暗い青空
日高敏子はその日、いつものように家を出た、気になる事は特になかった、と後に敏子の母親は話した。実際、母は娘の異変に気づかなかった。いつもと変わらないように思えた。
日高敏子の轢死体はその日の朝、近くの踏切から発見された。車掌は線路の上に何かがあるのを見て、急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。敏子の死体はいくつかに裂け、処理に大変手間がかかった。彼女の身分を証明したのは鞄の中の学生証で、鞄は踏切近くに置かれていた。学生証は、四散した肉体の持ち主がかつては近くの高校の二年生だったと示していた。
状況から事件性はない、と判断された。警察から日高家に連絡が行き、母親が電話を取った。母親は最初、警察の言葉が信じられなかった。昼前だった。母は何も手につかず、二階の娘の部屋に行ってみた。そこに今日も娘は帰ってくるような気がして、というより未だに死が信じられず、おぼろげな意識のままぼうっとしていた。ふと、母は警察に言われた事を思い出した。
「もしかしたらご自宅に遺書があるかもしれません。後から伺いますので、部屋はそのままにしておいてください」
母は警察の言葉を思い出したが、その忠告は無視して、ただ、遺書が本当にあるのかもしれないとだけ考えた。彼女は、娘の机の引き出しを開けた。それは小学校入学の時に祝いで買ってあげた勉強机だった。
引き出しの上には、白い紙が置かれていた。母はそれを取り上げた。簡潔な遺書だった。次のように書かれていた。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい。私のこれからする事を許してください。私はどうしてもこの世でこれ以上生きていけないのです。私の決断をどうぞ許してください。チビに私の代わりに缶詰をあげてあげてください。チビに猫缶をあげるのは私の役割だったので」
母親はその言葉を見た時、急に涙が溢れてきた。娘の死という事が本当にありうるのだ、それは事実なのかもしれない、という思いがこみ上げてみたのだった。母親の頭にはチビの姿が浮かんでいた。チビは、敏子が小学生の時から飼っていた猫で、敏子が一番可愛がっていた。チビに缶詰の餌をやるというような些細な出来事がかえって、その遺書を書いたのは敏子以外ではありえないという確信を彼女に与えたのだった。
母親は白い紙を持ったまま、娘の部屋でしばらく慟哭した。
※
日高敏子はいつも通りに家を出てこれた事に満足していた。
(家を出てこれた。お母さんも変に思ってないだろう…。でも、とにかく、遺書に気づかれない内にやり遂げないと)
彼女は死ぬ事を決めていた。一ヶ月くらい前から決めた事で、誰にも相談する事はなかった。全ては彼女の心の中という暗箱の内で育まれた。
(それにしても、うまく死ねるかな。嫌だな、障害が残ったりしたら…いや、でもきっとそんな事を考えるのも変だな…死ぬ…死ぬと決めたら死ぬんだ)
敏子はいつものように鞄を肩に背負って、学校に行くフリをするというのが、変な感じがしていた。今日は学校には行かないのだ。死ぬのだ。これから死ぬのに、自分は平静を装っている。敏子はふとその姿を、自分で滑稽なものに感じた。
(今日は私、学校には行かない。私はこれまでずっと優等生だった。成績も悪くないし、欠席もほとんどない。風邪でも我慢して学校に行ったし、遅刻もしなかった。私はずっと我慢してきた。そうだ…私はこれまでずうっと我慢してきたんだ。でも、もう我慢しなくていい。私は今日…学校に行かないんだ)
敏子は空を見上げてみた。空は晴れていた。いつもより綺麗に、美しく、爽やかに晴れているようにさえ見えた。
(どうして空は晴れているんだろう…不思議だ…)
敏子には、空が晴れているのが不思議だった。これから自分は死ぬのに、空は美しく輝いている。それはありえない事柄のように見えた。なんだか太陽も雲もいつもより光を増しているように見えた。
そうやって少しの間、彼女は空を見上げていた。空を見ているその眼に、彼女の短い人生の全てが映り流れていくようだった。しかしその全てには何の価値もないように彼女は感じていた。
※
日高敏子が自分の死を決めたのは、ありふれた理由だった。それはどこにでも転がっているような理由からだった。
彼女は教室で孤独を感じていたーーそれが一つ。また、軽いいじめ、いや、いじめというほどでもないが、うっすらとした嘲笑と疎外にあっていたという事実もあった。だがそれもそれほど過度なものでもなかった。
「いじめ」のリーダー格は、吉村という名前の女子で、女子のまとめ役だった。吉村はなにかのきっかけで敏子を疎ましく感じた。きっと、敏子が自己主張の弱い、おとなしい、文句を言わないタイプの人間だったからだろう。吉村の方でも、彼女の中で無意識的なストレスを感じていて、それを敏子に対してぶつけていたとも言えただろう。
吉村は短髪で、声が大きく、体も大きく、押し出しも強かった。学生時代にはこのようなタイプがリーダーになるものだ。吉村は、自分の意見を押し通し、声高に命令するのに快感も感じていたが、それに対して、敏子のような、おとなしい子羊のような存在、何一つ主張せず、端で怯えていて、何にも巻き込まれないように身を処しているのを見てイラつく所があった。だから、吉村は敏子を無視したり、皮肉ったり、嘲笑したりした。といっても、大げさないじめというほどでもなかった。吉村は利口だったので、「いじめ」の領域にまで入り込むと、あれこれと大人達に難癖つけられ、仮に敏子が自殺でもすれば、非常な責任を追求されると知っていた。だから、吉村は証拠が残らない程度、傍から見ると許容できる範囲内で自分の感情のはけ口にするような行為をしていた。それはただそれだけの事だった。
吉村がやった行為と言えば些細なものだった。仲間と話している時、側を敏子が通ると「あの子って暗いよねー」と唐突に言うくらいで、別に、「あの子」は「敏子」だと明言していないし、もし何か言われれば「違う子の事を言っていた」「ただの噂話」と弁解するつもりでいた。そのように、吉村は常に自分の責任を問えないようにしておくという計算を働かせていた。吉村は偽善的な大人達を見て育っていたので、大人達の利口さをその年でもう十分身につけていた。
他には、吉村は、自分達のグループからなんとなく爪弾きにしたり、陰口をそれとなく言ったりしたが、上履きを隠すとか暴力を振るうとかはしなかった。そんな所に踏み込む危険は彼女自身よく承知していた。
敏子はと言えば、吉村と丁度逆に考えていた。(自分はおとなしく隅っこで生きているだけなのに、どうして私を目の敵にするんだろう…) しかし答えは逆で、敏子があまりにおとなしいからこそ、吉村はそれに苛立つのだった。敏子はそれを理解しなかったし、もちろん吉村も敏子の心は理解しなかった。
ただ、敏子が死を決めたのはそれだけが理由でなかった。それはいくつかの理由の中の一つだった。
敏子が死ぬのを決めた理由は「これ」と一つに定められるものではなかった。ただ、一つだけ確定していたのは、彼女には自分の心を打ち明けられる人が誰もいなかったという事だった。彼女は世界にあっては絶えず演技している自分を感じていた。その演技に疲れた、というのが本音だった。
彼女は優等生だった。成績も良く、遅刻も欠席も皆無に近かった。(それが吉村らをイラつかせる原因にもなったが) 教師から褒められる事もあったし、両親もよく褒めてくれた。彼女は、しかし内心では必死で、他人が彼女に望むイメージを維持しようとしていた。その『必死さ』に関しては誰も見てくれていないと感じていた。いつしか、優等生という彼女のイメージは当たり前のものとなり、成績が少しでも下がると、両親が心配した。彼女の両親は彼女を叱ったりはしなかった。ただ「心配」した。その心配こそが、密かに敏子の精神への圧力になっていたのだが、両親は気づかなかった。両親はごく普通の人間だった。他人の内面には興味のない人達だった。決まった仕事をして、テレビを見て、他人達の話している価値観に合わせる事が人生の全てという人々の一員だった。
敏子は孤独だった。ところが、孤独であると気づく事も思う事もできなかった。彼女は夜、机に一人で向かいながら、勉強の合間にふと思うのだった。
(私は友達もいて、よいお母さん、お父さんに恵まれて、幸せだなあ…。確かに、吉村さん達には嫌われているみたいだけど、でも、もっとひどい境遇の人もいる。私はきっと幸せなんだろうな…)
敏子は、ぼんやりと自分の手のひらを見ながらそう考えた。その手はふっくらした少女の手だった。生命はそこにあった。だが、彼女は「幸せだ」と思おうとしていたにも関わらず、心のどこかに空虚を感じていた。
もし敏子が自分の不幸や孤独に気づく事ができていれば、死なずに済んだかもしれない。彼女が反抗する事ができれば、死ぬ事はなかったかもしれない。泣いて暴れて、不良行為でもできれば自殺せずに済んだかもしれない。しかしそれは彼女にあっては無理だった。彼女は学校でも家でも、すっかり自分のイメージが確定されていると信じていた。日高敏子というイメージ、優等生のきちんとした子というイメージが破れてしまうなら、もう死ぬしかなかった。イメージが破れると、彼女は途端に世界との繋がりを失ってしまうのだった。そこには孤独があった。虚無があった。もしそうなったら生きる事はできないと感じていた。死ぬしかない。それは有無を言わさぬ明快な答えだった。
確かに、敏子に友人はいた。敏子には二人、友人がいて、伊藤と町山と言った。二人共、敏子と同じようにおとなしい普通の女生徒で、昼には三人で弁当を食べるのが通例だった。その中では敏子が一番物静かで、口下手だった。
三人はなんとなくの繋がりだった。濃い繋がりというわけではなかった。中では伊藤という子が一応リーダーのような格好になっていたが、それも非常に微弱なリーダーシップだった。例えば、三人で放課後にどこかに行こうとなった時
「じゃあ、駅前の『ココ』に行く?」
と真っ先に提案する程度のものだった。二人は、伊藤の提案を断るという事はまずなかった。
三人は、いわば、教室という閉鎖空間の中で、自分達が生き残る為に弱い同盟を組んだのだった。敏子が、ひどくいじめられる事にならなかったのは、他の二人といつも一緒にいたというのが影響していたのだろう。
敏子は、自分の心を二人に打ち明けるという事はなかったし、伊藤も町山も、胸襟を開いた友人という雰囲気は相互になかった。周囲の人間は親友同士だとか、とても仲の良い三人と見ていたが、実際には三人は緩く繋がっているだけだった。ある時、町山が、敏子に
「ねえ、その、好きな人っているの?」
と言ってきた時は、敏子は困った。そういう事は話さない仲間だと彼女は思っていた。敏子は適当にはぐらかした。それ以来、町山はその手の質問はしてこなかった。
一度、伊藤が核心に近づいた時があった。それは、敏子にとっては、重要な時間となる可能性があったはずだった。
それは敏子が死を決めた翌日の事だった。自分は何ヶ月かの内に、死んでしまおう。そう決めた翌日。
その日も、普段どおり学校があり、授業を受け、部活に入っていない三人は帰途を辿った。田んぼに囲まれた道だった。町山と伊藤が二人で、テレビの話をしていた。敏子はそれを聞きながら、微笑んで、(話を聞いているよ)というサインを出していた。
その途中、ふと伊藤が、敏子の顔を見て、なにかを読み取ったのか、
「としちゃん、大丈夫?」
と尋ねた。敏子はふと顔をあげて、伊藤を見た。町山は二人の顔を交互に見た。
「え? 何が?」
「いや、何か、具合悪そうに見えたから」
「大丈夫だよ」
敏子は言った。
「別に大丈夫だよ。何もない。大丈夫」
「そう」
伊藤はそれ以上は何も聞かなかった。三人はいつものテンションを取り戻した。その時に、敏子が何か違う事を言っていれば、運命は変わっていたかもしれない。弱音を吐いていれば、愚痴でも漏らしていれば何かが少し変わったかもしれない。
敏子は、自分の中に暗く育て上げた観念は人に言うのは恥ずかしいものとみなしていた。だから、友達であろうと家族であろうと、それは隠さなければならないと感じていたのだった。
敏子が死ぬきっかけとなったのは、他にもあった。あるいは、これは最も大きい原因だったかもしれない。
彼女のテストの点が少しずつ下がっていたのだ。両親は、良い大学に受かってほしい、と願っていた。「こういう厳しい時代にはスタートが大事なんだよ」 父も母も口を揃えて言った。一人娘には、良い大学に入り、良い人生を送ってほしかった。ところで、その「良い」とは敏子の内面とは関係のない、外面的に定められた「良い」だった。
敏子は、ここ最近、どうしてか勉強に集中できず、どうしても注意散漫になって、別の事をしたりしてしまうのだった。そういう自分を叱ってみたが、うまくいかなかった。寝不足になる事も増えていた。そんな事が何ヶ月も続いた。
敏子が死ぬ事を決める前に、数学のテストの点数がガクッと落ちた事があった。その結果は親には知らせる事なく、なんとかごまかす事ができた。それはまだ中間試験だったから、そこだけうまくごまかして、期末試験で取り戻せば、なんとかなるはずだった。敏子は中間テストの結果を隠すのに成功した。ところが、敏子はその後もやはり勉強に身が入らず、数学の教科書を開いてもそこにうまく入り込めず、それが何かわけのわからない不思議な紋様に見えたりしたのだった。
(はあ、どうしよう)
彼女は誰にも相談しなかった。期末試験では良い点を取って、学期の成績は一定を保たなければならない。そこでミスするのは許されない。ところが、勉強ははかどらない。どうしてだろう。
敏子は少しずつ、追い込まれていった。彼女は孤独だったが、孤独を発散する方法も、声をあげて不満をぶちまける事もできなかったので、ただ鬱屈していく一方だった。寝不足、それから悪夢も見るようになった。でかい化け物に追われているのだった。そんな夢を三晩も続けて見たりした。
彼女が自死を決めた朝は、平凡な朝だった。それは彼女が実際に死んだ日によく似ていた。どちらも朝、同じような陽射し、同じ服装、いつもの日常。その中に、死の気配は色濃く充満していた。敏子が死ぬ決心をした日と、実際に死に至った日とには一ヶ月ほどの間があった。
死ぬのを決心した日、敏子は普通に学校に行くつもりだった。確かに、その前日くらいからなんとなく体全体が重いような気がしていたが、気のせいだろうと思っていた。彼女はいつもどおりの時間に起きて、朝食を食べ、家を出た。
「いってらっしゃい」
母が言った時、敏子は「いってきます」と言おうとした。ところがその時、何故かうまく言えず、口ごもってしまった。「行ってきます」と言葉がスムーズに出てこなかった。敏子は変わりに、軽く頷いた。そのまま、家を出た。
外は晴れていた。が、何故かなんとなく全てに暗いフィルターがかかっているような気がした。(今日の宿題はやったかな? 昨日の夜やったから大丈夫だよね) 敏子はそんな事を考えながら歩いていた。ところが、十字路を歩いている時、ふと足が止まった。
その時、彼女が感じた事はなかなか説明し難い。ただ、彼女はその時、はっきりと、(自分は学校に行きたくない)のだと感じた。それは強い予感で、運命の啓示とも言えた。
(そうか、私は学校に行きたくないのか)
それは彼女が彼女自身の心について知る、始めての体験だった。無意識に蓄積されたものが目の前に一気に現れるという現象だった。敏子は、その時に悟ったのだった。自分は学校に居場所がない、家にも居場所がない。学校では、吉村に目をつけられていて、友達とも心が通っているわけではない。
しかしそれよりも痛恨だったのは、学校では演技をしなければ自分自身でいられないという事実だった。学校は、それなりの自分としていられる為に演技をする場所だった。また、家に帰っても親に演技をしなくてはならなかった。そういう自分をずっと続けてきた。自分のささやかな心の置所はどこにもなく、ただ閉塞した心は言ってみれば…この一人の時間、学校と家との間の道でしか発散できなかった。敏子はその時、目の前が暗くなるような経験をした。家族とも、友達とも教師とも、誰とも切断されて生きている自分というのを彼女は発見した。その日はなんとか足を引きずるようにして学校に行ったが、その経験はまっすぐ、自殺という行為に続いていた。後は、いつ死ぬのか、それだけが問題だった。
(私は死にたいんだなあ…変な話だけど…)
敏子は学校に着く頃にはもうその結論に達していた。そういう結論は、彼女には妙に納得できる答えだった。今までどうしても解けなかったパズルが解けたというような快感すらあった。
※
そうした理由で、敏子は死ぬ事に決めたのだった。列車に轢かれて死ぬという方法もまたスムーズに決定された。というのは、家や学校では死にたくなかったからだ。そこに自分の死体を置きたくはなかった。居場所がない場所に、死んでまで居続けたくはなかった。
敏子は、踏切に向かっていた。自分の人生が眼前を川のように流れていくようだった。不思議と恐怖はなかった。むしろ、解放があるように感じていた。虫の音や空の青や風の肌触り、そうしたものが全て何かを告げていた。
(私はもうすぐ、この『風そのもの』になるんだなぁ…)
敏子はそんな事を考えた。それは詩的な感傷だったが、詩なんて興味のなかった敏子にはそれが詩的だという思いは湧かなかった。
敏子は踏切についた。踏切…いつもはただ「渡る」為だけにあるものが、今や彼女の目的、最終到達地になっていた。不思議に恐れはなかった。ただ世界全体が、視界が暗くなっていくような感じというのがあって、それは全てが甘く溶けていくような不思議な感覚だった。
敏子は周囲を何度も見回し、人がいないのを確かめた。後は…警報機がカンカンと音を立てれば、線路に寝そべればいい。敏子はそんな事を考えた。
(カンカン鳴ったら…カンカン鳴ったら…)
敏子はもう正常な思考力を失い始めていた。夏を告げる蝉の声が印象的だった。やがて、彼女の期待した通りに警報機が鳴り出した。敏子は鞄を側に置き、線路の上に寝転がった。線路の鉄の部分が熱くて、体をよじって素肌が触れないようにした。
敏子の目には空が見えた。青く晴れている空が。しかし、その一瞬、何故か空が真っ暗に見えた。青空の奥に、星が光っているのが見えた気がした。
(あ、空が真っ暗だ、真っ暗だ、真っ暗だ、真っ暗だ…)
敏子はそんなフレーズを心の中で繰り返した。カンカンカンカン警報機はうるさかった。敏子の背中、制服越しに、鉄の線路がガタガタと震えているのが感じられた。彼女の体も振動していた。彼女は何かが、死そのものがもうすぐやってきて自分を跳ね飛ばすのだと感じていた。敏子はあえて、電車の来る方向を見なかった。電車が近づいてくる大きな音、それがどんどん近づいてくるのをはっきり感じていた。いつの間にか敏子の目には涙が一筋流れていたがその涙を見た人間は誰もいなかった。
電車は、大きな警告音を立てて急ブレーキを踏んだ。が、もう間に合わなかった。その時、敏子はもうそこにはいなかった。あるのはただの肉片、存在したのは鮮血と肉のかけらだけだった。そうして彼女の人生は終わった。そうやって、彼女が心に秘めていたものは世界に対していつまでも秘められたままになった。