肉じゃがと家庭の味
「へえ、春那ちゃんって言うの。こんな若いのに頑張ってるんだねえ」
おじさん感心しちゃう、なんてへらりと笑うのは、カウンターで頬杖をついている男性。自己申告の通り、年齢だけを見たならばおじさんと呼んでも差し支えないんだけど、笑っているくせになぜか警戒しないといけないような、そんな気分になる視線が送られてきている。
「何か、前にもこんなノリの人来なかったっけ?」
「さあ、どうだったかな」
むしろ、前にここに来たことがないならこういうノリのおじさんと接する機会がほとんどないあたしにとっては、覚えがないの一言で片づけられてしまうのに。
感情を感じ取れない笑顔をあたしに向けて来る神様に、ため息をひとつ。
「はあ……確かに担当さんが連れてきた以上、あたしが口出しすることじゃないのは分かってるんだけどさ」
一言で言えば、関係ないから。そう直接言ってこないのは神様の優しさであって義務ではない。こう、言葉の裏を読み取るなんて高度な技術を持っていないあたしには、こうだろうと予想すのが精一杯。今のところは神様からも、担当さんからも修正されることがないからだいたい合っている、という事なんだろう。
「なになに、相談終わった? そしたらおじさんの食べたい物お願いできる?」
「ああ、はい。すいません。お願いします」
あごには無精ひげ、パーマをかけているのかくせ毛なのか分からないうねった髪の毛、おまけにちょっと色のついたレンズの眼鏡をかけているから、目を凝らさないと瞳を見ることなんて出来ないのに。
今、へらりと笑いながら片手を上げている姿なんて、どこか小料理屋で大将と仲良く話している常連のおじさん、としか見えないのに。どうしても、最初に送られてきていた鋭い視線が気になってしまう。
そんなあたしの構えた姿勢に気づいているのかどうかも分からないまま、おじさんは言葉を続けていく。
「この年になると和食が恋しくなってきてねえ。ほら、家庭の味ってやつ?」
「おじさんはスーパーの総菜売り場が家庭だったけど」
「……一人だったら、便利でお手軽だと思いますよ。作り過ぎちゃうと飽きるじゃないですか」
「春那ちゃんはいい子だねえ。っと、あんまり無駄話してると怒られちゃうわ」
ほら、とでも言いたげに視線を送った先にいるのは、担当さんと神様。テーブルを使っているんだけど、二人の顔はこちらには向いていない。神様は背中を向けているから、おじさんの動きなんて分かるはずもないし、担当さんは真剣な顔で神様と何かを話している様子だ。
「担当さん、ですか?」
いつもここに来るときは優しそうな笑顔を浮かべているから、怒る所が想像できなくて首を傾げてしまう。おじさんはきっと神様とは初めましてだろうけれど、こっちだってここでおじさんと接している間に怒っているような表情はしていない。あたしだって神様の怒った表情は見たことがないんだから。
「さあ、どうでしょうねえ」
ちょっと前に違う人から聞いた、どうとも取れない返答の仕方に思わず苦笑いを浮かべてしまったけれど、直後に伝えられたリクエストに、湧き上がる気持ちのまま笑顔を作った。
「春那、すごく変な顔で返事してたけど」
「え!? そ、そんなに顔に出てた?」
自分では一応、抑えたつもりだったんだけど。他の二人はともかく、ここで一緒に過ごす時間が長い神様にはそれなりに分かってしまうらしい。あたしの頭の中でもお花は舞っていたし、同時に何とも言えない気持ちになっていたから、変な顔になるのも仕方ない。キッチンに入ってすぐに神様が声をかけてくるくらいだから、もしかして担当さんとおじさんも分かっているかもしれない。
「あのね、肉じゃがってあたしが作れる料理の中でも得意なの」
「へえ、今まで作ったことはなかったよね」
「リクエストされなかったっていうのもあるけど、もう、味を確かめてくれる人はいないから」
おばあちゃんが教えてくれた肉じゃが。だけどそれを作っても、あたしが求めている味との違いを感じてくれる人は、もう隣にいない。母親だって、あたしが作った肉じゃがを楽しみにしてくれていた。おばあちゃんとは味見と言いながら作っている最中につまんではこの味が薄いだとか、今回はお肉が固くなっちゃったとかいろいろ話していた。
自分がまだあの味に追いついていないと分かっているからこそ、作れなかった。得意だと言いながらも、これ以上に自分の理想の味に近づけることは難しいのだと分かってしまったから。
「春那の基準になってるのと比べることは出来ないけど、今の春那の味から比べる事なら出来るんじゃない?」
自分の考えていたことで沈んでいたから、神様の声が聞こえたことでのろのろと顔を上げる。そこには、少し照れた様子でかたくなにあたしと目を合わそうとしない神様の姿があった。
「だって、俺はこれが初めての肉じゃがになるんだし。今日の味から美味しくなったかどうかなら確かめられるよ。味見は得意だ」
出来ない事を数えるよりも、出来ることを見つけようなんて普通に言われただけだったら、たぶんあたしは反発しただろう。だって、ここで出来ない事を作ったのはあたし自身には全く悪いところはなかったのだから。だからといって出来ない事を可能にしてくれている神様にそれを言うのは、ただの八つ当たりだと分かっているから態度に出す事も出来ず。
発散できない思いを抱え込んでいるうちに、どこかで歪んでしまうのは簡単に想像がついた。それはきっと神様にも予想がついたから、冗談のような事も加えながら少しでもあたしが負担にならないような言い方をしてくれたんだろう。
「神様って、本当、そういうところずるいよね……」
「で、どうするの? 作る?」
「作る。今日も、これからも」
「そうこなくっちゃ」
さっと手渡してくれたエプロンを身に付ける。汚れが目立たないように、とちょっとお洒落でかっこよく見えるかもと思って黒いエプロンを用意したけれど、今のあたしにとっては気持ちが引き締まる色だ。
「それじゃあ、神様。いつもよりも太めにお願いね」
「ああ、うん。それでこそ春那だよ」
はい、と手渡したのは玉ねぎ。もはやこれは役割分担というよりは神様が玉ねぎ専門になっている。どれだけ試したところであたしの涙が止まらなくなるのは、もうどうしようもない。今までそんなに困ったことはなかったから、ちょっとだけ疑問には思っているんだけど。
その間にあたしはじゃがいもの皮を剥いて、適当な大きさに切っていく。あたしは大きめを頬張るのが好きだから大体四等分。人参はそれよりも少し小さいくらい。まあ、この辺りの大きさは好みだし、分からないならレシピに書いてある通りの大きさにすれば間違いない。
「今回は、フライパンにしよう」
煮物って、冷える時に味が染みるから、と作り置きのようにしていたけれど、今回はそこまで多く作るつもりはないので深めのフライパン。これからは定期的に作るようになるだろうから、そうしたらお鍋を用意すればいい。
「お肉、は牛肉でしょ。あとはいんげんもつけようかなあ」
「はい、春那。玉ねぎ終わったよ」
「ありがとう!」
フライパンで油を熱して、じゃがいもと人参を炒めていく。火の通りが不安だったら最初にレンジでチンしたり下茹でしておけば安心。
じゃがいもの端っこが少し透明になってきたところで玉ねぎを入れる。あんまり大きく動かすと形が崩れちゃうから、焦げ目がつかないように軽くフライパンをゆするくらいでいいのだと教わった。確かに、気になってちょいちょい動かしていたら玉ねぎもじゃがいもも、出来上がった特機には小さくなっていたんだよね。
「よし、お肉入れてー」
「りょうかーい」
間延びした声かけだったからか、同じように返してきた神様はいつもよりも楽しそうに見える。まだ玉ねぎを切ってもらっただけなのに、どうしてだろうとも思ったけれど、ここからはやることが多いのでいったん意識の外に追いやった。目指すのは、あの時におばあちゃんと美味しいと笑い合って作った肉じゃがの味。
「お砂糖と、お水入れるでしょ」
「あ、じゃあ交代しようか。調味料混ぜたいんだよね?」
「助かる。よろしくお願いします」
牛肉の色が変わったら、お砂糖とお水を入れてしばらく煮込む。その間にお醤油とかを混ぜて、この後の味を作っておかないといけないからと思っていたら神様がすっと場所を代わってくれた。
お肉は火を通してあるとはいえ、アクが出ない訳ではないから目を離せないんだけど、頼めるのなら安心だ。
お醤油に、お酒、みりんとちょっとだけ顆粒だし。少しずつ混ぜながらあの味になるように調整していく。これだ、と思える味になったのでコンロの前に戻ったら神様からしゃもじを渡された。
「交代」
「はい。ありがと」
これで役目は終わったとばかりにエプロンを外して、担当さんのところに向かうんだから、本当に神様には助けられてばかりだ。
調味料を回すようにかけて善田に馴染んだら、しばらく弱火で煮込んでいけば完成。
これだけ煮込んでいればまだじゃがいもや人参が固い、とも思わないけれど念のために竹串で真ん中を刺しておく。すっと通ったし、問題ないだろう。別で塩ゆでしておいたいんげんも乗せれば色合いもきれいだ。
「お待たせしました。めしあがれー!」
「うわあ、すっごい豪華じゃないの」
和食が恋しい、と言っていたのにリクエストされたのは肉じゃがだけ。ご飯とお味噌汁、それに肉じゃがなら十分におかずにはなると思ったけれど、和食括りだというのなら少し物足りなさを感じてしまう。ならば小鉢を増やせばいいんじゃないかと作り置きしてあったねぎダレをお豆腐にかけて、ごぼうと牛肉のしぐれ煮も用意した。細々した物が多いからお盆が埋まっているように見えるけれど、実はそこまで手間がかかっていない。
まあ、それを正直に告げるわけにはいかないので、にっこり笑うだけで誤魔化しておいた。
「それじゃあ、いただきます」
お味噌汁を一口、それだけでも嬉しそうなホッとしたような表情を見せてくれたおじさんは、肉じゃがを食べて少しだるそうに細めていた目を見開いた。
「……これが春那ちゃんの家庭の味、ね。うん、美味しい」
感想は、ただそれだけだった。だけど食べ進める様子を見ていたらそれだけで十分だった。美味しいと思ってくれていることは、よく分かったから。おばあちゃんの味、それは今日この時からあたしの味として育てていく。
「いい家庭で育ったんだねえ」
「はい!」
だから、おじさんにもちゃんと笑顔で返すことが出来た。それは、あたし一人だけでは出来なかった笑顔。
それはおじさんも分かっているのか、神様と担当さんが座るテーブルの方にちらりと視線を送って、何度か小さく頷いていた。
席を立ったおじさんは、最後にあたしの頭をくしゃくしゃっと撫でまわしていった。
プルコギで作ったり、鶏肉で作ったりといろいろアレンジします。残ったら潰してコロッケにしたり。それぞれの家庭で違う味付けなのに、食べると何故だかホッとする肉じゃが。好き。
お読みいただきありがとうございます。