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からい木曜日

 杏子は淀んだ空気の中でまどろんでいた。

 頭は痛くて体は気だるい。不快感だらけなのに、そこから抜けだそうともしなかった。


 このまま、まだこのままでいたい。あとちょっと。あともう少しだけ。


 もう少しが5分なのか50分なのかもわからない。

 時間の感覚もなく、ゆらゆらと、たゆたっていた。


 杏子を現実に引き戻したのは、遠慮がちに押されたチャイムの音。

 遠くから近づいてくる足音のように、控えめに何度も繰り返されるチャイム。

 控えめだがしつこかった。


 チャイムに応えずふて寝を決め込んでいた杏子だったが、しつこく鳴り続ける音に根負けしてインターホンに出た。

 旧式のモニター無しのインターホンを相手に、ぼんやりとした声で応える。


「……はい」

『おはようございます。大丈夫ですか?』

「……はい」

『開けてもらっていいですか』

「……はい」


 杏子は昨日の飲酒と眠気で判断力が極端に落ちていた。

 素直にインターホンの相手の呼びかけに従う。

 インターホンから聞こえる声には杏子を意のままに操る力があった。

 声の主にその自覚が無くとも。


 杏子が扉を開けて声の主を見た。


「キャーーッ!?」

「わーーっ!?」


 杏子の叫びに釣られて、声の主の伸一郎も叫んだ。

 通りがかった人が不審そうに伸一郎を見やるが、そのまま行き過ぎてしまった。

 咎められたら面倒ごとになるところだったとホッとしつつ、もしも自分が不審者だったら由々しき状況だとも思った。

 長谷部家の防犯事情はさておき、開いた隙間に伸一郎は身体を滑り込ませて扉を閉めた。


 玄関先で向かい合う2人。

 杏子は状況を飲み込めておらず、表情がないまま伸一郎を見つめている。

 伸一郎は杏子の反応の薄さに不安を覚えて、再びたずねた。


「大丈夫ですか?」

「なにがで……す……? え? えーー!?」


 杏子は覚醒した。

 頭を上下左右に振り、伸一郎を見、自分の胸あたりにも目を向けた。

 服装が昨日のままであることに愕然とする。風呂にも入らず着替えもせずに寝てしまったのか。


「いま何時ですか!?」

「7時30分くらいですね」


 腕時計を見ながら答えた。

 伸一郎は半袖のYシャツにネクタイを締めている。手には通勤カバン。これから出勤のいでたちである。


 杏子は自分が店の準備もせずに寝過ごしたのだと、やっと気づいた。


「うそーー!?」


 自分自身の姿格好よりも先に店の異常事態に気がいくのは、長年1人で店を切り盛りしている杏子ならでは。

 伸一郎は7時30分を過ぎても開いていない店よりも杏子が心配だったので、とりあえず一安心である。


「よかった。大丈夫そうで」

「何言ってるんですか!? 寝坊したんですよ、わたし! もう1時間半も過ぎちゃってる! 何にも準備してないのにっ!」

「ええ、だから中でぶっ倒れてるんじゃないかと心配で。シャッター閉まってるし。俺、今日あや……」


「もう、やだーー!!」


 杏子はとうとう癇癪を起こした。


「今まで寝坊なんてしたことないのに! もうやだ、こんなのわたしじゃない! 無断で休みなんて絶対ダメ!」


 ダメなのはわかっているが、どうしたらいいのかがわからない。

 こんなトラブルは初めてのことだった。


「定休日以外に休んだことはないのですか?」

「ありますけど、ちゃんと予告してました。いきなり休んだことなんかありません」

「すごいなーー。俺なんか突然腹痛くなったりして休むのに」

「うちはわたし1人しかいませんから。代わりなんていないんです。タイトスカートのお姉さんとか」

「は?」

「なんでもないです。とにかく出て行って下さい」

「こんな状況で出て行けないですよ」

「帰ってください。もういいんです。ああ、でもお店ーー」


 慌てて混乱して支離滅裂になっている。


 伸一郎は杏子の目の前でパチンと両手を打った。その音で杏子は我に返った。


「問題は1つずつ片づけましょう。まずはお店ですね。太いペンを貸して下さい」


 杏子は言われるままに、店内のPOP作成で使う太いペンを持ってきた。

 伸一郎は通勤カバンからホチキス止めの書類を出すと、最終ページのメモ用の白紙を破いた。


『申し訳ありません。都合により本日は臨時休業いたします。明日は通常通り営業します』


 通勤カバンの平らな部分の上に残りの書類をのせて下敷き代わりにして、白紙の真ん中に大きな字で書いた。大きい字を書き慣れていないのでバランスが少々いびつだが読めなくない。


「これで大丈夫。とりあえず無断休業ではありません。シャッターに貼ってきますからテープ貸して下さい。それから俺が外に出た隙に鍵かけないでくださいよ」

「……はい」



 伸一郎が戻ってくるまでに5分とかからなかったが、その間に杏子は飛ぶようなスピードで顔を洗い、髪に櫛を入れた。スッピンだがさっきまでのボサボサのヨレヨレよりは随分マシだ。

 洗面台で自分の姿を見たときの叫び声が伸一郎に聞こえなかったことを祈る。

 既に何度も叫び声を聞かせてしまったけれども。今の叫び声が内容も含めて一番恥ずかしかった。



 伸一郎は戻ってきて開口一番「一日ぐらい休んだって大丈夫です。そんなに慌てることではありません」と言った。


 一体誰のせいだと思っているのか、と言い返してやりたいところだが、伸一郎こそ出勤しなくて大丈夫なのかと心配になってしまうのは惚れた弱み。


 それを察したかのように、伸一郎はスラックスのポケットから携帯電話を取りだして電話をかけた。


「おはよ……ござ……います。1課の……国……見です」


 やけに弱々しげに話し出す。どうやら職場に欠勤の連絡をするようだ。


「はい……、もう朝から腹……痛くて、ト……イレから出ら……れないんですよ。今日は……休……みま……す」


 相手の返事を聞いた後に通話をきった。携帯電話の電源を切って、今度はスラックスのポケットではなく通勤カバンにしまった。



「ひと休みしましょう。杏子さんも俺も」


 そう言ってネクタイを緩める。

 その仕草とはだけた襟元に色気を感じて杏子は息をのんで目を反らした。


 秋冬のスーツ姿のときには見たことがないネクタイ。季節に応じた素材や色味を選ぶあたりが、伸一郎らしい。

 ネクタイ姿は久しぶりで新鮮だった。

 新鮮すぎて違和感を覚えた。欠勤理由にも。


「お休みの理由、すごいですね。ふつう発熱とかだと思ってました」


 ドラマの再放送を見て得た知識である。

 商社を舞台にしたオフィスラブのドラマでは、飲み過ぎたヒロインが翌朝「熱があるので」と会社を休んでいた。

(いきなり休めるなんて気楽なもんだ)

 と鼻で笑ったのでよく覚えている。今の自分の状況も同じであることはさておき。

 それに引き替え、伸一郎の理由『下痢』は生々しすぎる。事実だとしてもシモ系は恥ずかしくて隠したいだろうに。何故嘘の理由で使うのか。


「熱程度だと這ってでも来いと言われかねないので」


 それでピンときた。


「もしかして、今日は『這ってでも行かなければいけない』のではないですか?」


 杏子はネクタイを指さす。大事な日だからネクタイを締めているのだろうと。

 伸一郎は何も答えずに、緩んだネクタイを完全に解いて襟から引き抜き、床に放った。


「ネクタイが……」


 床に目を落として俯いた杏子の顎を軽く持ち上げた。

 杏子は目線を強引に変えられて目をぱちくりする。


 杏子の唇を伸一郎の唇がふさいだ。

 玄関先でのキス。


 唇を離して「すみません」と言う。

 それから

「先に昨日のことを謝るつもりだったのですが、家に2人きりだと思ったら我慢ができなくなりました」


 杏子からの返事を待たずに抱き寄せた。


 抱き寄せたつもりだったが、あえなく平手打ちを食らった。

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