04.帰っていいですか
碑崎 御影と名乗ったその女は、俺を誘拐まがいの方法で連れ出した事について一通り詫びると、一呼吸置いた後に言い放った。
「さて、塔弥君。早速だが本題に入ろう。
ーー君は、もう一度、自分の脚で歩けるようになりたくはないかね?」
やはり、あのおかしなメールを送りつけてきたのは眼前の女に間違いないらしい。しかし。
「……心理学の研究が、俺が歩けるようになる事と何の関係があるんです?」
俺の問いに、女はにんまりと笑って答えた。
「そうだな……私が説明するよりも、実際に体験してもらう方が手っ取り早いだろうな」
その方が手間が省けるし、などと呟きながら、慌ただしく何かの準備を始める女。
「あの……」
俺の声など聞こえていないらしい。
やがて準備は終わったようで、女は物凄くウキウキした顔でこちらに向かってきた。
嫌な予感しかしない。
「さ、行くぞ」
言うなり女は車椅子の取っ手を持ち、真っ暗い部屋の廊下をぐんぐん押して進んでいく。もう気が気ではない。
* * *
ところ変わって、同じ階の別の部屋。
同じ造りの部屋である。
しかし最初に通された部屋とは随分と雰囲気が違う。さっきの部屋もたいがい殺風景ではあったが、こちらはもっと酷い。大きなモニターがいくつかついた机と、病院で見るようなパイプのベッド、そして冷蔵庫が一つ。
間違っても人間が暮らす部屋だとは思えなかった。
絶句する俺をほったらかしにして、女は机に突進。数秒で次々とモニターの画面が明るくなった。
すべてのモニター画面の準備が終わると、女はこちらに振り返った。手には耳当てのついた黒いヘルメットのようなものが握られている。両耳にあたる箇所からは、コードが伸びて机の上の設備に繋がっていた。
女は端的に告げた。
「さ、被ってくれたまえ」
ぽいっと投げるように手渡されたそれを見下ろしながら、しかしすぐにそれを頭に装着する事は出来なかった。
何というか、不審すぎる。
危険度でいえばさっきの黒服に匹敵する何かを感じつつ、とりあえず聞いてみた。
「……これは?」
「そうだな……被って30秒もすれば君は昏倒し、素敵な夢を見る事になる。あとはその夢を見ながら私とお喋りしてくれればそれでいい」
なるほど。
まるで分からん。
……そんな俺の顔を見て思うところがあったのか、女は雄弁に語りだした。
「夢、というと語弊があるがね。正確にはヒトの無意識の世界に潜入してもらうのさ。体感的には眠るときと大差ないが、睡眠との大きな違いは、潜入する者への負担だ。適正がない者にこれをやらせても、無意識の世界に届く前に睡眠に切り替わってしまう。適正があっても脳を酷使する訳だから、大変に疲れ……」
ノリにノった様子で喋り続ける女。
やがて話し声が途切れ、短い質問が投げられた。
「……メールにも書いたように、報酬は払おう。割の良いアルバイトさ。他に何か聞きたい事はあるかね?」
聞きたい事など何もない。
言いたい事はたった一つだ。
「帰っていいですか」
怪しいうえに、被験者の負担も小さくないときた。身の安全の保証を、目の前の女に預けられるほどの信頼関係が出来ているわけでもない。
拒否、一択である。
その返答がよほど意外だったのか、女はしばらく動きを止めていたが、やがて「ふむ」とひとつ頷くと、静かに口を開いた。
「協力して貰えないなら仕方がない。……だが君がここを出た後に、私が君に話した事を覚えられていては困るのでね。記憶は消させて貰うよ」
そう言った後、ゆらりと立ち上がると白衣の背中に手を突っ込み、ずるりと引き出したのは金属バット。モニター画面の光を反射してギラギラと嫌な光沢を見せている。
今の流れでなぜ金属バットなんだとか、なぜそんなに目が血走っているのだとか、そもそもどうやって出したんだとか、色々言いたい事はあったものの、俺が絞りだせたのはただの一言だった。
「……それは?」
「……なに、殴られた記憶ごと吹き飛ぶからな。痛いのは最初だけだ、安心して頭を差し出せ塔弥君……!」
明らかに正気ではなかった。
「……おい待てやめろ!わかった、協力するから!その凶器をしまえ!!」
口調だけは紳士的なまま、さながら狂戦士のような形相で迫る女に、死亡フラグの突き立った三下のようなセリフしか吐けなかった俺は。
直後、言質は録ったとばかりに満面の笑みでボイスレコーダーのスイッチを押す碑崎御影の姿を見たのだった。
* * *
迫真の演技とハリボテの金属バットで、巧妙に乗せられた俺は、あの黒ヘルメットを被ってベッドに横になっていた。
女がモニターに向かってなにやら操作を行うと、やがて頭上に静かな駆動音が響き出した。
どうやら「素敵な夢」が始まるらしい。
「君の意識が向こうに定着したら、私から指示を送ろう。各種測定もするからそのつもりでな。今はリラックスしたまえ」
実に上機嫌な女の声を聞き流しながら、俺は目を閉じる。
キーボードの音が止んだ。
「では、幸運を」
女の声が耳に届くのと、俺の意識が落ちるのとは、ほとんど同時だった。
* * *
目を開く。
さっきよりも高い視点。
それだけで、俺が自分の足で立っていることが理解できた。
理解した事はもう一つ。
「ここは……」
原色だらけの世界。
体の一部のように馴染んだ刀。
まさしく、あの三半規管に優しくない世界、そのものだった。
自分の体を確かめる。
脚は二本とも、大腿部から先までしっかりと生え、俺を支えている。
とっさに周りを見回す。
する事もなく、とりあえず歩こうと踏み出した右足が何かを蹴飛ばした。見れば、その「何か」は大きな黒い旧型携帯電話のような形をしている。
拾い上げると若干のノイズとともに声が響いた。
「お目覚めかい、塔弥君。深層世界へようこそ!!」
喜びを隠しきれない様子が筒抜の声の主は、もちろんあの女なのだろう。
溜息をつくと、俺はもう一度、確かめるように足を踏み鳴らした。