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けあらしの朝 25  作者: 翼 大介
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人生迷い道

 晋作の営む民宿は海岸から離れた小高い場所にあるので部屋からはもちろんのこと、広い庭からも海を眺望できるとあって日頃から薄暗く狭いアパート暮らしをしている博之にはあまりにも羨まし過ぎる環境だ。港から乗って来たワンボックスカーから降りるなり目を細めて遠い水平線を眺めながら無意識にあ~あとため息が漏れた。朝方は気持ちが釣りだけに集中していたから周りを見渡す余裕などなかったのが、広大な海から民宿の敷地をめがけて反射してくる太陽光はふだん目にしているそれとは全く趣の異なる彩りを放っていた。博之はいつかは自分もこうした場所で暮らしたいものだなと海を見つめていたところを佐久間から肩を叩かれた。

 「おい、中に入るぞ。一緒に行こう。大広間で一休みする手配が整っている」

 今しがたまで釣りに夢中だったこともあって、朝に佐久間から言われた打ち上げのことが頭から消えていた。他のメンバー達はおのおの入り口へと向かっている。

 (以前なら船から降りてすぐに帰途に着いたもんだが、こうして一休み出来るというのは有り難いな。もっとも移動距離が短いから可能なのであって遠い釣り場ならこうはいかない)

 博之は仙台在住時代に強行軍を余儀なくされた釣行を思い出して、ゆったり感に満ちた釣りはいいものだなと座敷に腰を降ろすとそこへ一人の初老の女性が姿を見せた。

 「どうもみなさん、いつもご利用頂き有り難うございます。すぐにお飲み物を運んで参りますので少々お待ちください。主人も間もなく顔を出すと思います」

 晋作の妻、諒子である。民宿を始めてからずっと女将として切り盛りして来たが佐久間とは逆に山間部から海辺に嫁いで来たために浜のしきたりや仕事が分からず、一から覚えるのに今は亡き晋作の母親からさんざん叩き込まれた苦労人だが持ち前の明るい性格もあってそうした様子が全く窺えない。すでに身も心も浜の人間として染まっているようだ。しかしその過程を子供の頃から見て来た佐久間は労いの言葉を掛けることを忘れない。諒子は話し好きということもあって佐久間の一言で座に留まり油を売る格好になった。

 「正次さんは私と逆だもんね。でも工場の仕事の合間とはいえ農作業はだいぶ覚えたでしょう。おやおや、皆さんの顔はずいぶんと和らいでますね。今日はかなり収穫があったんじゃないですか。釣りする人って本当に正直、すぐに表情に出るんだもの」

 「うん、まあまあだったかな。顔に出るのは釣り人の性みたいなもんだよ、伯母さん。こればかりは隠しようがないな。それと農作業なんだけど、俺も婿入りしてそろそろ10年だしどうにか足手まといにならないレベルまでにはなったと思ってる」

 「何が釣り人の性だ。いいか正次、今日釣れたのは俺の場所選定が良かったからだ。まあ、お前らの腕も認めておこう。それより諒子、早いところ飲み物持って来い。みんな喉が渇いてるはずだ。分かってるだろうがビールは要らないからな」

 晋作が軽口を叩いている佐久間と諒子を制しながら広間に現れた。アルコール類を要求しないのはここで口にすれば会社の駐車場からの帰り道は当然酒気を帯びた状態でハンドルを握ることになる。昼間だから飲酒運転の検問をしている可能性は低いがそんな問題ではない。晋作としては休日のレジャーで違反により捕まることはもとより事故を起こすなどしてその後の生活を狂わせてしまうことを危惧しての配慮であった。それゆえ船上での飲酒も10時頃で止めさせるのが常である。民宿の玄関先にはマグロ延縄船が洋上で甲板に大波を受けて舳先が海中に半分隠れるようなパネル写真が掲げられている。自分が乗り組んでいた時の物らしいが、ここを訪れる客に海は楽園のような表情ばかりを見せる場所ではないということを知ってもらい、同時にレジャーを楽しむために真剣さを欠いてはダメだという晋作の主張の表れであった。同時にその反対側には穏やかな海を航行する船のパネル写真を掲示するのも忘れていない。その脇にある階段を諒子が従業員と一緒にドッコラショと言いながら飲み物を二階の大広間まで運んで来た。やっと飲み物が来たのかと言いたげに晋作はぶっきらぼうに言葉を掛けた。

 「ほい、御苦労様。そう言えば富美恵さんはまだ戻らんのか。あの人は正式な雇い人じゃねえんだから、なんだかんだやらせんじゃねえぞ。おおい正次、お前が富美恵さんに会わせたいと言ってたのはもしかして今朝、船から落ちそうになった、ほれそこに座って頬杖ついてるそいつか。しかしそんな話をこの場で持ち出していいのか?あとから時間と場所を設けてじっくりと話をした方が無難だし普通の流れだと俺は思うがな。ここには会社の人間も居ることだしよ」

 博之は晋作が自分のことを指しているのは分かったが内容が全く飲み込めないためにキツネにつままれたような表情になった。

 (富美恵さんて誰なんだよ。俺に会わせたいだって?佐久間さんが言ってたサプライズとやらはそれのことなのか)

 佐久間は博之が探るような目つきで見るのを横目に晋作へ別に問題はないことだと説明を始めた。

「伯父さん、笹山君の事情ならみんな知ってるから大丈夫だよ心配ない。いいか笹山君、俺が言ったサプライズとはもう分かっただろうが今、名前の出た冨美恵さんという女性をお前に会わせることだ。実を言うとだなお前が釣りを止めていた本当の理由を話してくれた時、俺はドキリとしたんだ。恭一さんと富美恵さんのことがあったばかりだったからな。そうだちょっと段取りが変わっちまうがお前に先に話してしまおう。冨美恵さんは亡くなった恭一さんの恋人だった人なんだよ。恭一さんは俺と違って成績も良くて東京の大学を卒業して老舗のホテルに就職した。それは将来的にこの民宿を継いで更に経営規模を広げるための勉強と言う意味合いがあったんだ。3年前にスクーバダイビングを始めたんだが、その時に富美恵さんと知り合って交際がスタートした。まだ正式に婚約はしてなかったが、いずれそういう運びになっただろう。その矢先に不幸な事故が起こった。沖縄でスクーバダイビングをしている時にレギュレータというのが外れての水死・・・・・凄いショックを受けた。去年、身内の不幸で休んだのを覚えてるか。詳しく言わなかったのはそのためさ、何しろ俺にとっては実の兄貴以上の存在だったからな。それで話を戻すが笹山君の話を聞いた時にもまた同じ経験した人間が目の前に現れたのかと二日酔いから醒めた頭の中が混乱してたからすぐに恭一さんの事を話す気にならなかったんだ。しかしお前が帰ってからいろいろ考えた。事故と病気の違いだけで同じ境遇にある二人の男女の存在を知ってしまった。だから・・・・・」

 「フン、だからその二人を会わせてあわよくば結びつけようと言うのか正次。そいつは短絡的過ぎやしないか。お前からその話を聞いた時に一応分かったとは言ったが富美恵さんには何も話してねえんだよ」

 「何だって伯父さん、サプライズの一言だけで良かったんだが、困ったな。俺は結びつけるとかそんな大袈裟なことまで考えちゃいなかった。ただ似た境遇の人間が話をするだけでなにかプラスになればとそう思っただけなんだ」

「ちょ、ちょっと待ってください。なんとなく話は見えてきました。その冨美恵さんという人は亡くなった恭一さんと付き合っていた。だから俺と同じ境遇にある。一つ疑問なのがなぜこの民宿で手伝いのようなことをしているのか、そこが理解出来ません」

博之はたまりかねて口を挟んだ。佐久間がサプライズという極めて軽い言い方をしたことが蓋を開けてみれば背景に重い事情があると知って戸惑いを覚えたのである。その疑問に答えるべく晋作がさっきまでの豪放でぶっきらぼうな態度を追い払い語り出した。

 「それもそうだろうな、魚釣りに来ていきなり突拍子もない話を出されたのでは面喰らうのも当然のことだ。いいか、正次もあんたも富美恵さんがここに姿を見せても普通に接してくれないか。彼女は正次が計画したことは何も知らないんだ。それと俺はまだ恭一が死んだ口惜しさが消えたわけではないんだよ。さっき正次が言ってたスクーバダイビング、あれは遊びだろう。俺は海へ潜るという行為は潜水士、この辺りじゃモグリ様というんだがそれしか認めねえ。モグリ様は本当に海で命を張る仕事なんだ。水中での工事はもとより時には遺体の引き揚げなんかもやる。俺の親父は腕のいいモグリだったよ。その孫がだな遊びの潜水で命を落としちまった。死に顔を見た途端に情けないやらなんだで気持ちがグチャグチャになった。そんな状態で葬式って時に突然、富美恵さんが現れた。まさか深い付き合いの女性が居たなんて青天の霹靂ってやつさ。たまに帰って来ても恭一は俺には素振りすら見せなかったからな。それで葬儀には参列することをダメとは言えないから参列させたが普通ならばそれでおしまいだろう。ところが彼女は一ヶ月後にまた訪ねて来て何を言い出すかと思えば勤め先を辞めて1年でいいから民宿の手伝いをさせて欲しいと来たもんだ。もちろん即座に断ったさ。死んだ人間のことなどさっさと忘れた方があんたのためだと突き放すように言ったんだ」

 「それでも富美恵さんは諦めずに食い下がり晋作伯父さんは最後には折れた。こいつが決め手になったんだよ」

 佐久間は1枚の写真を博之に見せた。

 「こ、これは」

 「恭一さんが沖縄の海で撮った水中写真だ。あの人はここ施津河の四季折々の水中写真も撮りたいと常々口にしていた。それで富美恵さんがどこまでやれるか分からないが自分が恭一さんの代わりにやりたいからと民宿を手伝いながらの滞在を願い出た。さすがの伯父さんも根負けしたってことさ」

「根負けだあ、なんとでも言ってろ。しかし冨美恵さんは気が利くし助かってることは確かだ。合間を見ては海に潜って写真も撮っているようだが恭一にはもったいないような人だな。まだ3か月になるかならないかだがつくづくそう思う。おや、戻って来たのと違うか」

自動車が止まる音がしたのと同時に諒子のつんざくような声が聞こえてきた。

 「あんたあ、富美恵さんが戻って来たよ。足りない物を一緒に運んでもいい。それとも、あんたか正次さんが取りに来てくれる」

 佐久間は間を置かずに返答した。

 「いや、伯母さんと富美恵さんの二人で持って来てください」

 佐久間は諒子に伝わったことを確認すると博之に手短に富美恵がここへ来ることを告げた。

 「手違いの連続で申し訳ないが笹山君も富美恵さんがどんな人か一目見てくれ、そして少しでも話をして貰えればと思う」

 博之は佐久間を責めることもなく淡々とした面持ちを保った。

 「分かりました。ありきたりない話をして俺は突っ込んだ事も聞かないし自分の事も話しません。でも俺だけ事情を知ってしまったというのもなんだか申し訳ない気もしますね」

 大広間がそうしたちょっと重苦しい雰囲気になっていることは階下の諒子と富美恵は知る由もなく再びドッコラショという声だけが響き渡った。そして博之は菓子を運んで来た若い女性をチラリと見た瞬間に危うく持っていたグラスを落としそうになった。

 (あ、あれ。あの人は・・・・・去年神社で会った女性、いやまさかな他人の空似だろう)

 二人の視線が重なったその瞬間、女性が先に声を発した。

「あの、間違っていたらごめんなさい。貴方と一度そう、去年の暮れ近くの寒い朝だった。けせもい市の小高い場所にある神社でお会いしましたよね」

「そうです。僕も驚きました。貴女が入って来た時にどこか見覚えのある人だと思いましたがやっぱりそうでしたか」

「おいおいちょっと待て、どういうことなんだ。二人とも一度会ったことがあるだと?わけが分からないから説明してくれないか」

一転して佐久間が戸惑いを覚えて声が上ずった。博之は去年QCサークル発表会の資料を持って佐久間の家を訪れた日の朝に偶然、神社の境内で冨美恵と言葉を交わすことになった経緯を簡単に説明した。

「ガハハハハハ、こりゃまたとんでもない流れになったもんだ。正次やはりお前が後から一席設けて落ち着いて話をするんだな。もっともそれはお二人さん次第だが」

晋作は意外な展開を楽しむかのように高笑いと佐久間に提案したが当の佐久間はまだ頭がこんがらがったままのようでしばし沈黙したがやがて堰を切ったように話を始めた。

 「いや本当に参ったよ。どこをどうすればこんなシナリオになると言うのだ。仕事じゃなくて良かったぜ。それでどうだ二人共、晋作伯父さんも言ってるが神社での続きをやりたいならば俺が一席設ける。その必要がないなら話は打ち切りだ。それとみんなも驚いたと思うがこの件は会社じゃ内密にしてくれると助かる。女工さん達に知れると脚色された挙げ句にあちこち広まってしまうからな」

 「みんな、今日はここへ何をしに来たんだっけ?そう釣りだよな。最後にオマケとして出し物みたいなのがあるはずだったが手違いで趣向が変わってしまった。明日の製造管理室ではゴルフ談義で盛り上がるだろうから俺は入る隙はないし釣りの話もする気などない、付随する出来事も含めてな」

 野口が一同を見渡して言った。課長の威厳を振りかざすでもなく佐久間の言葉を遠回しに補足した形になり佐久間は野口に軽く頭を下げた。そしてこのインターバルの間に博之と富美恵も予想もしなかった再会によって生じた衝撃から落ち着きを取り戻したようだ。富美恵は佐久間を振り返ると問わず語りに話し始めた。

 「正次さん、私はその提案を受け入れても構わないですよ。袖すり合うも多生の縁と言いますけどこの再会はまさにそれです。あ、いけない私ったらまだ名乗ってませんでした。私は森村富美恵と申します。出身は神社でお会いした時に言ったと思いますが覚えてますでしょうか」

 佐久間の方を向いたものの富美恵が言ったことは博之に向けられたものだった。博之はそれを感じ取りすぐに返答した。

 「僕は笹山博之と言います。貴女の出身は、ええ、覚えています。山梨でしたよね。僕も佐久間さんの提案を受けます。神社で話した時はなんか消化不良のようなものを感じたので時間さえあればまだ話をしたかったんです。ぜひ続きをやりましょう」

 「決まりだな。よし俺が段取りを組む。さて皆さん、何だか妙な方向に行きかけましたが笹山君と富美恵さんの劇的な再会にあらためて乾杯といきますか。アルコールがないのはいつもながら残念ではありますが、それは各自の家へ帰ってからということで」

佐久間は一時はどうなることかと思った成り行きに難航を覚悟しただけに博之と冨美恵が自分の提案を快く承諾してくれたことに安堵の気持ちでいっぱいになった。

(結果的に俺がサプライズなぞ仕組まなくても二人はここで再開することは必然だった。今思うとこの場でお互いの身の上話なんかしたしら面倒なことになっただろう。晋作伯父さんの言う通りだよ。俺もまだまだ考えることが甘いな。さてとボチボチみんなに帰り支度を促すとするか)

一声掛けるとみんな立ち上がったが来る時と違って帰りはどうしても所作が鈍くなる。それでもこの日はそこそこに魚の姿を拝めたからいつもよりは動きも軽やかに思えた。




「平野君いつも行き帰りの運転を任せてしまってすまん。若いとはいえ疲れてるのは一緒だからな」

佐久間は毎回のように平野にハンドルを握らせ自分はいつも乗せてもらうばかりか後部座席でビールを飲んだ末に寝てしまうことにいささか申し訳なく思っていた。

「佐久間さん、気にしないでください。僕は乗っけられてるより自分が運転した方が楽しいし落ち着きます。あ、人の運転が嫌なんじゃないです」

「そう言えば君はジムカーナとかいう自動車レースもやってるんだったな」

「はい、だけどもうジムカーナは止めるつもりです。レース用の車も売りました。普段から無茶苦茶な乗り方してるんでタイヤなど半年でオシャカになるんです」

「なんだそりゃ、するとなにか半年ごとにタイヤ買ってたってことか。えらく出費が嵩むな。俺みたいな家族持ちには無理な相談だよ。釣りだけでも嫁さんはあまりいい顔しねえんだよ」

「僕はまだ独り身ですからね。その点は心配ありませんがさすがに釣りとジムカーナの両立は金銭面もですが日程的にもキツいんです。それに最近は釣りの方が面白くやれてるんで専念することにしました。車の運転はこうしてハンドルを握れるだけで十分です」

 「趣味をたくさん持つってのも大変だな。しかしいつものことだがお前も田村も少し飛ばし過ぎじゃないのか。公道はレース場とは違う」

 「すみません今後気をつけます。でも帰り道は心配ないですよ。朝と違って交通量が多いんで飛ばしようがありません」

 けせもい市と施津河は通常の運転であれば約1時間くらいが目安となるが深夜から早朝にかけての交通量が少ない時間帯ならば平野や田村のように競技をしている人間は本能的についスピードを出してしまうものだ。今日も朝は35分足らずで晋作の民宿に着いてしまったからかなりの速度で走行していたのだろう。これには営業職時代に毎日のように車を運転していた博之も呆れるより他なかった。



 何はともあれ転職後の最初の釣行は少しばかり妙な演出めいたことがあったものの無事に終えることが出来て午後4時過ぎにM食品従業員駐車場へ到着した。皆が満足しきった顔でそれぞれの車に戻る中、博之は佐久間のところに駆け寄った。妙な演出について掘り下げて話したかった。佐久間も同じ気持ちだったようで博之の部屋に行くことが即断で決まった。

 「じゃあ行きますか。相変わらず俺の部屋は足の踏み場もない状態ですけど」

 佐久間はそのことについては目算が狂うことはあるまいと不敵に笑いながら車に乗った。

 「笹山君はいつも歩いて通勤してるんだよな。朝早い職場だから近いのは羨ましいぜ。それでも今の時期はまだいいが冬になると二瀬地区は最悪だぞ。同じけせもい市とは思えんくらい雪が降る。ドッサリと積もった朝は雪掻きしてからの出勤になるから仕事前に戦意喪失だ」

 「分かります。佐久間さんの車だけ異様に屋根に乗っかってる雪の量が多いことがありますね。だけど俺は交通費が1円も支給されてません」

 「当たり前のことをヌケヌケと言うな。しかしまあそれで通勤に関しては五分五分なんだがな」

 どうでもいいやり取りをしているうちに博之のアパートに着いた。会社と駐車場はけっこう距離があるからひょっとしたら博之のアパートから会社までの距離とそう変わらないかも知れない。戸を開けると確かに博之が足の踏み場がないと言ったことに嘘偽りはなかった。いやその遥か上を行くような有り様の光景が広がっている。佐久間は少しは片づけなよと小声で言うと腰を降ろすスペースを適当に拵えた。

 「いや、本当に今日は驚いたというよりほかないな。しかしそれで結果オーライだったのは間違いない。あそこでお前も富美恵さんも互いの身の上に起きたことを話してしまったら俺の提案を受けてくれたかどうか疑問だがそれと一度会ったこととは別問題だと思うがお前はどうなんだ」

 「俺は仮に神社で会ってなくても今日、彼女から何かを感じ取ったと思います。実は最初に会った時に彼女から同じ波長の電波みたいなものが出てくるのを感じました。その時は何なのかは分からなかったんですが、さっき佐久間さんから話を聞いてああ同じ経験してたからだったのかと納得したんです。だから俺の方からいろいろ理由をつけて彼女を誘う手段として佐久間さんに仲立ちをお願いしたと思います」

 「そうか、お前意外と積極的なんだな。今までよく引っ込み思案な人物を演じて来たもんだ」

 博之のまんざらでもない表情に佐久間はあらためてホッとしたように立ち上がった。

 「さてと帰って今年の初釣果を肴に軽く一杯やるとするか」

 「佐久間さん、俺が釣った魚も持って行ってください。アイナメとカレイ一匹ずつあれば間に合います」

 「なんだ転職後の初物じゃないか。実家にでも行けばいいじゃないか」

 「いえ今から行くと飲むことになりますからダメです。明日も休みならいいんだけど実家から通勤となると連日の早起きになります。俺は佐久間さんと違って慣れてないですから」

 「そうか、それなら遠慮せずに頂いて行くぞ。隣の爺さんが大好きだから分けてやろう。ウチには冷凍ストッカーもあるがあれに放り込んでしまうと食べそびれて廃棄処分てことがけっこうあるんだよ。釣った魚は新鮮なうちに胃袋に収めるに限る」

 博之は佐久間を見送ると窓の向こうに見える旅客船をボンヤリ眺めた。ブランクのある釣行に加えて思ってもいなかった再会は嬉しさを伴った心地よい疲れが身体中を駆け巡る。それは写真立ての由里子に話し掛けるのを後押してくれた。

 「今日の釣りはまあまあ良い釣果を得られたよ。だけれど予期もしてなかったことが起きてしまった。去年神社で会った女性と再会したんだ。釣りを再開した日にこんなことがあるとはな驚き以外の何物でもない。それで近いうちに佐久間さんの仲立ちで食事会をやることになった。ひさしぶりに神経を使うことになりそうだよ」

 その晩、博之はやや多目にビールを流し込んだがなかなか寝つけない。一度トイレに立った時にヤバいかなと思いつつさらに一本缶ビールを飲み干した。今度は上手い具合にまどろみが襲われそのまま眠りに落ちた。翌朝の目覚めは身体に釣り疲れが残っているのを感じたがこれも懐かしくまた忘れかけていたものだ。重い身体を引きずるように布団から這い出た。

 (どうれ今日もサクっと行きますか)

 その日は昨日にも増して好天であった。博之は釣り疲れもどこへやら仕事をなんら滞ることなく進められたことにようやくM食品という会社の一員になれたような気がした。



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