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短編恋愛小説集

良い風が吹く場所

作者: 青砥緑

 深大寺は観光地というには暗すぎて、静かすぎる。

 彼はずっとそう思っていた。十九の頃に一度きり訪れた日の印象である。


 十九の当時、彼は深大寺近隣の大学に通っていた。心底惚れこんだ娘がいたが、あまりに想いが募り過ぎて、彼女の前に出ると思いを告げる言葉が喉の奥に縮み上がってしまう有様だった。どうにも進めず、さりとて退けず。無為に彼女の周りを回遊しながら日々を過ごしていた。せめてデートに誘うくらいはしたいと考えても、行き先が決まらない。近所の繁華街では知り合いに行き合わせそうで具合が悪い。かといって、いきなり遠出を申し込むのは力み過ぎだ。家に呼ぶなどもっての外。計画段階から八方塞がりであった。

 そんなときに知ったのが深大寺である。学校の帰り道なら気負いなく誘い易い。さらに彼を惹きつけたことには、深大寺は縁結びのご利益で有名だった。片恋を叶えに行くのにうってつけだ。

 彼は勇気を振り絞って彼女を誘い出し、二人で自転車を並べて深大寺へ向かった。緊張し過ぎて迷子になったときには、頼りないと呆れられやしないか嫌な汗をかいたが、彼女は知らない町を探検するのも楽しいと屈託なくついてきてくれた。そこまでは順調だったと言える。

 ところが、小さな冒険の末に辿り着いたその場所は彼の浮き立つ心を裏切るようにうら寂しかった。一帯を取り囲む木々は夕日を受けて長い影を落とし、分厚く茂った葉はそこここで黒い集団を成している。門前の通りは気の早い店から仕舞い始めていた。薄暗く、人影まばらな参道の侘しさを彼は恥ずかしく思った。ベンチに腰掛けたお婆さんが犬を休ませている。舌を出してぺったりと腹を地面につけただらしない犬の様子さえ、自分の不手際のように思えてならない。全くムードもへったくれもない。下見しなかったことを後悔しても既に遅い。

 つまらないところに連れて来て、気の利かない男だと見限られてしまうだろうか。臆病風に負けず、やはり繁華街に行く方が良かったか。彼は仲間たちと良く遊びに行く町を一瞬思い浮かべた。細い路地の一本一本まで人がひしめく過剰な活気がひどく恋しい。ざわざわと鳴る木の葉の音の中に二人きりでいるのは、あまりに心細い。

 しかし、ここで尻尾を撒いて逃げ出すわけにもいかない。彼は怯懦も後悔も見栄だけで押し隠した。

「お参りしよう」

 だらしのない犬を彼女の視線から隠すように導いてまっすぐに本堂へ向かった。なんたって縁結びだ。それだけはやり遂げなければと気を取り直して顔を上げれば、本堂はじっとりと闇に沈み、一足先に夜の気配を纏っている。再び気勢を削がれて、彼はついに捨て鉢な気持ちになった。

 こちらも今日はもう店じまい。俺の願いは端から聞いてくれないというつもりか。神様か仏様か知らないが、願いを聞くくらいしてくれたっていいじゃないか。

 彼は何かに挑むように力強く柏手を打ち、眉間に皺を寄せて沈黙した。

 思いの丈を念じ終えると彼はさっさと踵を返す。

「お店も仕舞っちゃうみたいだし、もう行こう」

 こうなれば乾坤一擲、夕食に誘って失地回復を狙うか。そこで今日の自分の失態を笑い話にでもすれば良い。妙案だと気を取り直したところで、彼女がついて来ていないことに気が付いた。ぞっとして振り返る。

 彼女は立ち止まったまま何かを探すように宙を見上げていた。

「ここ、良い風が通るね」

 言うなり彼女は小走りに彼のもとへと帰ってきた。宙に向かって笑っていたのか、呆れていたのか。計り切れずに相槌を選び損ねた彼は、ただ「うん」と返すことしかできなかった。どんな風が吹いたかなど本当は欠片も覚えてもいない。


 それきり訪ねる機会がなかったのだが、ちょっとしたことから七年ぶりに詣でることにした。走り梅雨に気を揉んだが、うまい具合に日の射した六月初めの週末。彼は妻を伴って調布の駅を降りた。長い散歩にはちょうどいい日和だった。

 住宅街を抜けて行くと、段々とこんもりとした緑が見え隠れし始める。ゆっくり歩いて三十分。見覚えのある坂道に出た。あの日もこの坂を下りた。彼は記憶を手繰る。この坂を下れば右手に蕎麦屋がある。そこを右へ折れた先に山門が見えてくるはずだ。

 果たして彼の記憶の通りに蕎麦屋が現れた。以前と変わらず店先にずらりと名物を並べている。それを横目に角を曲がり、乗客を乗せて出発を待っているバスの脇を抜ける。山門へ向かって向き直るとすとんと目の前が開ける。

 彼は意表を突かれた。

 明るい。

 初夏の光に燦々と照らされた参道の敷石は清らに白く光っている。立ち木の青葉は滴る緑。茶屋の店先にぶら下がった提灯の卵色と緋毛氈の紅が軒の影でも鮮やかだった。参道は行き交う人々の軽快な騒めきで満ちている。

 一瞥で過去の記憶は棄却された。深大寺は依然として煩くはない。しかし、暗くもなければ、静まり返ってもいなかった。どこか騙されたように歩を進めながら彼は陰鬱な第一印象の理由を考えた。あれは、真夏の白昼に暗がりに飛び込んだようなものだったのかもしれない。揺れる木々の緑も、歩道の脇のせせらぎも、きっとそこにあったのに、賑やかな街に慣れ過ぎた彼は密やかなものを皆見逃していた。今日、改めてこの場所を訪れて良かった。大事な思い出の場所の記憶は彩りも美しく上書きされた。情けなかった初デートの思い出は大成功に早変わりだ。彼は大きく胸を張った。

 妻と並んで参拝を済ませてから山門の目の前の蕎麦屋に入ることにした。まだ太陽は青空に未練を残していたが、構わず酒を注文する。日の高いうちから飲みだす酒はいつもよりも早く高揚をもたらし、彼は益々と愉快な気分になった。その気に任せて一つ妻を驚かせてやろうと思う。

「なあ、お礼参りって知ってるか?」

「知ってるわよ。お世話になりました、神様ありがとうってやつでしょう?」

 あっさりと返されて一瞬言葉に詰まってしまう。彼はつい先日までお礼参りの本来の意味を知らなかったのだ。会社でどうも話がちぐはぐになって、ようやくお礼参りというのは、拳でお礼をしにいくことを指すばかりではないと学んだ。そして、それをきっかけに本日の深大寺詣でを思い立ったのである

「それが、どうかしたの?」

 妻の含み笑いを見て、彼は心の内を読まれたように思った。あなたまさか知らなかったんじゃないでしょうね、なんて言いだしそうだ。これでは面白くない。

 しかし、彼にはまだ切り札があった。

「うん。だから今日はさ、ここの神様にお礼参りに来たんだよ」

 今度こそ妻は大人しく続きを待っている。

「君は知らないだろうけど、七年も前にここの神様にお願いしたんだ。君と結婚させてくれって」

 本当は腹立ちまぎれに「できるものならやってみろ」くらい高慢で乱暴な祈り方をしたのだが、そこは上手に割愛した。

 妻はぽかんとして、ゆるく首を横に振る。

「嘘でしょう? だって、あなた、あのとき本当に申し訳程度にしか手を合わせていなかったじゃない」

「この子と結婚させてくださいってだけなら、すぐに終わるから」

 彼は得意満面で答えた。

「信じられない。それならそうと、せめてお参りする前に教えてくれたら良かったのに」

 驚きから立ち直るなり妻はむくれて顔を背けた。七年の付き合いから、これは半分方照れているのだと彼は思った。

「拗ねないでよ」

「拗ねてませんよ」

 そっぽを向いたままの妻の横顔を見つめて、彼は「可愛い奥さんだな」と口の中で小さく惚気た。ずっと恋い焦がれた女性と結婚してまだ日が浅い。彼女を奥さんと呼ぶたびに面映ゆい想いに捕らわれる。

 ふうと息をついた妻は彼に向き直った。

「あなたも、あのとき私が何をお願いしたか知らないでしょう?」

「うん、知らない。覚えてるの?」

 やにさがったままの彼に向かって彼女は少し顎を逸らしながら笑って答えた。

「もちろん。この人が素直になりますようにってお願いしたのよ。あの頃のあなたときたら、思わせぶりな態度ばっかりではっきりしないんだもの。こっちは随分と悩まされたんだから」

 古い話を引っ張り出したら、耳の痛い話まで蘇ってきた。彼は思わず渋い表情を浮かべた。結局、告白するまでには随分みっともない苦悩をしたのだ。

「その日すぐには効かなかったけど、こっちもちゃんとご利益あったみたい」

 夫に構わず続けた妻は殊更に可愛らしく小首を傾げた。

「さっき、なんて言ったの?」

「え?」

「ねえ、もう一回言ってよ」

 深大寺には良い風が通る。焼物屋の店先に並んだ風鈴が一斉に涼やかな音を立てた。


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