が見ても彼女の魂は傷ついてるし、次に向かうためには癒しが必要だ」
あ、やっぱり神様は見えるんだ。傷ついてるかどうか。こうもきっぱり言い切るなら、料理は必要になるんだけど、今の女性の姿を見ていると素直に料理を出しても、手を付けてもらえなそうなんだよね。
「ねえ聞いてるの!?」
「……聞いてます」
「じゃあどういうつもりか答えてくれる? わたし、これから大事な話があるんだから」
「えーっと……」
相も変わらずあたしの前で盾になってくれている神様が答えないものだから、女性の矛先は後ろに引っ込んでいたあたしに向かってきた。
さっきからの叫びを聞いている限り、元の世界に戻りたくてしょうがないというのは伝わってくる。だけど、あたしにそれをどうこう出来る力はない。もちろん、そんなの女性からしたら分からない話だろう。
「はいそこまで。彼女は担当が違うよ」
「別部署だろうと質問には答えられるでしょ?」
「君のは、質問というより詰め寄る、と言った方が正しいかな。八つ当たりは良くないよ?」
すごいのは神様だ。あたしは、女性に詰め寄られただけで言葉を詰まらせたのに、話を聞いたうえで自分の話も相手に理解させるのだから。
八つ当たり、そう聞いた女性はぐっと唇を噛み締めた。それから、ばつが悪そうにあたしを一度見てから視線を足元に落とした。ラインストーンが並んできらきら輝いているヒールは、丁寧に扱われているようで履き慣れているみたいなのに光沢を失っていない。
そんなヒールに、ポタリ、と雫が落ちる。
「……じゃあ、どうすれば帰れるのよ。これから、異世界に旅立ってもらいますなんて言われてもはいそうですかなんて、納得できるはずないじゃない!」
堪えようとしても、溢れて止まらない涙。拭っても、目元が赤くなってもまだ止まる気配はない。
ああ、そうか。このお姉さんだってあたしと同じなんだ。突然、理不尽に居場所から弾かれたのに、知らない世界に転生してください、なんて冗談とも思えないような事を告げられて。
「分かります」
「そんな簡単に――」
「だって、あたしも一緒だから」
女性がハッと息を飲んだ音がやけに響く。もともと真っ白だったこの空間には、音を立てるものは存在しなかった。今ではあれこれ揃っているけれど、あたしか神様が動かさないと音を鳴らすものはない。
「ここにいる、ということはそういうことだ。さて、それでも君は彼女に当たるかい? 明らかに年下の、彼女に」
「神様、そんな言い方は」
「ごめんなさい」
あたしだって悲しいし、戻れるなら、って思わないとは言えないけれど、ここで役目をもらったのだ。それなのに、女性を責めるような事はあまり言わないでほしい。あたしのために怒ってくれたことは、嬉しいけど。
複雑な気持ちをもって、女性を見ていたらぐいっと目尻に溜まった涙を拭いた女性が、直角かと思うくらいに深く腰を折った。
慌てて神様を見たけれど、面白そうににんまり笑っているだけで、何も言おうともしないし、女性は頭を上げようともしないであたし一人だけがわたわたしてしまう。とにかく、頭を上げてもらおう。
「いえ、いいんですよ。それで、ですねここは」
「料理を、出してくれるんでしょ」
まだ目は赤いけど、どうにか笑おうとしているのが分かる。さっきの八つ当たりだって、分かってだけど、吐き出す場所がなかったんじゃないかと思うんだよね。今の女性は、ふんわりと巻かれた髪もあるけど優しいお姉さんって感じがするし。
「聞いてます。異世界に行く前に、知らないうちについてた傷ってものを治すためだって」
「ちゃんとに聞いてたんだね」
「一通りは聞いたわ。だけど、あんな言い方じゃ信じられないから」
「あいつ、どんな説明したんだ……」
神様が頭を抱えているけれど、女性はちゃんとに説明を理解していた。どんな話し方だったのかは、確認しておいた方が良さそうだけど。来て早々に怒鳴られる経験はこれっきりにしたい。
「それで、何を作ってくれるのかしら?」
「あ、はい。専門学校に通ってたので、ある程度のものならお応えできます」
「あら。じゃあね、ひとつお願いしたい物があるんだけど」
ようやく自然な笑顔を見せてくれた女性のリクエストに、あたしは目を丸くしたけれどすぐに頷いた。
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