にがい水曜日
「昨日おにぎり食べなかったでしょ。お蕎麦屋さんから出てくるところを見ましたよ」
軽く聞いてしまえば済む話だった。
そうすれば伸一郎も
「そうなんですよ。お客さんからクレーム食らっちゃって。こっちは無実だったんですけどね」
と軽く答えただろう。
「でもお蕎麦は食べてません。杏子さんのおにぎり以外、食べるわけないじゃないですか」
ここまで言えれば100点満点である。
翌日、伸一郎が店に来た。
杏子はおにぎりを食べなかったことを責めるつもりは全くない。問いただすような口調にならないように言葉を選ぼうとした。それがあだとなり、この先の諍いのきっかけになった。
「昨日のおにぎり……」
「お礼もまだなのに、いつもすみません。旨かったですよ」
伸一郎は嘘をついた。
杏子は首をかしげた。
おにぎりも食べてお蕎麦も食べたということ?
それで納得してしまえばよかった。それ以上追及するべきではなかった。
それも普段の杏子ならばしない狡っ辛いやり方で。
「おにぎりの梅干は酸っぱすぎなかったですか?」
杏子も嘘をついた。
伸一郎のついたのがごまかすための嘘ならば、杏子は真実を聞き出すための嘘だった。
「そんなことないですよ。丁度よかったです」
昨日のおにぎりに梅干しは入っていない。
伸一郎はまんまと罠にはまり嘘をついて真実を吐き出した。
「そう……ですか」
杏子は声を詰まらせた。
やっぱり食べてないじゃない。
どうして嘘をつくの?
本当は仕事じゃなかったの?
あの女の人とデートしていたの?
伸一郎と女の間には距離があった。男女の近しさを感じなかった。
伸一郎の顔は少し険があるように見えた。それが仕事中の表情だと思った。
自分の目で見た事実よりも歪んだ妄想が杏子を支配する。
伸一郎のたった1つの嘘が、何もかも疑わしく見せてしまう。
「帰って下さい……ちょっと、やだ……」
「え? どうしたんですか!?」
杏子の異変に気づいた。
「いいから! 早く行って! お客様いらしてますから!」
追い返されて、伸一郎は混乱したまま店を後にした。
サンドイッチを買う間もなかった。
*・*・*・*
職場で昼休み開始を告げるチャイムが鳴った。
「国見さん、水曜日なのにコンビニおにぎりッスか。珍しいッスね」
おまえは俺の昼飯チェックが生き甲斐か?
いい加減、そう突っ込んでやりたいがそれどころではない。
今朝のやり取りを思い返す。
自分は変な事を言っただろうか?
「おにぎりと言えば、昨日のおにぎりマジ旨かったッス。握り方がいいんスかね? 具がなくても旨いんスよ」
もうちょっと喋り方なんとかしろよ。それから語彙も増やせ。
と思いつつ、聞き捨てならないことに気づいた。
体ごと上田の方を向いて問いただした。
「具がない!? おにぎりに具が入ってなかったのか?」
「そうッスよ」
「昨日言わなかっただろ!?」
「聞かれなかったッスから。そういうもんかと。旨かったし」
今朝、彼女は「梅干しは酸っぱくなかったか」とたずねた。
伸一郎は彼女の問いかけに調子を合わせて、食べてもいない梅干しの味を答えた。
杏子の態度が豹変したのはそのときだ。
おにぎりを初めてもらったときまで記憶を遡れば、杏子がおにぎりの味について尋ねてきたことは一度もなかった。
杏子の問いかけは伸一郎を試すためのものだったのだ。
それに気づかず、悪びれもせずにしれっと嘘をついた伸一郎は、どれほど滑稽に見えたことだろう。
できることなら時間を巻き戻して「おはようございます」からやり直したい。
伸一郎は会話を打ち切って席を立った。
休憩室に行き携帯電話で杏子に電話する。
午後1時過ぎ。まだ営業中だろうか。
携帯電話は呼び出し音を鳴らし続け、やがて留守番電話サービスの音声ガイドに切り替わった。
*・*・*・*
涙声で伸一郎を追い返した後の杏子の仕事ぶりは散々だった。
注文の聞き間違え、お会計の計算間違いにお釣りの受け渡しミス。
好意的な客は「たまには調子の悪いこともある」と不手際を許してくれたが、そうでもない客からは露骨に嫌な顔をされた。
仕事が遅い、いい加減、こんな印象を一度でも与えれば、リピートはしてくれなくなる。
杏子は今日の半日でどれだけ常連客を失っただろう。
閉店間際の頃には半泣きで、仕事をしながらこんな状態になるのは初めてだった。
杏子は店のシャッターを閉めたあと、習慣となっている片づけ、雑務、明日の準備を全て放棄した。
エプロンを脱いで髪をほどくと、居間に寝転がって天井を見上げた。
涙がとめどもなく溢れてきて頬をつたって床に落ちる。
おにぎりを食べてもらえなかった。
残念に思うけど、そんなことで杏子は傷つかない。
涙の理由は伸一郎に嘘をつかれたこと。
食べてないなら、そう言えばいい。
それを隠して嘘をつくのは後ろ暗い理由があるから。やましいことがあるから。
それが何かまでは思い及ばない。想像もしたくなかった。
それなのに、歪んだいやらしい妄想が次々と浮かび杏子をがんじがらめにする。
杏子は涙を拭ってふらりと家を出た。
いつも通る魚屋の前の道を避けてコンビニに向かう。
今日はおかみのお節介で無遠慮な問いかけを受け流せない。
「いい人」だの何だの言われたら、その場で再び泣き出してしまう。
コンビニの店頭のカゴを手に取り店内を歩く。
女性向けの口当たりのよいカクテルサワーの半ダースパックと、500mlの缶ビール1本、柿の種やあたりめ。目についたおつまみ類を次々とカゴに入れた。
冷蔵棚に塩辛を見つけて、それも入れる。
いつもは魚屋でイカを買い、自分で捌いて作っていたが、今日は何もする気になれない。
全て出来合いのもので、思いっきり手を抜いて、普段やることをやらなくて、普段やらないことをやると決めていた。
今まで繰り返してきた生活パターンを無闇に壊したかった。
「ワインみっけ」
大衆向けで安価なハーフボトルのワインも1本入れた。
カゴの中の量を見ると、とても1人分とは思えない。
コンビニのレジ店員は「今日は宴会ですか?」などと尋ねることなく黙々と精算した。
この無関心さを求めていた。
帰宅すれば、まだ日も落ちていないというのに1人で酒盛りを始めた。
お酒の缶や瓶はちゃぶ台にのせられるだけのせて、残りは冷蔵庫に。
つまみは皿にも盛らずにパックを開けて手を突っ込んでボリボリ。
酒を飲みながら、ちゃぶ台にアゴをのせて1人でくだを巻く。
「会社員ってやつぁ、仕事帰りに酒を飲むわけでしょ? わたしも仕事終わったんだから飲みますよ、グビグビと」
「なーにが『丁度いい』だ。見えすいた嘘つきやがって。バーカバーカ。わたしはね、見ちゃったんですからね」
「ふんだ。2人してよそ行きの格好しちゃってさ。女の人小太りだし。全然キレイじゃないし」
「なにさ2人でお蕎麦なんか食べちゃってさ。ずるいよ。ずるーーい!!」
「わたしだって2人でご飯食べたいんだーー!! バカーー!!」
とうとう大声をあげて泣き出した。グシュグシュ鼻を鳴らす。
「もしかして、あの日にあの人に傘を貸してあげたのかな」
雨の日のずぶ濡れに至る伸一郎のいきさつを知らない杏子の妄想は、とんでもないところに飛んだ。
「土曜なのに仕事に行くみたいな格好で。でも帰る方向に歩いていて、まさか朝帰り!?」
妄想はとどまるところを知らずに泥沼化する。朝帰りなのは間違ってないが、隣で眠りこけていたのは西田で、場所はネットカフェである。
「バーカバーカ、嘘なんかつきやがって。バーカバーカ」
伸一郎を悪し様に罵り杏子は泣きながら眠りに落ちた。