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あまい木曜日

「バカにしないでください。よくも『謝る』なんていい加減なことを」


 思いっきり引っぱたいたものだから、杏子は右のてのひらがヒリヒリする。


 引っぱたかれた伸一郎は呆然としている。左頬が痛い。


「迷惑なら迷惑だって言ったらいいじゃないですか。わたしが強引に始めたことなんですから。嘘つくくらいだったら断ってください」


 おにぎりを食べられなかった。

 ただそれだけの事なのに、伸一郎が嘘をついたために杏子の中で妄想が巡り巡って、『おにぎりは迷惑』という結論に辿り着いてしまっていた。


 男として『攻撃』に対抗するわけにはいかないが、矢継ぎ早の『口撃』に伸一郎も受けて立つ。

 杏子に張られた左頬を押さえながら言い返す。


「誰が迷惑なんですか。勝手に決めつけないで下さい。今日だって食べなかったことを謝りに来たんですから」

「そんなことで謝ってもらいたくありません」


「だったらどうしてそんなに怒ってるんですか」

「嘘をついたからですよ。食べたなんて嘘ついて」


「せっかく作ってもらったのに食べなかったなんて言えませんよ」

「言えばいいじゃないですか。そんなことで怒ったりしません」


「怒らないんですか?」

「怒りませんよ。働いていれば予定通りに食べられないこともあるでしょう?」


「それでは俺の気が済まないんです」

「なにがですか?」


 なにがだと? そんなの決まっているじゃないか。


「俺はもう、杏子さんの作った昼飯以外は食いたくないんだ!」


 ああ、そうだ。

 蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食べなかった理由もそれだ。

 気が引けるとか贖罪とかそんなことではなく、ただ食べたくなかっただけなんだ。


 伸一郎は辿り着いた答えに納得した。


 一方杏子は言葉に詰まったが、それは一瞬だけのことで戦いを止める気はない。


「当たり前です。プロですから。美味しいに決まってますから」

「どうして、わかっててそういう言い方するかなあ」


 杏子は穏和な見かけをしていても中身は相当な頑固者。

 伊達に1人で穏やかに慎ましく暮らしてきたわけじゃない。

 一度曲がったヘソはそう簡単には戻らない。

 そんな意固地なところも、伸一郎は可愛いと思う。


 伸一郎は左頬から手を下ろし、杏子に一歩近づいてその手を取った。


「今度は叩かないで」


 世にも情けない言葉を囁いて壊れ物に触れるようにおそるおそる唇を重ねた。

 お互いの唇の感触を確かめ合って、どちらともなく離した。


 杏子はとろんとした目で伸一郎を見上げ、恥ずかしそうに視線を落とす。

 その目に映ったものは放り投げられたままのネクタイ。


「仕事……」


 どうしてそこで現実に引き戻すかなあ、と伸一郎はガッカリした。

 何とか再び夢心地の世界へと杏子を抱き寄せても拒絶の身じろぎをされた。


 キスしても抱きしめてももどかしくて、焦っているのは自分だけなのか。

 こんなときに冷静に仕事の話題を出す杏子に苛立つ。


 苛立ちながらも、つい先ほどの無断休業へのうろたえぶりを思い出した。

 毎日真面目に働いて暮らしてきたからこそだろう。

 愛しくて可愛い。大事にしたいと思う。

 杏子の背中に回した手に力が入る。


 杏子は未だ往生際悪く伸一郎の腕の中でじたばたしている。


「仕事行かないとマズイんじゃないですか?」

「うーーん。俺としてはこのままなだれ込みたいんですけど」

「なだれ込む?」

「聞き返します?」


 呆れた口調で呟きつつ下半身を密着させた。

 杏子の腰のあたりに固いものがあたる。


「ひっ……」


 それがなにかわからないほど、杏子は物知らずではない。

 でも、それでも


「ダメですって!」


 身を引き剥がそうと伸一郎の胸に手を当てて押しやるが、引き寄せられて密着してしまう。


「仕事行ってください」

「今日はこっち優先」

「うそ! 信じらんない! 行ってってば! 早く!」

「この状況で早くとかイッテとか言われると違う意味に聞こえますよ」

「もー! バカですか!?」


 バカで結構とばかりに、もう一度キスをして首筋をペロリと舐める。

 どこに触れれば杏子が気持ち良くなって降参するのか探り始める。

 杏子はこの後に及んでも無駄に足掻くが、結局はされるがまま。


 伸一郎の行動が嫌ではない。それどころか待ち望んでいいたものだから、本気で抵抗しきれない。

 じたばたと足掻くのは「仕事に行かせなければ」という使命感だけ。

 伸一郎は絶対に仕事に行かなければならないはずなのだ。


 しかしそれだけでは、伸一郎と自分自身の欲に勝つにはあまりに無力だった。

 2対0


 耳を甘噛みされて「ん……あぁ……」官能的な声が漏れる。耳にかかる息が熱い。

 杏子は陥落寸前。


「待って……ここじゃ……」


 行為そのものは受け入れる言葉をようやく発した。伸一郎は更に身体を密着させて深いキスをした。舌を割り入れて口内を貪る。

 場所を移す余裕なんかない。

 ここで押し倒したっていいし、立ったまま壁に押しつけておよんだっていい。

 身体を少しだけ離して胸のふくらみに軽く触れると、杏子はひときわ大きく啼いた。


 伸一郎は杏子の声が好きだった。歌を口ずさんでほしいと思ったこともあった。歌もいいけど喘ぐ声はもっといい。


「ダメ……っん」


 気持ちよさに流される。

 杏子の脚の間に伸一郎の脚が割って入り、膝で杏子の大事なところを服の上から擦りあげる。

 喘ぎ声は更に大きくなり、身をよじる。全身の力が抜けて伸一郎に体重を預けてしまう。


 お願い、布団で


 杏子の寝床はベッドではなく布団である。天気の良い日の開店直前に干して閉店後にしまう。

 太陽の匂いがするふかふかの布団。


 布団……? 布団どうしたっけ。

 まさか昨日から干しっぱなし?


 そして寝床である杏子の部屋に行くには必ず居間を横切らなければならない。


 居間!!


 杏子は居間の惨状を思い出した。

 床にゴロゴロ転がる酒の空き缶、ちゃぶ台には食べ散らかしたおつまみ、ワインのハーフボトルは飲みきれなかったはずだがフタをした記憶がない。


 こんな居間、絶対に見せられない!!



 杏子の羞恥心は官能に打ち勝った。

 渾身の力を込めて伸一郎を突き放す。

 杏子の快感をまさぐろうと、力を抜いて優しく触れていた伸一郎は虚を突かれた。


「電話!! 会社に電話してください! 本当に大丈夫だったら続きしましょう!」


 必死なものだから、情緒もヘッタクレもない。

 とにかく自分から伸一郎を引き離し、その隙に猛スピードで片づけるのだ。



 伸一郎もようやく観念した。

 杏子の言うとおり、本来、今日は這ってでも行かなければならない日。


 決算システムの要件定義の第1回打ち合わせ。


 既存のシステムの動作確認と並行して準備を進めていたもので、動作確認はこの要件定義の裏付け調査でもあった。

 資料は既に作成し客先にも配布済み。ついさっき臨時休業の貼り紙に使った紙は、この資料のメモ用の白紙。

 今日欠席したからといって案件がフイになりはしないが、初回を欠席するのは常識的に有り得ない。しかも伸一郎はリーダーなのに。

 だから『外に出られない』欠勤理由が必要だった。


 打ち合わせには木下も参加する。立場はメンバーだが要件定義の内容も熟知している。

 一昨日には「人に仕事を振れ」と説教を食らったばかりだし、これ幸いと押しつけるつもりだった。

 毎日遅い時間までがんばってきたんだから、今日一日くらい快楽に溺れたっていいじゃないかと、開き直っていた。


 今日まで何回デートの機会を逃した?

 2人で出かけられさえすれば、とっくに身体の関係になっているはずだった。

 杏子にその気があろうとなかろうと、伸一郎は抱きたくて仕方なかった。


 しかし、ここまで仕事に行けと言われれば、仕事も気になってくる。

 それに電話をかけて何事もなければ、なんの憂いもなく杏子を抱ける。

 少しくらい憂いがあった方が、より欲情が煽られるけど、とも思いつつ。


 固く勃ち上がった下半身をなだめすかし、頭の中で「仕事モード」と繰り返しながら会社に電話をかけた。




 伸一郎が電話をかけている隙に、杏子は居間に駆けつけて片づけ開始。

 まず窓を開けて淀んだ空気を入れ換える。

 空き缶もおつまみの残骸も一緒くたにゴミ袋に放り込む。

 飲みさしのワインは残りを流しに捨てて空き瓶はゴミ袋。

 ゴミの分別は伸一郎が帰ってからだ。

 ゴミ袋を台所の収納庫の空きスペースに押し込み、洗い立ての台ふきを手に再び居間へ。


 水滴や飲みこぼしでベタベタになったちゃぶ台を拭く。

 畳をほうきで穿く。

 普段から整理整頓を心がけているので、1人宴会を片づけるだけで居間はきれいになった。


 干しっぱなしの布団も寝室に放り込んだ。整える時間はない。

 必要に迫られたときにさりげなく何とかしよう。


 とりあえず惨状は片づいた。

 安堵の溜息をついて伸一郎のもとに戻る。




「どうでし……」

「杏子さん、ありがとう!」


 杏子の台詞に伸一郎の台詞が覆い被さった。

 思いっきり抱きしめられる。


「電話してよかった。俺がアテにしていた人も今日突然休みでヤバかった」

「そうでしたか。ならば早く行かないと」


 残念だけど、との言葉は飲み込む。引き留めてはいけない。

 結果的に中断させてしまったけれど、身体を求められるのは嫌じゃなかった。

 胸の奥がギュッとして嬉しかった。



 杏子の諦めとは裏腹に伸一郎は首を振った。


「午後に着けば充分」


 つん、と人差し指で杏子の胸の先端を弾いた。まだ直接見たわけでもないのに、指先が杏子の気持ちの良い場所に正確にヒットして、杏子は「あんっ」と甘ったるく叫んだ。


 ええっと……これは……続行、ですか。


 気づけば杏子の服の下に伸一郎の手が侵入し、いいように弄ばれている。

 負けじと杏子も伸一郎の下半身の強ばりに手を伸ばす。

 2人して、はあはあと息を切らせ、どこが一番気持ちいいのかを探り合い始めた。


 ああ、せっかく居間を片づけたのに


 杏子の論理的な思考はここで途切れた。

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