ミネストローネと懐かしの記憶
張りつめていたものが途切れると。
この空間は、いつでも快適な温度に保たれている。こたつがあっても暑すぎるということもなく、アイスを食べても体が冷えすぎることはない。
エアコンもないし、何だったら窓だってない。コンロの上に換気扇はあるけれど、それは煙を外に逃がすという役割だけで、空気を入れ替えるほどのものではない。そういえば、料理をしていても汗をかくような暑さになることもなかった。
そう、今までこの空間で気温に関して何か感じたことは何もなかった、のに。
「何だか、今日ここ暑くない?」
「春那?」
今日は午後の時間に仕事が入っているから、自分のご飯も早めに済ませて、その前に出来ることをやってしまおうと思ってキッチンで作業していたんだけど。
いつもは感じていなかった暑さ、そして久しぶりに汗で服が張りついて気持ち悪いなあという感覚に、思わず作業を止めて冷たい水を持ってキッチンから外に出る。
熱がこもっているならこっちのほうが涼しいだろうと思っていたのに、移動しても感じる熱は変わらなくて、美味しそうにアイスを頬張っている神様に問いかければ、きょとんとした顔で返された。
「え、神様暑くないの?」
「暑い、とは思わないなあ」
「そう、なの」
なら、この暑さを感じているのはあたしだけか。冷蔵庫から出したばっかりの水に氷を入れているのに、体の奥の熱が冷える感覚はまるでなくて。ちらりと頭の隅に浮かんだ考えは、そのまま隅っこに置いておこう。前に出してしまったらそうだとしか思えなくなってしまうから。
「春那、今日の仕事はなし」
結局、神様がアイスを食べきるまで休憩していても、感じる熱が治まる事はなくて。もうしょうがないからそのままキッチンに戻ろうと思って席を立ったら、手首をぐっと握って引き留められた。
「え、だって昨日話したじゃない。次が決まったから、必要だって」
「そうなんだけどね。春那、具合悪いでしょ」
「うん?」
昨日の夜にいきなり言われて、さすがに間に合わないから明日の午後にして欲しいってお願いしたのは、あたしからだ。次があるからなるべく急いでほしかったような態度だった担当さんが、一瞬だけ目を細めてこちらを見ていたし。連れてこられていた人は、そんな担当さんの態度に思う事があったのかちょっとだけ眉を寄せていたけれど、やり取りには口を挟んで来なかった。ただ、日を改めるという話にホッとした様子を見せていたけれど。
そんな考えが頭の中を巡っていたからか、神様の言葉に反応が遅れてしまった。
「あー、自覚なしね」
もちろん、それはすぐに神様だって気づいて。あたしがどう誤魔化そうかと考えている間に、分かった顔をしながら手首にあった手がぺたぺたと上に移動しながら、いろんなところを触っていく。そうして、首筋とおでこを念入りに触っていく手の冷たさが離れていくことを少しだけ残念に思っていたら、神様はにんまりとした笑顔を見せた。
「ほら、俺の手、冷たいだろ」
「そうねえ、気持ちいい」
もうここまで分かってしまったのなら、変に我慢する必要はないだろう。冷たいものが当たると、体の熱が外に出ていく感覚がして気持ちいいのだ。頭の隅に置いておこうと決めたのはさっきだったのに、神様がどんどんと前に押し出すように行動するものだから、隠せなくなってしまったな、とぼんやり思ったけど。
「はい、エプロン脱いでー。布団に戻りなさい」
「で、でも仕事……」
「そんなのは後回し。春那が倒れた方が遅くなる」
「う、ごめんなさい……」
「はいはい、そう思うならゆっくり休む事」
いつもののんびりした動きはどこへ行ったのか、テキパキとあたしの身支度を手伝ってくれた神様に言いくるめられて、ベッドに寝かしつけられた。
言葉はぶっきらぼうなのに、ぽんぽんと軽く頭を撫でていく手つきだとか、あたしが布団に大人しく戻ったことを確認した目元なんかはとても優しくて。
ふわふわと落ち着かない中で久しぶりに思い返した懐かしい記憶、おばあちゃんと母親の様子がふっと頭に浮かび、自然と零れた涙は布団に吸い込まれた。
あたしは、あんまり熱を出したことはない。体調管理が出来ていたのか、と言われたらよく分からないけれど、自分が風邪をひいたらおばあちゃんに迷惑がかかる、と思っていたことは覚えている。
畑に行ったり料理を楽しんでいたって、おばあちゃんはあたしよりも当然、いろんなものが弱っている。だからだろうか、母親からはお外から帰ってきたら手洗いうがいを忘れない、とそれだけは約束だと、ずっと言われてた。
だけど、ずっと風邪をひかないというのは、体調を崩さないというのは無理な話で。具合が悪くなったことのないあたしが、朝からずっと赤いままのほっぺたを、おばあちゃんに治らないの、と相談したことで風邪をひいているんだと理解した。そういえば、あの時も今と同じように体が熱くて冷たいお水を美味しいと飲んでいたっけ。冬だったのに。
慌てたおばあちゃんと病院に駆け込んで、薬をもらって安心して帰ってきたら飲み物とアイス、それから缶詰を抱えた母親が待っていて。
あたしが風邪をひいたから、母親に仕事を中断させるような迷惑をかけてしまったのだと申し訳なく思う反面、あたしのために急いで帰ってきてくれたんだというその気持ちがとても嬉しかったんだ。
缶詰もアイスも、飲み物もしばらく困らなかったけど、それよりも大量に買い込んでいたものは――
「あ、起こしちゃった?」
ひょっこりと顔を出した人物に、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。白銀にも見える金髪を垂らし、ちょっと垂れた金目は、心配そうな表情であたしを映している。ゆったりと、空気を含んだような白い服には所々に、金色の装飾具が光っているのに、それは嫌味ではなく着けている本人を見事に飾りたてている。
うん、神様だ。見慣れたその姿に、少し詰めていた息を吐く。さっきまで熱に浮かされたように次から次へと昔のことを思い出していたから、まだ混乱しているけれど。
「はいお水。あと、お腹空いただろ?」
白くてほっそりして見えるのに、ふらつくあたしをしっかりと支えられる腕が背中に回されて、ゆっくりと体を起こしてくれる。ベッドの背もたれに背中を預け、ぼんやりと神様が動き回るのを見ていたら、さっと水が差しだされた。反射的に受け取って、だけど体は確かに水を求めていたらしく、コップの中はすぐに空になった。
そうして、あたしが一息ついてからお盆と一緒に出されたのは、赤いスープ。
「え、神様が作ったの?」
「味の保証はしないけどね。食べれる?」
「食べる!」
はいはい、と相変わらずのぶっきらぼうな返事だったけれど、くるりと背中を向けて準備をしているだろう神様の、髪に隠れていない耳元がほんのり赤くなっている。金糸だし、神様は色白だからすぐに分かってしまうんだけど。照れて、いるのだろうか。
「春那、ずっとトマト冷やしたのを思い浮かべてただろ」
「うん、まあ……思い出してはいたよ」
そう、あの時に母親が大量に買い込んでいたのはトマト。どうやら会社の人に子供が熱を出した時に食べやすいもの、と聞いて買ってきてくれたようなんだけど。焦っていたから赤い何か、としか覚えていなくて、それでスーパーの特売でたまたま一面に並んでいたトマトを種類問わずに買い込んだらしい。
後から聞いたら、会社の人がアドバイスしたのは、いちご、だったそうだ。そのまま食べられるし、甘いから食欲なくても口に出来るだろうと。トマトも美味しく食べたけど、しばらく母親はトマト見たくないとか言っていたっけ。
それを寝ている間に夢で見ていたくらいだから、きっと神様にも伝わっていたんだろう。どれがどこまで伝わっていたのかを、確認しようとは思わないけど。
「食べたいならそれだけでも良かったんだろうけど」
「ミネストローネ、作ってくれたの?」
「まあ、中途半端に残った野菜あったからね」
確かにさっきまで作業をしていたから、切りかけの野菜とか、どう使おうか悩んでいたものはそれなりに残っていた。だけど、それを使って料理が作れるかどうかは別問題だ。神様は、常々料理の本は読んだことがあるけど、実物は見たことがないと言っているし。
あたしがここに来てから、ミネストローネを作ったことはない。だから、神様は作り方を知っていたとしても、こうなるものだ、というのは分からないままで作業を進めてくれたという事で。
よく見れば、神様の真っ白な服に小さく染みがある。あたしの作業を見学していたり、簡単なことは手伝ってもらったりしているけれど、全部を自分一人で作るなんて、大変だっただろうに。それを言ったところで大したことないと返ってくるのは分かっているから、その染みを気づかなかったことにして、スプーンでそっとミネストローネを掬った。
「ありがとう。美味しい」
「春那が作った方が美味しいんだって。だから早く良くなってね」
大きさが不ぞろいな野菜は歯ごたえが違ったし、トマトの酸味を強く感じる味付けだったけど。
何よりもあたしのために作ってくれた、というそれだけで十分美味しいのだ。お椀いっぱい食べたらまた眠くなって、そのままベッドに戻されたけど。
早く良くなって、心配かけてごめん、それからありがとうをちゃんとに伝えられるように、と決意して。ふわふわした感覚はまだ残っていたけれど、さっきとは違って、満たされた気持ちのまま目を閉じた。
風邪をひいた時は、桃缶一人占めでした。
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