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僕らの時代のディストピア

作者: 不要物

あるがままに、なるがままに、全て受け入れて、今を生きれたら。


どこかで芸能人が記者会見しようが、誰かが動機不明な無差別殺人を行おうが、各国で移民を拒否して自国ファーストを喧伝しようが、それらYahoo!ニュースの呟きは、文法も事実関係も支離滅裂なクソリプの嵐を紐づけて、出会い系やゲームアプリの宣伝、または、数万回リツイートしてバズったTwitter大喜利やオモシロ動画、あるいは、好きな芸能人の感銘を与える日常の呟きと共にタイムラインを流れていく。

それでも、僕の日常は通常運転で周るのだ。地球が回るように。

まるで政治家が政治記録を粉飾決済するように、僕は鍵垢で僕の毎日を人生訓やいいねで粉飾決済している。

それらすべてが虚しい営みだと分かっていても、それが自分の人生なら、仕方のないことだと受け入れて、今を生きている。

だけど、時折、僕は思うことがある。それは本当に生きているといえるのだろうかと。

あらゆるものが便利になって、あらゆるものがエンタメとなって、あらゆるものが虚構となって。僕は幸せになったはずなのに、どこか息苦しい。

しかし、だからといっていつもと違う何か突飛な行動―――例えば、歌を歌ってみたり、女の子とデートしてみたり、音楽のライブや映画館や美術館に行ってみたり―――をしても、途端にそれはエンタメへと消費されて、またいつもの日常へと無事着するしかない。

だから、そんな機械仕掛けの自然循環システムの歯車として、自分を受け入れて生きることができればどんなに楽に生きれるだろうか。僕はそう思う。

そうネットの暗闇に一人呟いたところで、何も反響が響き渡ることなく、僕の開かれた振りをした閉じられた日常がいつも通り自己規定していく。

その先にあるのは、緩やかな死のみ。

いや、そもそも生と死の境が意識のON/OFFのスイッチの掛け違いにしか過ぎないほど些末な代物なのではないかと勘繰る昨今だ。

そんな僕らの時代は、数百年前のSF作家が描いたようなディストピアと呼ぶに相応しいだろう。中途半端に半自動化された社会に埋め込まれた僕たちは、存在すらもロボットやAIに代替された方が楽に生きれるに決まっている。紀元前から人類を悩ませてきた生即苦という仏陀が説いた真理に終止符が打たれる日もそうは遠くないのかもしれない。

しかし、それを幸せと呼ぶのだろうか。不自由だからこそ人類は自由を享受することに喜びを覚え、不可能だからこそ人類はそれを可能にすることに熱狂した。時にそれは死を伴うような危険なことでも、むしろ、死に動機づけられて、人類は人生を豊かにした。有限性が無限の可能性を生んだのだ。まあ、その結果が、現代の高度に文明開化された家畜社会だとすると、何と皮肉なことだろう。

だが、どんな未来になるにせよ、一つだけ確かなことは、人類がどんな選択をしたとしても、それが僕らの社会と世界の選択ならば、受け入れるしかないということだ。そして、今現在、僕らはその歴史を作り上げている生き証人ということだ。


それが僕らの時代のディストピアだ。

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